大賢者
「いいだろう、お前を私の下僕にしてやろう」
目の前の少女が宣った。
いいわけあるか!と食ってかかりたいのに、体は動かない。
自分の体が本能で悟っているのだ。
コイツに逆らってはならないと。
見た目は10歳ほどの美しい少女。
腰まである真っ直ぐな黒髪。そして左右で違う色の瞳、血のように深い紅色と冴え冴えと光る青色の虹彩異色症の瞳が、少女の底知れ無さを演出している。
子供の姿とは裏腹の圧倒的強者。
ずっと探していた存在。
やっと出会えて、これでようやく望みを叶えられると思ったのに。
なんで?どこで俺は間違った!?
自問自答しても答えは出ない。
でも、もしかしたら目の前の少女なら、その答えすら知っているのかもしれない。
なにせこの少女は、此の世の全ての理を知り尽くしたと謂われている、大賢者なのだから。
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影の濃い森の中をタケルは慎重に歩いていた。
道と呼べるようなものは何もない。
苔に覆われた地面に所々木の根が顔を出していて、ただ歩いて進むだけでも一苦労だ。
ふと嫌な予感がして近くにあった木の影に身を隠す。
少し離れた上空を飛ぶ、大型の鳥のような影が近くを通り過ぎていった。
鳥型の魔獣、怪鳥だ。
気配を殺して、怪鳥が行き過ぎるのを待つ。
十分離れてから再び歩き出した。
目的地まであと少しのはずだ。
こんな所で見つかるわけにはいかない。
慎重に歩を進める。
タケルは大賢者の棲家を目指して通称『賢者の森』と呼ばれる森を歩いていた。
大賢者。
それは伝説などでも語られるほど有名な人物。
人類の叡知を極めた存在。
しかも、会えばその知識を惜しげもなく貸してくれるという。
単身で危険を冒して森に入って数日、ようやく大賢者の棲家に辿り着こうとしていた。
大賢者は、人里離れた場所で隠居生活を送っている。
その場所は別に秘密にされているわけでもなく、簡単に知ることが出来た。
しかし、行き着くには容易ではない。
人が立ち入るのを拒んでいるとしか思えない断崖絶壁の谷を越える必要があったり、魔獣や魔物が棲む森を通り抜けなければ辿り着かないのだ。
そう簡単には大賢者の知恵を借りることなど出来ない、そういうことなのだろう。
魔獣の棲む森は緑が深い。
人が住むのに適しているとは到底思えない場所だ。
いくら隠居生活をしているとはいえ、こんな場所に住むなんて、大賢者はよほど偏屈な人物なんだろうか。
つい、不安が過る。
そして。
ふと木々の先に光が見えた。
タケルは逸る気持ちを抑えて慎重にそちらに向かう。
急に明るい場所に出て目を眇めた。
そこは、それまでの道程が嘘のように穏やかな空間だった。
何か、危険なものを寄せ付けない結界のようなものがあるのかもしれない。
今までの濃い森が嘘のように、広く開けた場所は草原になっていて所々には花も咲いている。
それまでの緊張とは打って変わった長閑な雰囲気に少し呆然としてしまう。
草原の中央に、こじんまりした家が建っていた。
大賢者の棲家にしては些か質素すぎる外見。
小屋という程ではないが、そこそこ大きな町長の家とかの方がもっと立派な建物だから、本当に庶民の普通の家という感じだ。
こんな辺境でも大賢者の家ならば、もっと立派で頑丈な造りの家があるのだと想像していたから、ある意味拍子抜けした。
まあ、逆にこんな場所に普通の家があることの方が違和感なので、住んでいる者が普通ではない証明のようなものだけど。
やっと目的の人物に会える。
タケルはゴクリと緊張で喉を鳴らして唾をのみ、慎重に家に近づいた。
扉の前で、なんと声をかけようか少し迷ったとき、突然、扉がこちら側に開いた。
咄嗟に身を引いてぶつかるのを避ける。
扉はバンっと音を立てて壁にぶつかって、勢い余って戻って閉じかけた。
「あっぶねっ・・・つーか、なんて勢いだよ!?」
思わず文句が口を出る。
そして扉を開けたと思われる人物を見て目を丸くした。
「なんだお前は?」
そう声をかけてきたのは可憐な少女だった。
無造作に下ろした真っ直ぐな黒髪に、子供特有の少し丸みを帯びた頬。
じっとこちらを見上げる瞳は、向かって左が澄んだ空のような青、右は血のように深い紅色でドキッとする。
何より、それがなくても今まで見たこともないくらいの美少女だ。
驚きと共につい見惚れてしまう。
しかし、不意にその口角がニッと上がって、一瞬で可憐なイメージが吹っ飛んだ。
そしてタケルの本能が警鐘を鳴らした。
ヤバい、逃げろと。
咄嗟に後ろに跳んで距離を置こうとした。
しかし、それはかなわなかった。
少女が手を上げてタケルの胸の辺りを軽く押したのだ。
跳ぼうとした一瞬のタイミングで。
それだけで力が入らず、腰が抜けたように地面に尻餅をついてしまう。
手を地面につき上半身を起こした状態で、今度はタケルが少女を見上げる形になった。
一瞬、何が起こったのか理解できず呆然としていると、少女は突然、倒れたタケルの足に馬乗りになって顔や頭を無遠慮に撫でてくる。
まるでなにかを確かめるように。
「珍しいな、お前。シルバーウルフか」
突然の行為に思考が停止していたタケルは、その言葉に我に返る。
「なんでわかった!?」
