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第1話 ハッタリ王子、訓練場に立つ

 ハイデニア王国の王城に寄り添う訓練場は、まだ朝露が石畳に残るうちから人いきれで白く煙っていた。

 鋼が触れ合う甲高い響き、木槍の鈍い衝突音、砂を蹴る靴底の連打、号令の腹に響く低音――。

 小国の兵は数こそ少ないが、海風に鍛えられた肺と、大地の匂いを吸って育った脚はよく粘る。今日も、汗はまっすぐ地面に落ち、陽光は鎖帷子の継ぎ目で細かく跳ねた。


「――よいか、お前たち。剣は斬るためにだけあるのではない」


 音という音が一拍で止まり、空気が凪いだ。

 兵士たちの視線が一斉に、白い外套を翻して現れた若者へ吸い寄せられる。


 アウグスベルグ・ハイデニアJr.――この国の王太子。

 顔立ちは“普通”と評されるが、その目だけは別格だった。獣に睨まれたときの、喉の奥がからからに乾く感じ。視線ひとつで、呼吸の拍子を半拍ずらされる。


「剣は、命を拾うためにある。落ちかけた命を、土壇場で掬い上げる道具だ」


 意味が分からなくても、分かった気になる。それがこの男の言葉の厄介なところだ。

 整列する兵の背筋が、ごく自然に伸びる。「深い……」「さすが殿下だ」とさざめきが波のように広がる。


(……今日も始まったな)


 訓練場の隅、帳簿を抱えた宰相がこめかみを揉んだ。

 彼は殿下の幼い頃から仕える苦労人だ。細い銀縁の眼鏡の奥の目はいつも冴えているが、胃だけは年寄りのように弱い。


「さっすが殿下だ!」


 場の空気を豪快に割ったのは、騎士団長スラウザーだ。

 丸太のような腕、炭のように黒い瞳、笑うと犬みたいに目尻が下がる。王太子の幼馴染にして、国最強の膂力を持つ男。頭は悪いが心は真っ直ぐ――を体現したような存在。


「つまりだな! 剣は“握ってる奴の命”も拾うってわけだ! 見本見せてやる!」


 彼は木人に踏み込み、上段から一撃。

 みしり――と嫌な悲鳴をあげて、木人が根元からぽきりと折れ、砂を上げて崩れた。


「おお……」「団長すげえ……」


(違う。絶対に違う。今のは“命を拾う”じゃなくて“木を殺す”だ)


 宰相は胸の内で正しいツッコミを入れ、ポケットの胃薬に指が伸びかけるのを自制した。


「……うむ。概ね正しい」


 王太子は平然と頷く。その頷きが妙に堂に入っているせいで、兵士たちはさらにうなずく。


「殿下、つまり、槍でも命は拾える、と?」


「拾える。槍は隣の心を支える柱だ。盾は恐れを受け止める器。弓は見えない場所の孤独をつなぐ糸。――戦は『列』で動く。列の穴を、一人が一歩で塞ぐ。それが命を拾う第一歩だ」


 兵たちの目が輝く。

 宰相は頭の後ろで手を組み、空を見た。雲は薄く、光は強い。胃は少し痛い。


 アウグスベルグは、武芸も魔法もからっきしダメだ。

 だが、言葉で人の心のツボを押すことに関しては、ずば抜けている。いや――正確に言えば、押せてしまうのだ。本人が狙っていようがいまいが。


(《ハッタリ(極)》……)


 宰相は胸の内でだけ、その名を呼ぶ。

 鑑定水晶が殿下の眉間に当てられた日の光景は、今でも鮮明だ。

 淡い青の光が揺らぎ、《幸運(極)》の文字が浮かび、次いで――《ハッタリ(極)》が現れた瞬間。


「公表はできん」


 宰相は椅子を蹴って立ち上がっていた。

 父王――アウグスベルグ・ハイデニア五世は、ほんの僅かに目を細め、口元だけで笑った。


「では《統治(極)》と記せ。――嘘もまた、国を救う道具だ」


 その決定が、この国の明日を作った。

 民は今、**《統治(極)》と《幸運(極)》**を併せ持つ王太子がいると本気で信じている。

 真実を知るのは、父王と宰相と、ごく少数の側近だけ。


(……胃が痛いわけだ)


