オオゲツヒメの願い ~豊穣たる瑞穂の国へ~★
作中の漫画は、あっきコタロウさんに描いていただきました。ありがとうございます!
阿波国にあるオオゲツヒメの社を訪れたのは、スサノオであった。
「久しぶり、オオゲツヒメ」スサノオは言った。
「黄泉の国では、あんたの飯に随分世話になった。感謝してる」
「お久しゅうございます、スサノオ様……ツクヨミ様」
オオゲツヒメは平伏して答えた。
彼女は当然、スサノオの内に宿る存在――彼の兄、月の神にも気づいている。
「ここまでの長旅、お疲れの事でしょう。夕餉の支度をさせていただきますわ」
食物の女神たる彼女の出す食事はとびきり美味い。スサノオは嬉しそうな顔をした。
オオゲツヒメの顔も自然と綻び、ふくよかな笑みを浮かべる。
スサノオは、たらふく飯を平らげた。
無邪気に食事を頬張る少年神を、オオゲツヒメはただ微笑んで見つめている。
『……オオゲツヒメ』
スサノオの口から――ツクヨミの声が響いた。
いつの間にかその姿は、流れる銀髪に闇色の御衣に変わっている。
『黄泉の国を旅した時よりも、身体がやつれているね。……何が、あったんだい?』
(えっ……何だよソレ。ツクヨミ……?)
スサノオにとって寝耳に水の発言だった。
彼が見た限りでは、オオゲツヒメが弱っているようには見えなかったからだ。
しかし当のオオゲツヒメは、己の異変に最初から気づいていたらしく。
「今のわたくしの身体の不調は、ずっと前から。
世界が闇に覆われた日から、続いていましたわ」
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オオゲツヒメとは、食物を司る女神であると、一般には知られている。
彼女はその体内で穀物を育て、蚕や五穀などを、肉体の様々な場所から生み出す。
だが彼女の力の本質を知っていれば……食物神という表現は正確でないと分かるだろう。
(わたくしの体内には――『田畑』がある。
五穀を育み、生み出すための苗床が)
彼女は本来は、大地の女神なのだ。
穀物を生み出す力は、彼女が持つ大地の『霊力』を作物に宿す行為に他ならない。
そしてその『霊力』には、当然ながら限りがあった。
**********
オオゲツヒメはずっと――各地で迫害を受けながらも、飢餓に苦しむ人々の為に五穀を生み出しながら旅をしていた。
一片の陽も差さぬ中、相当に無理をしていたに違いない。
彼女に最初に出会ったあの時。悪神に襲われる危険を顧みずに穀物を出していたのも。
飢えた男たちを救おうとしていた所以だったのか。
「嘘だろ……そんな危険な状態だったのに、オレたちの旅について来てくれたのかよ」
スサノオは能天気に彼女の出す食事を、毎日のように平らげていた。
オオゲツヒメはその間まったく弱音を吐かず、スサノオ達を生かす為にその身を削っていたのだ。
「で、でもさ。もう姉上は復活したんだ! 太陽の恵みはある!
だったらこれから養生していれば、オオゲツヒメだっていずれ回復できるんじゃ……」
スサノオは縋るように、ツクヨミに訊いたが――彼は首を振った。
無言の彼の代わりに、オオゲツヒメ自身が微笑んで答える。
「わたくしは黄泉の国で、多くの穢れを受け、内に溜め込み過ぎてしまいました。
わたくし自身は穢れで死ぬ事はありません、ですが……
わたくしの中で育つ『子どもたち』にとって、多すぎる穢れは害毒になってしまいます」
オオゲツヒメが宿す「子ども」。言うまでもなく五穀の事である。
「……ツクヨミ様。わたくしを、人々を救うために……
わたくしの命を、刈り取って下さいませ」
彼女の懇願の言葉に、スサノオは思わず声を荒げた。
「お、おい何を言ってるんだよオオゲツヒメ!?
