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碧と陽翔とこいごころ




 ただただ優しい世界だった。

 焦燥も緊張も恐怖も制約もない。

 時間がゆったりと流れていく。

 時間の存在すら曖昧になり空ろになり忘れていく中。


 名前を紡がれていくにつれて、妙な感覚がした。

 ゆるやかに解かれていくような。

 はがされていくような。

 分解されていくような。




 ゆっくり、ゆっくりと。

 陽翔自身も、碧自身も。




 呼び方が変わった、と気づいたのはいつ頃だったか。

 まだ空の色が暗かったような気もするし、薄暗かったような気もするし、薄明はくめいだったような気もする。

 ふと、消滅していた時間の存在をゆっくりと思い出しては、今日の大学は何限目からだったっけとぼんやりと考えた陽翔は、自分の指が濡れていることにも気づいた。

 碧の頬を軽く引っ張っている親指と人差し指と中指だ。

 その三本の指を伝って、掌の縁も手首も濡らしていく。

 涙が、ゆっくりと。




「陽翔ちゃん」




 まだ足りないと、陽翔は切望した。

 まだ名前を呼び続けてほしかった。

 二限目の講義に出席するために家を出なければいけないギリギリの時間まで。

 睡眠も朝食も抜いて、大学までは片腹痛くなるのを覚悟で猛ダッシュで行く。

 だから。




 名前を呼んでと乞い続けた。











(2023.11.29)




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