1話 目が覚めると……体が濡れていた!
本編開始です。
まだまだ導入ですが、よろしくお願いします。
爽やかな緑のにおいがする。
その匂いに体が内側から洗われていく気がする。
体の中からいらないものが排出されるような開放感。
耳を澄ませばあの時と同じように鳥の声が聞こえてくる。
肌には涼しい風が柔らかく当たるし、なんとも気持ちいい。
きっと今オレは森とか山とか、そんな感じのところで寝ているんだろう。
地面の多少のゴツゴツ感までもが、なんだかツボを刺激してくれるようで心地いい。
一つだけ気になることといえば、ズボンを中心として背中が濡れているのが気持ち悪いことかな。
でも心地良さにくらべれば、多少濡れていることくらい、我慢できる。
そう、多少濡れていることくらい。
濡れている……
ん? なぜ?
なぜ下半身を中心に、服が濡れている?
急激に冷めてくる意識の下、謎の直感にナニかを確信し飛び起きる。
制服のズボンが足に張り付く気持ち悪い感触。
やばい。これはやばい。
高校2年、17歳……この歳にもなってやらかした!?
とっさに頭に巡るのは幾千の言い訳。
どうすればこの状況を乗り切れる。
どうすればバレずにやりきれる。
どうすれば今日履くズボンを乾かせる!?
と、そんなことを考えているとそれ以上の違和感に気がついた。
辺り一面を木々に取り囲まれている。
まさに森。英語で言うとフォレスト。
なんかやたら深い緑だけどここはどこ、私は誰?
オレはなんで森で眠っていたの?
人間、意味がわからない状況に陥ると力が抜けるものだ。
ヘナヘナとその場にへたり込んでしまう。
湿り気を帯びた土の感触がどこか懐かしい。
よく見れば土の上をわずかに水が流れている。
うまくオレの下半身だけがその水の上に倒れていたらしい。
ということは……オレのこのズボンの濡れ感もきっとこの水のせい?
オーケー。
現状はわからないことだらけだ。
まず一つずつ問題を解決していこう。
オレは周囲に人気がないことを確認するとズボンを脱ぐ。
見慣れた学校の制服だ。
黒いから色の付いた染みが出来ているかは判断できない。
目が頼りにならないならば、頼れるのは鼻しかない。
現実に向き合う覚悟をしよう。
濡れている部分、特に股間部分の匂いを確認しようとして――
やっぱり止めた。
ズボンが濡れているからって何だ。
その原因が森の小川のせいか、オレの小川のせいなのか、
わざわざそんなことを確定させる必要はない。
観測しなければどちらの可能性も同時に存在しうる。
シュレディンガーさんがそう言っていたから、それを信じることにしよう。
真実はいつも1つじゃないし、それを知ることが幸せとは限らないのだ。
と、そんなバカなことを考えている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。
改めてまずは状況を理解しなければ。
せっかくなのでズボンはこのまま脱いで手近な木の枝に干しておく。
森の中、ズボンを履かないことには多少の快感があった。
快感があったがオレは立派な大人なので、ズボンだけで自主規制。
さて、一体なぜこんなところにいるのか。
なんとか記憶を掘り起こしてみる。
オレは確か学校に通う途中だった。
見慣れた町並み、いつもの通学路……
そうだ、その時急に光が降ってきた。
何が起こったのかわからない。
いきなりすべてが白く塗りつぶされて、光に飲み込まれた。
あれは――雷?
雷に打たれたのか?
もっと詳しくあの時のことを思い出したいけど―
ダメだ。
どれだけ考えてみても、記憶がどこか虚ろなものに思えてしまう。
それどころか今までのオレの人生すらも曖昧な形しか見えてこない。
オレは、
伊津野俊哉。
17歳の高校生。
だよな?
なにを考えてもまるで数日前に見た夢のように朧で頼りなく、
現実感を欠いて感覚も記憶もボロボロと抜け落ちている。
自分自身のことに自信が持てない……オレは一体なんなのだ?
ただ一つだけ、あの光に飲まれながらうっすら覚えていることがあった。
オレは誰かを助けようと必死だったこと。
だけど体がもうボロボロに壊れていて――
生々しく体が崩れていくのを感じたんだ。
ということは、
オレは、死んだ?
ひょっとしてここは死後の世界?