命を刈り取るって……どういう事だよ。
ツクヨミに、あんたを殺す手伝いをしろってのか!?」
「スサノオ様。穢れきった穀物は、新たに命を宿す事なく、死に絶えます。
ただ死ぬのではなく、『絶えて』しまうのです。
その前にわたくしの命を刈ると共に、我が体内にある全ての命を……救っていただきたいのです」
オオゲツヒメは笑顔を絶やさなかったが、その言葉は真剣そのものだった。
さしものスサノオも、彼女の心の奥底にある覚悟を読み取ったのか……二の句を継げず押し黙った。
ツクヨミは彼女の言い分を黙って聞いていた。
衝撃のあまり、受け入れがたかったのかもしれない。
やがて彼も、消え入りそうな、ようやく絞り出した声で尋ねた。
『……別れてから、ずっと。その事を考えていたのか。オオゲツヒメ』
「……いいえ。世界が闇に覆われてからずっと、この日が来るだろうと思っておりました」
『他に、方法は……無かったのか……?』
欺瞞に満ちた問いだ、とツクヨミは思った。
この悲壮な決意をしたのは確かにオオゲツヒメかもしれない。
この道を示したのは、他ならぬツクヨミ自身だったのだから。
「申し訳ございません、ツクヨミ様。ウケモチも、あれから色んな薬を作って処方して下さったのですけど……
どうにもなりませんでした。どうやら……今のわたくしには『食物神』としての寿命が、差し迫っているようなのです」
「……貴女の命を刈り取る。その役目は、このツクヨミでなければらない。
そう、だったな」
「……はい……」
オオゲツヒメの命を終わらせるだけなら、それこそ人の手によってもできる。
だがそれでは、彼女の魂魄は黄泉へと送られ、腐った穢れ神となってしまう。
彼女の生命を穀物に宿らせ、再び大地に芽吹かせるためには。
彼女の力の本質と真理を知る、月の神ツクヨミの力によって、彼女の今の生に幕を下ろす必要があった。
『オオゲツヒメ。己の限界が来たと思ったら、いつでも私を呼ぶといい。
貴女が食物の神としての使命を全うできるよう、貴女の命の穂を刈り取ろう──』
ツクヨミはオオゲツヒメと初めて出会った時、彼女の記憶を読み、そう告げた。
過去も未来も、全てを見通した上での、安らげる死をもたらす宣告。
オオゲツヒメが酷薄なる月の神を慕い続けた理由であった。
だからツクヨミは確信していた。いつかはこの日が来るだろうと。
しかし……だからといって、己の手を簡単に振り下ろす事ができるだろうか。
それが必要であり、行わなければ五穀が絶えると知っても。ツクヨミは躊躇っていた。
それは黄泉の国の旅を通じて、ツクヨミが今のオオゲツヒメに惹かれていた証であった。
『確認しよう。貴女の命は消えるが、貴女の育てた種は残る。
子々孫々に至るまで、貴女の命を宿した穀物はこの葦原中国に栄えるだろう──』
「ええ……良うございます。それこそが、わたくしの望みですから。
覚悟はできています。どうか、一思いに……」
目を閉じて、ツクヨミのもたらす死を受け入れようとしたオオゲツヒメの前に、小さな闇の神ウケモチが姿を表した。
とてとてとおぼつかない足取りで、オオゲツヒメの腰に縋りつき、ツクヨミを睨みつける。無言の抗議であった。
「ウケモチ。何度も説明したでしょう? 我儘はダメよ……
それにわたくしは完全に死ぬ訳ではない。
穀物に命を宿し、穢れすらも受け入れて、円環を幾度も繰り返し……永遠に生き続けるのよ」
大地で育った穀物は人々に食され、体内で命の源となり……やがて穢れた糞尿となり、再び大地に還る。
オオゲツヒメもツクヨミも、その真理を知った上での事なのだ。
ウケモチもそれを分かっていた。その上での虚しい抵抗だった。
彼は暗い瞳から涙を流し――絞り出すように言った。
「……ソレデモ、嫌だ……ココデ消えタラ……オオゲツ。
オイラの知っテル、オオゲツじゃナクナル……!」
涙でぐしゃぐしゃになったウケモチの顔を見て、オオゲツヒメもまた涙した。
稲は溢れ出て来なかった。純粋な、ただの涙だった。
「……ありがとう、ウケモチ。いつもいつも、わたくしを気にかけてくれて。傍にいてくれて……
恐ろしい黄泉の旅路で。貴方がどれだけ、わたくしの救いになった事か……」
ツクヨミが十拳剣を抜こうとした時、内なるスサノオがそれを押し留めた。
『……スサノオ? 何を……』
「ツクヨミ。オオゲツヒメがお前に殺されちまったら……彼女の持つ今生の記憶が消えるんだよな?
だったら、オレにも手伝わせろ。やり方を教えてくれ。
オオゲツヒメを殺したのは、オレって事にすりゃいい」
『しかし……お前が手を下した所で、結果が変わる訳ではない』
「変わるさ。オレはいずれ黄泉の国に赴く。
彼女が再び生まれる時に――黄泉のキクリヒメに『想い』を紡いでもらう。
そうすりゃオオゲツヒメだって、きっとウケモチの事を忘れずに済む」
スサノオはツクヨミの意識を押し出し、再び少年神の姿を取った。
「それには必要なんだ。キクリヒメを呼ぶ為のオオゲツヒメの穢れが。
そして――その穢れを宿した剣は、このオレ、スサノオの持ち物でなければならん」
スサノオの声は、僅かに震えている。
事もなげに言っているが、彼も心苦しいのが見て取れた。
「お前だけが罪を被る事はねーだろう、ツクヨミ。
そこへ行くと、オレはスサノオだぜ?
