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脱ぎ捨てるもの

作者: 砂井乙月

 ネクタイが、きつい。

 昼間、あいつに言われてからずっとネクタイに首を絞められている気がしていた。

 スーツも普段よりも重く、奇妙な息苦しさを感じていた。

 テーブルの上に無造作に放置されたジョッキに手を伸ばした。村山が俺に「飲みすぎだ」というような警告を発している。知ったことか。俺の体も限界を訴え始めていたが、とにかく口に注ぎ込み、胃に流し込む。

 自分の体を満足に制御することすらできなくなるまで、それほど時間はかからなかった。

 良い調子だ、と思った。これで良い。頭が何も考えられないくらいにはなっている。

 俺の様子があまりにひどかったためか、「今日はもう帰ろう」ということになった。村山はすっかり泥酔した俺を見て、送っていくと言い始めた。必要ないと断ったが、どうしても来るという。まあ良いだろう。人と話していた方が、今日のことを思い出さずにいられるかもしれない。

 二人で黙って道を歩いた。ネオンの明りに多分に邪魔されてはいるが、星が見える。一等星ならば、眠らない街の真ん中からも観測できるのだ。

「なんか、君って変わったよね。トゲが無くなったっていうか。そんな感じ」

 村山とは、学生時代からの付き合いだ。女友達の中ではわりと気が合ったから、時々飲みに行く。それ以上でもそれ以下でもないただの友人だったが、やはり俺のことをしっかり分かってるみたいだ。何だかんだ言って、この女は俺を長い間見てきたのだから。

 村山の発言が、一気に俺の酔いを醒ました。人生で自分が一番惨めになった日を一日挙げろと言われたら、間違いなく今日だろう。

 ──なんでだよ。どいつもこいつも。俺だってそのくらいのことは分かってるんだよ。

 酔いがさめると同時に、強烈な吐き気に見舞われた。気分が悪い。きっとこれは、単に血中アルコール濃度だけの問題ではない。

 村山へ返す言葉もなく、俺達はまた黙って歩く。数分で、俺のマンションの前に到着した。

「ここまででいい。もう大丈夫だよ。ありがとう」

 それだけ村山に告げると、村山は少しもの言いたげな表情になったが、「うん、じゃあまた」と俺に背中を向けていった。

 なんとなくマンションにすぐ入る気になれず、公園のベンチに座って空を見上げた。さっきよりも少しだけ見える星の数が増えている。

 なぜだか、夜空を見上げるとあいつの顔が脳裏に浮かび上がった。

「お前、変わっちまったな。めちゃめちゃ尖ってて、『世間のバカな奴らを利用してのし上がってやる』なんてことを言ってたお前はどこに行っちまったんだ? 周りのつまんねえ大人たちを心底嫌ってたお前はどこに行ったんだよ?」

 思い出したくも無い。酒に全て持っていって欲しかった今日の出来事が、鮮明に脳内で再生される。

「『好青年を演じるのを世間が望んでいるならそうしてやるよ。俺は力を持ちたいからな。そんな演技ならお手の物だ』とか言ってたよな。あのときのお前は確かに力を求めてた。芸能界でのし上がるって言って、信じられないくらいギラギラしてた。それが今のお前と来たら、『プロデューサーだし』『上役だから』『この人に逆らうのはまずいって』だとよ。最高につまんないな。お前が嫌ってた周りの大人たちとどう違うんだよ」

 もうたくさんだ。自分でも十分分かってた。これ以上現実を認識させないでくれ。

「言いたいことも言えず、やりたいこともやれず、漠然と人に従うのがお前の望んだ『力』なのかよ。違うだろ。なんでそんなに牙を抜かれた腑抜け野郎になっちまったんだ。そのネクタイに、心まで縛られちまったのかよ」

 飲めば、目を背けられると思った。全て図星だったあいつの指摘から、逃れられると思った。だが、そんなわけない。酒なんかじゃ消えないものってのが、俺の中に確かにある。

 ネクタイの結び目に一気に手をかけて、力任せに引っ張る。するするとネクタイははずれて、地面に落ちた。

 続いて、ワイシャツを脱ぎ捨てる。少しずつ気が楽になるような感覚にとらわれた。そのまま身にまとっていたものを全て脱ぎ捨てた。もう俺を束縛しているものはない。

 何か、ふっ切れた感じだ。たしかに、俺はあの頃から変わってしまったかもしれない。だが、今日また俺は変わる。心の中でくすぶってたものに火がついた。

 いつの間にか、世間に向かって演じていた人格を、俺は俺の本質にしてしまおうとしていたのかもしれない。「ネクタイに、心まで縛られた」か。あいつ、上手い事言ってくれる。

 夜空に浮かぶ一等星を、きっとあいつもどこかで見ている。あいつも今、あの大きな光のもとにいるのだ。

 俺は、叫んだ。俺の新たな人生の始まりのゴングを、鳴らそうと思った。あの星の光に向かって。

「慎吾〜! シンゴ! シンゴ〜!」

 今どこにいるかも分からない俺の目を覚まさせたあいつに、届けたい。俺は、草薙剛は、ここにいる。

 俺を縛るものは、全部取り払った。飾らない、ありのままの俺がここにいる。

 なにやら、遠くからサイレンのような音が聞こえる。ああ、もしかしたら俺を捕まえに来たのかもしれないな。

 そんなことは、どうでも良かった。慎吾に、新たな俺のスタートを告げることの方がはるかに大切だった。

 ネクタイも、糊の利いたスーツも、全部投げ捨てたぞ。慎吾。

 裸で、裸で何が悪いってんだ──

草薙くんが逮捕されたということで最初に頭に浮かんだストーリーを形にしてみました。

ニュースで、「逮捕されるときに『慎吾〜』と叫んでいた」と聞いてこんな風に思っていました。

まあ事実とは全然違うみたいですけどね。

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― 新着の感想 ―
[一言] ノンフィクションということで、いいのかわかりませんが、そう思って読ませていただきました。 人生を叫んでいる。みたいな部分が非常に共感を持てました。 頭のところが、すこし苦しくも…
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