三.黄泉大神(ヨモツオオカミ)・前編
『どうだスサノオ。私の言った通りだったろう?
父イザナギは我らの望みなど知った事ではない。一切の聞く耳持たず、我らを海原から追放せしめた』
独り荒野を歩くスサノオに、ツクヨミは得意げに囁いた。
スサノオの今の感情を体現するように、彼が歩く度に地は裂け、風は吹き荒び、地獄のような天変地異が現出する。
今や葦原中国に住むもの全てが、スサノオの到来に怯え、逃げ出す有様であった。
「姉アマテラスは、オレと違って高天原を善く治めているんだろう?
オレは父の言いつけすら守れない、身勝手な小神だって事さ」
『自ら望んだ訳でもない、一方的に押し付けられた役目に、ただ従うのがスサノオの望みかい?
そうじゃないだろう! それに第一、不公平だ。
お前だって知っているはずだ、スサノオ。そもそも何故、我ら”三貴子”が生まれる事になったのか』
古事記に曰く。イザナギは禊をする為、川の水で身を清めた。
その際に様々な神が生まれたが、最後の最後でイザナギの左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれたとされている。
では何故、禊をする必要があったのか?
彼はこれ以前――死した妻イザナミを蘇らせる為、黄泉の国を訪れていた。黄泉は荒ぶる死者が住まう国。イザナギは黄泉の国で被った穢れを祓う為、身を清めなければならなかったのだ。
『父は自らは黄泉に赴き、数多の穢れを地上にもたらしてしまった。
己のやった事は棚に上げ、子であるスサノオが黄泉に行く事は拒んだ。これほど身勝手な話があろうか?』
「……父はきっと、悔いているんだ。
自分の感情の赴くまま、死んだ母上を連れ戻そうとした結果がこれだ。
だからオレに、同じ失敗を繰り返して欲しくなったんだ」
『今更そんな綺麗ごとを信じちゃいないだろう、我が弟よ。
もし信じていたのなら――今こんな事になっちゃいない。
結局お前は、感情の全てを父にぶつけた。そして海原を追放された。その行いが全てを物語っている』
ツクヨミの指摘に、スサノオはぎり、と唇を噛んだ。
彼の周囲に荒れ狂う風が一段と強まった。
『そしてお前は今、恐れている。不安の感情が暴風となりて、溢れ出さんばかりにな。
父に啖呵を切って、黄泉の国に向かうと決めたはいいが――このまま黄泉を訪れて、父の二の舞になりはしないか、と』
「…………!」
それは確かに、スサノオの心に巣食う不安の正体であった。
かの偉大なる父イザナギですら、黄泉では何の成果も得られず、這う這うの体で逃げ出す羽目になったのだ。
『黄泉に対し、何の知識も備えも無いのでは、失敗は目に見えている。
だが案ずるな、スサノオ。このツクヨミ――お前の望みを叶える為、素晴らしい協力者を得てやったぞ』
「? 素晴らしい協力者……? それは一体、誰――」
『夜になるまで待て。その時に紹介してやろう。今宵はうっかり眠ってしまわぬようにな』
含みのある言い草で、自信満々に月の神は告げた。
スサノオは釈然としないながらも、兄の言う通り夜が来るのを待った。
朧月の夜。荒れ狂う海と同調するように――スサノオの肉体はツクヨミのものへと変化した。
流れる銀髪。陶磁器のような肌。金色の瞳。闇色の御衣。妖しき美しさを持つ月の神は、その身に相応しき妖艶なる舞を披露した。
荒海が渦を巻き、海神たちの絶叫が響き渡る。
その奥に垣間見えしは、仄暗き女神の姿。一度たりとて見覚えがないにも関わらず――スサノオは知っていた。奇妙な確信があった。
(このお方は、我が母上――黄泉大神イザナミ……!)
穢れ
神道における考え方のひとつ。
正確に言うと「あるものが理想的ではない状態」とされ、死は穢れであり、穢れがついている人やモノは、災いを引き寄せるとされる。
不潔な状態をイメージしがちだが、精神的に参っちゃってるような時も「理想的ではない」のだから穢れ(気枯れ)状態である。
穢れを祓うために身体を清める禊をしたり、宴や祭を催す習慣が我が国にはある。日本人が風呂好きなのもこの影響なのかな?