母の愛は無限じゃない
「エルヴィラ様。お手紙が届いております」
「まあ……またなの?」
溜め息を吐きつつメイドから受け取った手紙を開く母。
その表情から、いつもの彼からの手紙であろうことは察しがついた。
母は全く興味のなさそうな顔で中身を一瞥し、それを暖炉へと放り込んだ。
***
幼い頃の私にとって、家とは常に緊張を強いられる場所だった。
家族はたくさんの店を抱える商人の父グンター・ベレント、男爵家から嫁いできた母、それに祖母と兄の四人。
私は母の実子ではない。父が愛人に産ませた子供だ。
実母は私を産んだ後、別の男性のところへ嫁いだらしい。だから私は彼女のことを覚えていない。私にとって母とは、父の正妻であるエルヴィラ母様だけだ。
彼女は血のつながらぬ私へ愛情を注いでくれた。優しく、時に厳しく。
その一方で、父と祖母は私に全く興味を示さなかった。彼らは正妻の実子であり、かつ跡継ぎである兄にしか興味がなかったのだ。
そして、私より二つ年上の兄フランツは――暴君だった。
彼は私を、使用人以下の存在と思っていたようだ。私に声をかけるときは「そいつ」と呼び、ありとあらゆる嫌がらせをされた。肉体的にも、精神的にも。服を破かれ、池へ突き落とされるなど日常茶飯事だった。
私は常に兄を怒らせないように、目に付かないようにとビクビクしながら暮らしていた。
母はそんな息子を厳しく叱ったが、効果はなかった。叱られた時はシュンとするのだが、孫に甘い祖母が庇うからだ。祖母の背後で勝ち誇った顔をする兄の姿を、今でも覚えている。
ある時私は兄に階段の上から突き落とされ、転がり落ちて怪我を負った。いつものように兄を庇う祖母に対し、さすがの母も怒り心頭で食ってかかった。
「息子を甘やかさないで下さい!妹にこんなことをするなんて……子供のうちに、してはならないことを教えるべきです」
「フランツは悪くないわ。どうせ、フィーネが何か怒らせるような事を言ったのでしょう。愛人の子の肩を持つなんて、貴方、それでも母親なの?」
母はぐっと言葉に詰まった。私の手前、どう答えるべきか悩んだのだと思う。祖母はその隙に「フランツ、あっちでお菓子を食べましょうね~」と兄を連れて行ってしまった。
母の実家であるレッチェルト男爵家は、立ち上げた事業がなかなか軌道に乗らず借金を抱えていた。それを肩代わりしてもらう条件で、母はベレント家へ嫁いだらしい。
祖母が母を嫌っていることは、幼い私も薄々気付いていた。彼女はいつも母のことを「私たちを見下している。お高く止まってる女」と貶していたからだ。
そして父は常に祖母の味方だった。母との仲は冷え切っていたように思う。父は貴族出身の妻が欲しかっただけなのだろう。長男が生まれた後は母に興味を無くし、外に幾人もの愛人を囲っていたらしい。
母は実家のために、ひたすら耐えていたのだ。
兄が十歳を過ぎる頃には、全く母の言うことを聞かなくなっていた。
好き嫌いが多く、食べたいだけ食べるため肥え太っている。行儀作法は全く身についておらず、言葉遣いは荒い。母のことは「オバサン」と呼ぶ。ちなみに私のことは「ブサイク」である。
それを聞いた祖母は「フランツの言うとおりよ~。貴方、最近老けたんじゃない?」とケラケラ笑い、父も一緒になって笑った。
母は下を向き、口を噛んで耐えていた。
大人になった今なら分かる。彼らが兄にしたことは、優しい虐待だ。
どれだけ母親が厳しく躾けようとも、他の大人が甘やかせば子供はそちらを正しいと思ってしまう。その方が、自分にとって都合が良いからだ。
「フィーネ、母様はこの家を出ようと思うの」
私が十一歳になった頃、母が突然そんなことを言い出した。
実家の事業がようやく軌道に乗り、肩代わりしてもらった借金を返す目途が立ったらしい。