天国に近い場所?
そんなところで初っぱなからオレは漏らしたかもしれないの?
いやいや落ち着け。
『助けてくれますか?』
白い少女とそんな会話を交わした記憶がある。
助ける。
間違いなくオレはそう約束した。
ならばオレは死んだのではなく、異世界に来たとかですか。
取り乱すこともなくすんなりと突飛な考えを受け入れられるのは、
たぶん体がしっかりと存在しているため、死んだという実感がないからだろう。
体の節々を見回す。
鏡がないので顔はわからないが、少なくとも体は自分のもので間違いなさそうだ。
記憶は曖昧だが、それでも鍛えていたことは覚えている。
自分の筋肉には見覚えもある。
しかしどれだけ考えたところでわかったのはそれくらいだった。
オレは一つ大きく息を吐いた。
これは異世界転生だ。
そう信じよう。
どうせ考えたってわからないのだからそう受け入れた方がいい。
だとすればいつまでもここにこうしていたって仕方がない。
まずは動こう。
まさかオレしかいない森の中に転生させられたわけではあるまい。
きっとどこかに村や町があって人がいるはずだ。そこまで辿り着こう。
せっかく異世界に来たのに始まりの森から脱出できずに死亡なんて空しすぎる。
足下を流れる水を見た。
それは小川とも呼べない、地を這うような微かな水の流れだが、確かにどこかへ続いている。
この水を追っていけばやがて小川や川に繋がるだろう。
そして水場の近くには集落がある。それが定番のはず。
動くことを決意したオレは全然乾かなかったズボンを履いた。
この森が何エーカーあるのかは知らないが、
いつまでも黄熊さんスタイルではいられまい。
そしていざ歩き出そうとし……
しかしすぐに立ち止まるとブレザーを脱いだ。
だってもしも誰かに出会ったとして、
森の中から下半身だけ濡らした男が現れたなんて、ちょっとアレじゃないか。
葉を隠すなら森の中よろしく、全身濡れてしまえばズボンの染みなんて気にならない。
うん、ナイスアイディア。
オレは自分の考えに満足し、幸先の良いスタートだと言い聞かせながらブレザーを地面に落としてわざと濡らした。
それを着るとき、少し切なかった。
森の中を少し歩くとすぐに小川に突き当たった。
鬱蒼とした緑ばかりの風景から少し景色が変わったことに安堵し、倒木を椅子代わりに少し休憩する。
ズボンは念のために小川で洗った。
あくまで念のためだ。
しかしここまで歩いてきて気がついたことがある。
まず一つは怪我をしていたはずの左足首と左膝が治っていること。
以前の記憶はかなり曖昧だが、
そんな中でしっかり記憶に残っていることが、その壊れた足の痛みと悔しさだった。
少し歩くだけで鈍い痛みに襲われた。
誰にも負けたくないからひたすら体を追い込み、
その結果勝負の舞台にすら上がれなくなったあの悔しさを、思い出させてくれた古傷。
しかしその痛みがなくなっているのだ。
足場が悪く、いつまた痛み出すのではないかとおっかなびっくり最初は歩いていた。
が、一歩を踏み出す毎に怪我が治っているという感覚は確信に変わっていった。
そしてもう一つの気付きは、全然疲れないということ。
これはまだそんなに動いていないだけかもしれないが、
先ほどからずっと足場の悪い森を歩いてきたのだ。
普通は息の一つでも切れそうなものだが、呼吸も体も落ち着いた物である。
もしかしてなにか特別なスキルとかそんなアレを授かった?
だとすれば魔法とか属性もあるのだろうか。
あなたの属性は炎です! とかそんなやつ。
だったら風がいいなー。なんとなく速そうだし。雷とかも起こせたりして。
いや、オレの死因、雷だったかも知れないけど。
ちなみにもう一つ気がついたことがある。
小川でズボンを念のために洗っていたとき、
水面に反射した顔を見る限りオレはオレだった。
残念ながら美少年とかに変わってはいなかった。
うん。そう甘くはないらしい。
さて、そろそろまた歩き出そうかと思った時――
背中に、射貫くような圧力を感じた。
本能的に振り返ると、
そこには牙を剥き出しにした、こちらを睨むオオカミのような存在がいた。
以上です。
楽しんで頂けると幸いです。
よろしくお願いします。