海原を荒れ放題にし、葦原中国を散々に騒がせ、高天原の畑を荒らし。
とうとう罰を受けて追放された疫病神サマさ。
今更、食物の神一柱を殺した悪名のひとつくらい、屁でもねえよ」
そこまで言われては、ツクヨミも黙して従う他は無かった。
「ウケモチ。オレがツクヨミと一緒に手を下しても、オオゲツヒメの名は残る。
オレたちが忘れなければ……オオゲツヒメだって、オレたちを忘れないはずさ」
「…………」ウケモチは泣き腫らした顔のまま、無言で二柱に道を譲った。
オオゲツヒメの首に、ツクヨミとスサノオが握った十拳剣の刃が当たる。
だが、どうしても振り下ろす事ができなかった。
「ダメですよ、そのように悲しげなお顔をなさっては。
たわわに実る稲穂を刈るとき。民は笑顔でなければなりませぬ」
オオゲツヒメは微笑んだが、冷や汗をかいていた。
彼女は今も苦しく、そして恐ろしいのだろう。
「太陽はわたくしに育つ力を。月は安らぎを授けて下さいます。
わたくしがいなくなっても、その命は五穀に宿り、この国の糧となり。
永久に生き続けるのです。
ツクヨミ様。どうかわたくしに触れ……ご覧くださいませ。
わたくしを通して、葦原中国の行く末を──」
オオゲツヒメの手がスサノオの肉体に、そしてツクヨミの魂魄に触れた。
ツクヨミはオオゲツヒメを通して、垣間見る。五穀がゆっくりと大地に根付き、広まり、天災や飢饉と戦いながらも、豊穣の国として育つ姿を。
それはあらゆる神々が夢見た、美しき瑞穂の国の未来──
ツクヨミは感極まって叫んだ。
『オオゲツヒメ、貴女は美しい。望月などより遥かに。
貴女ほど美しき女神を、私は今まで見たことがない──!』
「ツクヨミ様ほどの美しきお方に、そこまで言っていただけるなんて。
オオゲツは果報者にございます──」
オオゲツヒメの柔和な笑みは、どんな女神の笑顔よりも魅力的に映った。
ツクヨミとスサノオはその日、食物の神の命を刈り取った。
その時彼らが、どのような顔をしていたかは伝わっていない。
オオゲツヒメの肉体から蚕と、五穀の種が生えた。
ウケモチはそれらを手に取り、袋に入れた。
「……オイラの、本当の名は……アワシマ」
ウケモチは静かに言った。
それまで赤子のようにたどたどしかった彼の口調に、流暢さと力強さが宿っている。
アワシマ。ヒルコと同じく、イザナギとイザナミが産んだ数えられぬ子。
不具であるため葦の舟で流され、常世国に流れ着き……造化三神の一柱たるカミムスビの養子となった神だ。
真の名を告げる事で、彼の周囲の闇が消える。ウケモチという存在の役目が、今終わった。
「オイラの母、カミムスビ様の名において、オオゲツ……お前の残した種は、必ずこの国に根付くよう、広める事を──誓う」
それがウケモチ……いや、アワシマの彼女への別れの言葉だった。
この出来事が、葦原中国の五穀の起源とされる。
古事記にはスサノオがオオゲツヒメを斬り、日本書紀にはツクヨミがウケモチを斬ったと記されている。
その記述の違いが、食物の女神の名と記憶を残すための計らいだったか否かは、今となっては誰も知る者はいない。
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「中秋の名月」とも呼ばれる、月見の習慣は中国から伝わった。平安時代の貴族が舟を出し、水面に映った月を愛でる歌を詠んだり、宴を楽しんだりした。
今日の日本における月見は、薄を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺める。薄は稲に見立てた供え物と言われている。
月と農業は密接な繋がりがあった。稲の収穫は夜までかかる事が多く、その間の作業は月明かりが頼りだった。
人々は月の神を敬い、豊穣の感謝を捧げた。
それが今も伝わる月見の風習となったのだ。
満月にかかる薄。それはまるで、ツクヨミに寄り添うオオゲツヒメの姿を表しているかのように──
(月夜の章 了)
《 解説 》
古事記ではスサノオに殺される事で有名なオオゲツヒメ。
余り知られていませんが、実は後の記述を読むと、しれっと復活・再登場していてハヤマトなる山の神と結婚し、沢山の子を儲けていたりします。
彼女の「円環を繰り返し、永遠に生き続ける」という台詞も、あながち的外れとも言い切れないのですね。
子宝に恵まれた事からも、第二の生では末永く幸せに暮らしたと考えていいでしょう。この記述を読んだ時、筆者自身も救われた心地がしました。
良かったなぁ……