婚家における母の窮状を以前から案じていたレッチェルト男爵夫妻は、母一人くらい面倒を見るから離縁して戻って来るように勧めたそうだ。
「両親はフィーネも連れて来ていいと言ってくれているの。貴方が良ければだけれど」
「私、お母様と一緒にいきたい!」
選択肢なんてなかった。この家から出られるなら、どこだっていい。
「お兄様はどうするの?」
「あの子は、この家の方が良いらしいから」
兄にも聞いてはみたけれど、「一人で行けよ」と言われてしまったそうだ。
私は内心ホッとしていた。これで、あの暴君から離れて暮らせる。
父は離縁に賛成した。入れ込んでいた若い愛人に子供が出来たため、そちらと再婚する心づもりらしい。
祖母は「借金を肩代わりしてやったのに!恩知らずね」と怒っていた。嫌いな嫁がいなくなるというのに、何でそんなに腹を立てていたのかは分からない。
「口うるさいオバサンがいなくなって、せいせいするなあ!」
荷造りをする母と私の所へやってきた兄が、ニヤニヤとしながらそう言った。去っていく実の母に対して気遣いすらない。その態度にイライラした私は思わず言い返した。
「そんなこと言っていいの?もう二度と、お母様に会えないかもしれないんだよ!」
いつも大人しく虐められていた私が逆らったことに、兄は激昂した。憎々しい目で睨み付けながら、「お前みたいな醜い女、あっちの家でも嫌われるだろうよ!」と手当たり次第に物を投げつけてくる。
母は何も言わず、私たちを引き離した後はまた荷造り作業に戻った。
出立の際、家族は誰一人見送りに来なかった。数人の使用人に見送られ、私たちはベレント家を後にした。
レッチェルト男爵家での暮らしは、私にとって天国のようだった。
この家には、私を貶めたり虐めたりする者はいない。祖父母は血の繋がらない私を本当の孫のように可愛がった。伯父夫婦は貴族学院へ通わせるためにと私を養女にしてくれたし、従兄たちは「妹ができた」と大喜びで色々な遊びを教えてくれた。
私は生まれて初めて、家とは心安らぐ場所なのだと知った。
祖父は母へ再婚を勧めたが、彼女は断って独身を貫いた。当人曰く、もう結婚はこりごりだそうだ。
私が学院へ通うようになって暇が出来ると、知り合いの資産家の依頼でご令嬢の家庭教師を務めたりして過ごしていた。
それから数年が経った頃だろうか。突然、兄フランツが我が家を訪ねてきた。
久々に目にした彼は、横に大きいサイズは相変わらずだが、何だか窶れているように見えた。服はサイズが合わずぴちぴちだし、髪は伸びてボサボサだ。私たちが家にいた頃は、いつもピカピカの服を着ていたのに。
「ごきげんよう、フランツお兄様」
「……まさか、フィーネか!?」
淑女らしく完璧なカーテシーをする私。それを見つめる兄の顔は、ひどく歪んでいた。
もう、以前のオドオドとしていた私はどこにもいない。
自分がまあまあの容姿であるということは、この家に来てから知った。それに貴族学校へ通って教養と行儀作法を学び、男爵家の令嬢として多少は自信もついた。
一方で躾もなっておらず、醜く肥え太った兄。愛人の子と見下していた私が自分より格上の存在となった事を知り、プライドの高い彼はさぞ悔しかっただろう。
兄は私を無視し、母へ向かって話し始めた。
新しい継母は我が儘な兄を嫌っており、自分は家の中で居場所がない。父は妻のいいなりで、祖母は痴呆となって頼りにならない。
さらに、継母の産んだ子供は男だった。彼女は自分の息子を跡取りにしたいらしく、兄を遠い寄宿学校へ追い出そうと画策している。ちなみにその学校は規律が厳しいことで有名だ。
そんなことを切々と訴える。
それを聞いて「あらまあ、大変ねえ」と他人事のように答える母に、兄は怒り出した。
「何だよその態度!息子がこんな酷い目に遭ってるのに、もっと言う事は無いのか!?」
「あら、私の事なんて母親と思わないと言ったのは貴方でしょう」