 宰相はため息をひとつ、喉の奥に戻した。


「質問はあるか?」


 王太子の声に、海辺出の若い兵が手を挙げた。

 潮焼けの褐色の肌、耳の後ろに小さな貝殻のお守り。


「殿下。俺たちのスキルが“並”でも、戦場で通用しますか?」


 兵の列の緊張が、ぱんと張る。

 宰相は王太子の横顔を盗み見た。頼む、慎重に――。


「“並”が並で済むのは、己だけを見ているときだ」


 王太子は指先で若者の槍の石突をちょんと弾き、軽く笑った。


「お前が“並”でも、隣に“良”がいれば引き上げられる。三人で“秀”に届く。十人で肩を並べれば、“特”に触れる。国家とはスキルの合算。そして合算を可能にするのが、信じる心だ」


 砂の上にぽつ、ぽつと落ちる汗の音がやけに大きく感じられた。

 スラウザーが感極まって拍手し、兵がそれに続く。

 宰相は胃薬を諦め、代わりに羊皮紙を開いた。


「補足だ、諸君。数字で覚えろ」


 宰相は平板な声で語る。


「《極》は百万人に一人。ハイデニアの人口は八百万。つまり国内に八人程度。《特》は一万人に一人、《秀》は百人に一人、《良》は十人に一人、《並》は半数、残りが《劣》。――この意味が分かるか? 殿下が二つの《極》を持つというのは、統計を無視した“出来事”なのだ」


 兵たちがどよめいた。

 スラウザーは胸板をどんと叩いて叫ぶ。


「だから殿下はすげえんだ!」


(違うとは言わん。だが違うんだ。中身が違うんだ……!)


 宰相は心で叫び、口では微笑んだ。


「……訓練を続けろ。三人一組――剣、槍、盾で互いの背を守れ。列が穴を開ける前に、一歩で塞げ」


 王太子が合図を送ると、訓練場は再び熱を取り戻した。

 剣が鳴り、掛け声が重なる。

 王太子は砂を踏みしめ、列の間をゆっくり歩き、肩に手を置き、目だけで「できる」と告げていく。

 その目を受けた兵は、嘘みたいに指先の震えが止まるのだ。



 ふいに、金属の軋む悲鳴が、陽光の中に裂けた。

 的台の支柱が、ぐらりと傾いでいく。

 台の下には、弓を手入れしていた若い兵がいた。


「退け――!」


 スラウザーが地を蹴る。

 だが重さのあるものが倒れる速度は、いつも予想より速い。間に合わない。宰相の喉が音にならない音を発した。


 王太子は、袖を宰相の指からすっと外し、右手を掲げた。


「ここには結界がある」


 彼の声が空に触れた瞬間、海から吹き上がる風が訓練場の隅で渦を巻いた。

 傾ぎ切る寸前の台の角度が、ほんの指先ぶんだけ持ち上がる。

 スラウザーはその一瞬に滑り込み、若い兵を抱え、砂を弾いて転がった。

 台は空を切り、がしゃ、と鈍い音で地面に沈む。

 矢束が弾け、一筋が王太子の胸元へ飛ぶ。

 外套の内側で薄い護符がぴりりと光り、矢は裾をかすめて地に縫い留められた。


 沈黙。

 次いで、爆ぜるような歓声。


「殿下が結界を――!」

「やはり《統治》と《幸運》の極だ、国が守られている!」


 助けられた若者は泣きながら王太子の手を掴んだ。

 王太子は彼の肩に軽く触れ、言った。


「怖かったな。だが、命は拾える」


 宰相は石畳に腰が抜けるのをなんとか堪え、胸の内で王妃に感謝した。(護符を仕込んでくださって、ありがとうございます、王妃様……!)


 スラウザーが王太子の肩をわしっと掴む。


「殿下はやっぱり結界が張れるんだな!」


「……うむ。張れてしまったようだ」


(その言い方やめろ、と何度言えば)


