四.黄泉大神(ヨモツオオカミ)・後編
海の底に見える暗い穴の向こうに、女神らしき人影が見える。
スサノオは知っていた。女神の正体が、産まれた時より焦がれし母イザナミである事を。
『それ以上、近づいてはならん。スサノオ』
ツクヨミの姿となったスサノオは、無意識の内に浜辺から足を踏み出そうとしていた。
ハッと我に返り、目を凝らす。
『確かに海の底に今、黄泉の門は開かれている。
だがここからでは声のやり取りしかできぬ。あれに見えるは実体ではないからだ』
「けどツクヨミ。母上が目の前に……!」
『あの母上に触れる事が叶った時、我らは命さえも投げ捨てねばならぬ。
……それでも先に進むか?』
「…………ッ」
ツクヨミの言葉により、死の感触が肌を撫でている事を悟り――スサノオは立ち止まった。
渦の周囲に見える、得体の知れぬ蟲たちが、ザワザワと耳障りな音を立てている。
――コナイノ? コナイノ?
――ツレテイッテアゲルノニ
「ひッ」
蟲たちの騒がしい羽音が、奇妙な事に亡霊の声に聞こえた気がした。
しかしよくよく耳をすませば、それは意味の為さぬ雑音に過ぎなかった。
五月蠅き騒音の中――ツクヨミとスサノオに、はっきりとした声が聞こえた。
『……久しい、のう……我が息子……スサノオ……』
声は海の底に見える、女神らしき影から発せられている。
暗すぎて月明かりも届かず、おぼろな姿。それでも声は遮られる事なく、二柱の鼓膜に届く。
スサノオは初めて聴いた声にも関わらず、これが母の声だと悟った。
(聞き覚えがあるのは……ツクヨミがすでに聴いていたから、か……
オレが眠っている夜の間に、ツクヨミは何度も母上と声を交わしていた……?)
『スサノオ……ぬしの望み……願い……ツクヨミから聞いておる……
母たる吾も……同じ気持ちじゃ。ぬしらに一目、会うてみたい……』
イザナミの言葉は優しく、耳に心地よくなじんだ。
黄泉の国を統べる死者の女王とは思えぬ、安らぎを感じる澄んだ声だった。
『吾と会うためには、ぬしに高天原に赴いて貰わねばならぬ。
そして高天原にて、幾つかやって貰いたい事があるのじゃ。
スサノオ、ぬしに問おう。成し遂げる覚悟があるかや?』
「……高天原に……オレが……?」
イザナミの提示した「高天原で為すべき事」。
その内容は――乱暴者のスサノオをして、耳を疑うようなものばかりであった。
(母上は偽りを述べてはおらん。このツクヨミが保証しよう)
鼻白むスサノオの心の中で、兄ツクヨミが口添えする。
いかにイザナミやツクヨミが背中を押そうとも、スサノオの中に芽生えし不安は消えるどころか、いや増すばかり。
しばしの間、沈黙していたスサノオだったが……やがて口を開いた。
「……分かった、母上。オレは……やるよ」
『ほほ。よう言うた、スサノオ。愛しき我が子よ……』
優しき言葉で褒めそやすイザナミ。
彼女の言う「為すべき事」。これから行わなければならぬと考えるだけで、怖気が走る。
それでもスサノオにとって、母の要望に応える事は無上の喜びであった。
故に彼はひた進む。姉の太陽神アマテラスが治める天上世界、高天原へ。
たとえ後に、取り返しのつかぬ「闇」をもたらす事になろうとも。
蟲
現代でいうところの昆虫・節足動物。但し当時は「得体の知れない分類不能の小さな生き物」全般を指す言葉。
古代における「虫」の字はマムシの姿をかたどったもので、爬虫類を表す文字として区別される。