「……っ、あのときはそう思ってたけど……今は違う!母様、俺もこの家に置いてよ。あんな家にいるより、ここの方がマシだ」
「貴方、貧乏男爵家に行くなんて真っ平じゃなかったかしら?貧しい食事しか食べられないんだろう、服もツギハギだらけに違いないとも言っていたかしら」
過去の自分の暴言を並べ立てられ、青くなる兄。
そんな彼に、母はきっぱりと「この家に貴方の居場所は無いわ。帰ってちょうだい」と伝えた。
「何でだよ!?俺はそいつと違って、母様の本当の子だ!フィーネを家へ送り返せばいいじゃないか。母様の子じゃないんだから」
そう言い放った兄を見る母の表情は、今でも忘れられない。
そこに私の知っている、厳しくも優しい母はいなかった。ひどく冷酷な、まるで虫けらを見るような目。母のあんな顔は、後にも先にも見たことがない。
「貴方が私を母親とは思わないように、私も貴方のことを自分の子供とは思ってないの。私の子供は、フィーネだけよ」
母の冷たい答えを聞いた兄は呆然としていた。常に自分へ慈愛深く接してきた母の変貌が、信じられなかったのだろう。
その後もあれこれと訴えて縋ろうとしたが取り付く島もなく追い出され、兄は泣きながら帰って行った。
結局、兄は寄宿学校に入れられた。だが同級生と諍いが起きて暴力を振るい、退学になったそうだ。
家に戻ってきたものの離れに押し込められ、引き籠っているらしい。
何故そんなに詳しいかというと、兄が逐一手紙で知らせてくるからだ。
彼は自分が如何に辛い状況にあるかを訴え、最後には必ず「母様と一緒に暮らしたい。俺を迎えに来てくれ」と書いてある。
『あいつら、俺を太ってると馬鹿にしたんだ。だからちょっと小突いてやったら退学になった。あんな学校、行きたくなかったからいいけどな!』
『せっかく家へ戻ったのに、離れへ行けと言われた。使用人は二人しかいないし、食事は少なくて全然足りない』
『父様の仕事を手伝うようになったよ。偉いだろう?』
『父様にひどく怒られて、もう手伝いは不要と言われた。ちょっと失敗しただけなのに……。父様は弟ばかり可愛がって、俺に冷たいんだ』
『弟を跡取りにするって言われた。何でだよ!俺は長男なのに!』
『ここは寂しい。誰も俺を見てくれない。母様だけが俺を叱ってくれた。愛してくれた』
『何で返事をくれないんだ。何で何で何で何で何で……』
自分の置かれた状況を嘆くだけで母への謝罪が一切書かれていないのは、全くもってあの兄らしいと思う。
***
私はその後、伯父夫婦の勧めで知り合いの男爵家へ嫁いだ。夫も義父母も、平民出身の私を差別することなく迎えてくれた。平凡ながらも幸せな生活だ。
母は以前担当した家庭教師の評判が良かったらしく、下位貴族や金持ちの商家から「うちの娘にも」と声がかかるようになった。今も数人のご令嬢を指導している。
「素直で可愛い子ばかりよ。遣り甲斐があるわ」と嬉しそうに笑っていた。
兄は未だに手紙を送り続けてくるらしい。
叔父夫婦を通して迷惑だからもう送ってくるなと伝えたのだが、家人の目を掻い潜って送って来るそうだ。
何通出したところで返事は来ないことに、いいかげん気づいてほしい。
今は、私も子を持つ身となった。
我が子は愛しい。自らの命に替えても守りたいと思うほどに。
だけどあの日の冷たい母の顔を思い出すたびに、背筋が寒くなる。
自分があの頃の母のように子から蔑まれ、毎日のように罵声を浴びせられたら……私も母のようになってしまうかもしれない。
兄はいつか気付くのだろうか。
優しさや思いやりを受け取っておきながら、自らはそれを返さない。それは愛情の搾取だ。
そして一方的に奪われ続けたものは、いずれ枯れ果てる。
母の愛にも、限りはあるのだ。
母視点の話「私の愛は枯れました」(https://ncode.syosetu.com/n0539jd/)を投稿しました!