 宰相は天を仰ぎ、そのまま砂に倒れないよう、足の指に力を入れた。



 午前の訓練は、普段よりも熱く、そして早く終わった。

 兵たちの笑い声が高い。水桶の周りには人だかりができ、「殿下の御言葉」を反芻する輪がいくつもできている。


「剣は命を拾う……か」

「俺、今日から『穴を一歩で塞ぐ』を意識するわ」

「三人で“秀”、十人で“特”……いい響きだ」


 宰相は木陰のベンチで帳簿を開くふりをし、実際は胃の位置を手で探っていた。

 王太子が隣に腰を下ろし、空を見上げる。


「宰相。海は見えるか」


「この位置からは塀が邪魔で」


「なら、今度は浜で訓練だ。波の合わせ方は、盾の合わせ方に似ている」


「……そういうことを仰るから、誰もが殿下を“何でも知っている”と誤解するのです」


「知っているふりをしているだけだ」


「存じております」


 ふっと、二人の口元に同時に笑いが灯った。

 その時、砂利を蹴って、スラウザーが影を落とす。


「殿下。俺、考えたんだがよ」


「珍しいな。言ってみろ」


「殿下が“結界”を張るなら、俺は“ふち”になる。俺が一歩前に出て、殿下の言葉が届く範囲を広げる。列の端に俺が立つ。どうだ!」


 宰相は咳と笑いを同時にこらえた。(無茶苦茶理論だが、実際、彼が前に出ると兵は怯えない。場の空気の“縁取り”にはなる)

 王太子は肩を竦め、目を細める。


「いいだろう。お前が縁で、宰相が柱だ。私は天幕の布でいい」


「布かよ、殿下」


「風が吹けば膨らむ」


「……風任せに聞こえます」


「宰相。私は《幸運(極)》だ。風は吹く」


 宰相は胃の位置をもう一度押さえたが、胸の内の温度はふっと上がっていた。

 この男の言葉は、場を動かし、人を勝手に“配置”する。

 魔法でも剣技でもないのに、確かに世界に触る力だ。



 昼過ぎ。城下町は市場の日で、通りが魚と野菜の匂いでいっぱいだった。

 訓練場の噂は、もう路地の角まで飛び、店先まで届いている。


「殿下が結界を張ったって!」

「やっぱり“統治”と“幸運”の二つの極を持つお方は違うねえ」

「うちの子が兵になったら、殿下の隊に入れてもらえるかしら」


 天秤棒を肩にかけた魚売りが笑う。


「殿下の言葉、効くんだよ。先月“船は互いの音を聴け”って言ってたろ? それから港の衝突が減ったんだ」


「そりゃ見張り台を増やしたからだろうよ」


「でも殿下が言うと、皆が“やろう”って顔になるのさ」


 噂は時に事実より強い。

 王太子の“存在の仕方”は、民の心に灯を点ける。灯が灯れば、人は自分で周囲を明るくし始める。


 一方そのころ、城の高窓の奥――父王の政務室では、静かに時間が流れていた。

 アウグスベルグ・ハイデニア五世は、肘を机に置き、指先でこめかみを押さえている。

 彼の視線は窓の外、海の方角に伸び、戻らない。


「……どうでした、殿下は」


 侍医が問うと、父王は薄く笑った。


「なるようになる。――あの子はいつも、なるようにしてしまう」


 侍医は首を傾げ、しかしそれ以上は問わなかった。

 王は優秀だ。だが三つの大国の顔色を読み続けて、神経が磨り減っている。

 息子の“統治”と“幸運”の噂が、城の空気に少しだけ新しい酸素を混ぜていた。



 午後、城門の警備に交代が入り、見張り台から伝声管の声が落ちてくる。


「東の関所より早馬、使者一行、城下へ!」


 門番たちの背が自然と伸びる。

 布包みを背負った商人が道端に寄り、子どもが母親の手をぎゅっと握る。

 来訪の旗印は、隣の大国のものだった。


 彼らの間でも噂は届いている。

 「小国ハイデニアの王太子は《統治(極)》と《幸運(極)》を持つらしい」と。

 そして、別の言葉も一緒に運ばれてきた。


 ――どうせ虚勢だ。

 ――国力差は埋まらない。


 嘲笑はいつだって遠くからやって来て、近くで刺さる。

 だが、嘲笑が届く前に、信じる声が城の内側でうねりになっていた。



 訓練を締めた直後、侍従が砂を蹴って駆け込んだ。


「殿下! 隣国より使者が到着。陛下はご静養中ゆえ、まず殿下に――」


 宰相の心臓が跳ね、スラウザーが拳を握る。

 王太子は外套の裾を払って立ち上がり、口元に笑みを浮かべた。


「よし、行こう。命を拾いに」


「護衛は倍に。礼砲の準備を。応接は南の塔、一段格上の設えで」


 宰相は矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、横目で王太子を盗み見る。


「殿下。――本日ばかりは、風任せの“結界”はやめてください。言葉で張るにしても、張りっぱなしは胃に悪い」


「分かっている。今日は“統治”として話す」


(中身は《ハッタリ》だがな……!)


 宰相の胃がもう一度、きゅっと縮んだ。


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