つい叫んで、ハッとなる。
それは肯定の言葉だと自覚したからだ。
少女は少し驚いたように目を丸くして、ふふっと笑みを溢した。
急に年相応の子供のような笑顔。
「お前、自分がここになにをしに来たのか忘れているのか?」
可笑しそうに笑っていた少女は、言うと今度は口角を上げて意地の悪い笑顔を見せる。
それを見て、タケルは自分がまた見惚れていたことに気付いた。
なんだか悔しくなってそっぽを向く。
「忘れてないよ。・・・あんたが大賢者なのか?」
確信をもって、ただしどうしても疑う口調になってしまう。
本能は只者じゃないと明確に告げていても、目の前の、どう見ても子供という歳にしか見えない少女が、伝説にもなる大賢者だとは受け入れ難かったのだ。
「大賢者か、そうだな最近はそう呼ばれているようだな」
肯定ともそうでないともとれる言い方にタケルは首をかしげる。
「違うのか?」
「いや、合っているよ。お前の目的が私だということに間違いはない」
やっぱり肯定とは違う言葉のような気もするが、目的で違いないというのは自分の本能も告げているので本当だろう。
「で、お前は何が知りたいんだ?」
訊かれて、つい視線を合わせてしまい、大きな瞳にかかる長い睫毛の1本1本まで見える至近距離の美少女に、どぎまぎしてしまう。
だって大賢者は未だに馬乗りになって、人の髪の毛をまさぐっているのだ。
「とりあえず、退いてほしいんだけど・・・」
つい視線を落として懇願する口調になる。
「そうよ、アリス! 女の子がはしたない!」
と、思わぬ場所から援護の声が聞こえてきた。
それは建物の中からだった。
大賢者は途端に顔をしかめると「エリーは口煩いなぁ」とぼやきながら、ようやく降りてくれた。
タケルは直ぐに立ち上がり、無意識にブルッと震えたあと、尻についた土を払う。
それを見て大賢者はタケルに向かって手を翳した。
小さい魔方陣が目の前に浮かび上がる。
え?
逃げる間もなく、パッとタケルの体が軽く光った。
光が消えると尻についた土汚れどころか、ここまでの道程で染みついた汚れすら無くなってになっていた。
草臥れた生地までは復活していないが、洗濯したてのような清潔な状態になったのだ。
いや、それどころか身体の汚れすら綺麗になったような?
魔法だ。
しかも信じられないくらいの高等魔術。
汚れをきれいにする魔法は一般的にあるにはある。長く旅をする商人や冒険者にはある意味必須の魔法だ。
だが服ひとつを綺麗にするにも、人間が着たままとなると制御がめんどくさい。洗濯物を魔方陣に置いて範囲を固定して行うのが普通だ。
それをどうやったかわからないが、手を翳すだけで魔方陣を出し、呪文すら唱えずに行うとは。
通常の場合、魔法は先に用意した紙などの物に書かれた魔方陣に魔力を流して発動するか、魔力を込めた呪文を詠唱することで魔方陣を展開し発動させることができる。
ちなみに魔方陣を使った魔法よりも呪文での魔法の方が難しい。
ただ大賢者のそれはその域を超えているとしか思えなかった。
そもそも強い魔力を持ち、それを使える人間はそれほど多くはないので、魔法使いというだけでも希少な存在だ。
そうだ、大賢者はただ知識が深いだけではない、魔法使いとしても超一流なのだ。
やっぱり大賢者はすごい。
これなら誰からも無謀だと嗤われた自分の望みも叶うかもしれない。
驚きと共に湧いた希望に、今までの苦労が報われると喜んでいると、先に建物に入っていった大賢者に呼ばれる。
「遠慮せずに入ってこい」
遠慮していたわけじゃないんだけど。
思ったが、口にせずに転んだ時に落ちた荷物を拾って中に入ると、そこは想像以上に狭い空間だった。
ベッドに簡素なテーブルと椅子が一脚、壁の全ては本棚になっていて、窓もない。
日中でも暗いからか、昼下がりだというのに既にランプが灯されていた。
奥に続く扉はあるが、窓もなく入って直ぐが寝室という斬新すぎる間取りに、変な家という印象しかない。
しかも。
先ほど声が聞こえたのに、中には大賢者一人しかいなかった。
なのに。
「アリス、ダメよ。初対面の男の子にのし掛かるなんて」
「だって、珍しいだろ? 文献では読んだことあるけど、実際見るのは初めてだし。久しぶりに面白い研究対象に会ったんだから逃げられたくないだろ」
大賢者以外の声がして、しかもなにか不穏な会話に、またもや本能が逃げろと告げる。
咄嗟に踵を返して外に出ようとしたのだが、目の前で扉がバンっと音を立てて閉まった。
さっき、扉が開いたときと同じ勢いで、ひとりでに。
たらっと冷や汗が流れる。
「逃がさないよ」
ビクビクと振り返ると、今度はニコニコと文字通り怖いくらいの満面の笑みで。
無意識に出てしまっていた尻尾がきゅっと丸まって、存在を主張した。
驚くとたまに出てしまう尻尾と獣の耳。
養母に何度も注意されて、10歳になる頃にはコントロール出来るようになっていたのに。
大賢者の前では隠しても意味はないのだろうけど。
それを見た大賢者の紅青の瞳が、爛々と輝いていて。
やっぱり失敗したとしか思えなかった。
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アリスのヘテロクロミアはけっこう重要な意味があって、彼女の色彩にはけっこう悩みました。