七.スサノオの追放
アマテラスが目覚め、岩屋戸から出た事により、世界に光が戻った。
その翌日。スサノオは高天原にある禊の御殿にて、髭と手足の爪を切り、コヤネの唱える祓の儀式を受けていた。
「天の益人等が 過ち犯しけむ 種種の罪事は
天津罪 国津罪 許許太久の罪 出む此く出ば──」
コヤネが唱えているのは大祓詞である。
スサノオは高天原を荒らし、アマテラスの岩戸隠れを引き起こしたとして、罪を償う事となった。
そのため、彼の所有物のほとんどは没収され、切った髭や爪に穢れを移し、罪の清めとされた。
「天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り 末打ち断ちて
此く聞食しては 罪と言ふ罪は在らじと──」
コヤネの祝詞を聞きながら、スサノオはじっと目を閉じ……昨夜の出来事を思い返していた。
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岩屋戸開きの折、スサノオとツクヨミ、そしてタケミカヅチは百万の禍津神の襲撃から、宴の社を守らんと奮闘していた。
だがその活躍は、神々の記録にも、記憶にも留まる事はなかった。
スサノオには栄光も称賛もなかった。
残ったのは、アマテラスが岩屋に隠れる際に彼が行った、数々の乱暴狼藉の悪評と、それに伴う神々からの贖罪を望む声だけだった。
宴が終わった後の夜。スサノオの軟禁されている御殿に、密かに姉アマテラスが訪問した。
太陽の女神たる彼女の美しい顔は今、強い憂いを帯びている。
背を向けたままの弟に、アマテラスは躊躇いがちに声をかけた。
「…………スサノオ」
「……姉上か。身体は、何ともねェか?」
「…………うん、全然平気」
「元気そうだな。本当に良かった──」
務めて明るく振る舞うスサノオに、アマテラスは消え入るような声で言った。
「…………くない」
「えっ?」
「全然良くない! なんでッ……スサノオだけこんな目に遭うのよ!?」
アマテラスは感情を爆発させ、スサノオを背後から抱きしめた。
「スサノオ、頑張ったじゃない。あんなに苦しんで、あんなに血を流して……!
なのにみんな、分かってくれない。わたしが天岩屋に隠れた事、全部スサノオのせいにしてッ……!」
「実際オレのせいなんだから。しょうがねえだろう?」
「母イザナミに、騙されただけでしょう? オモイカネから聞いたわ。
乱暴狼藉だって、母上に遭いたい一心で、心ならずもやった事だって……」
「たとえ母上にそそのかされたんだとしても。
実際にやらかしたのは、他ならぬオレなんだ。
畦を壊したのも。水路を埋めたのも。糞尿を撒き散らしたのも。
馬を機屋に投げ込んだのも。
犯した罪は償うべきなんだ。でなきゃ、みんな収まりがつかない」
スサノオは不思議なまでに、心が平静になっているのを感じた。
「でも……でも……スサノオは、それでいいの……?」
「正直に言うと、ちょっとは悔しいさ。でも……オレが本当は何をやったのか。
姉上が知ってる。ツクヨミも知ってる。で、姉上は無事に目覚めてくれた。
それで十分さ。オレが望んだ事は、もう全部叶ったんだから」
アマテラスは、スサノオを抱きしめる腕にギュッと力を込め、身を震わせた。
彼女は嗚咽していた。後悔と無念から、涙が止まらなかった。
「ごめんね……スサノオ、ごめん……」
「……何で、姉上が謝るんだよ……?」
「わたし、どうにかして、スサノオの受ける罰を軽くしてもらおうと……
頑張ったけど……駄目だった……
わたし独りの力じゃ、どうにも……ならなかった……」
「ありがとう、姉上。オレなんかの為に……」
そこから先は、アマテラスの声は言葉にならなかった。長いこと号泣していた。
スサノオの心は晴れやかだった。自分の為に、ここまで嘆き悲しんでくれる姉がいる。それだけで自分は幸せだと実感できた。
ひとしきり泣き腫らした後、幾分気が落ち着いたらしく、アマテラスはスサノオに尋ねた。
「……スサノオ。高天原から追放されちゃったら……今度はどこに行くの?」
「そうだな。いずれは母上のいる黄泉の国の一部、根之堅洲国に行きたいな。
黄泉の国を旅して思ったんだ。死者の神々だけじゃ、死して荒ぶる魂を安らぐ事ができないって。
だからオレ、生者のままで黄泉に住むよ。オオカムズミにも会って、彼女の桃をもっと地上に広めたいし」
スサノオの言葉は、もう母親に会いたがっていただけの、我儘な子供のものではなかった。
天上と地上の行く末を見据え、己にできる事を精一杯成し遂げようとする意志があった。
「……たった独りで、黄泉に住むの?」
「いや。母上を安心させたいからさ。
しばらく地上を旅して、立派な神になってから、かな。
タヂカラオも言ってたけど、責任ある大神になるには、その……好きな女の一柱でも見つけなきゃ、なんねえみてーだし……」
やや頬を赤らめながら言うスサノオに対し、アマテラスはようやく顔を綻ばせる事ができた。
「そう……いろいろ考えてるのね、スサノオも。
だったら、約束して。……もう、危険な事はしないって」
「…………えっ?」
「地上にも、色んな悪どい神や怪物がいるわ。
スサノオが今まで見た事もないような、強大な敵だっているかもしれない。
だから約束して。女装でも騙し討ちでも何でもいいから、危険を顧みないなんて事はしないで。
もうわたし……これ以上スサノオが傷つくのを見るの……嫌、だから……」
「……心配性だなぁ、姉上は……
分かった。危険な真似はしないって、約束するよ」
スサノオは苦笑しつつも、アマテラスの約束を承諾したのだった。
「でももし旅の途中で凄いお宝とか見つけたら、真っ先に献上するからよ。楽しみにしててくれよな」
「……もう。そんな口実作らなくたって、いつでもひょっこり戻ってきてくれたらいいのに」
「一応追放されるんだぜ、オレ?
そんなしょっちゅう会いに行ける訳ねえじゃん!」
「……それもそうかぁ……うー、許すまじ高天原!
よくもわたしの可愛い弟をこんな目に……!」
アマテラスの声と瞳に、不穏な炎が浮かびつつあったのを感じ取り、スサノオは慌てて制した。
「姉上! 話が最初に戻っちまってる!?
いいから! もうその気持ちだけでオレ、お腹一杯……!」
姉とのやり取りの最中――スサノオは沈黙を守り続ける「内なる存在」に、そっと呼びかけてみた。
(……ツクヨミ? いいのかよ。
もうこれで、姉上と顔を合わす最後の機会かもしれねえんだぞ?)
返事は無い。だが月の神の態度は、嫌悪や拒絶といった感情から来るものではなかった。
語るべき事柄がなく、言葉を交わす必要もない――という事なのだろう。
血を分けた同じ三貴子でありながら、スサノオから見れば奇妙な関係に映るのだった。
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(ああして姉弟で笑い合えたの、生まれて初めてだったな……
本当に元気になってくれて、良かった……)
「──科戸の風の 天の八重雲を 吹き放つ事の如く
朝の御霧 夕の御霧を 朝風夕風の吹き掃ふ事の如く──」
コヤネの唱える大祓も、終盤に差し掛かっていた。
「大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艪解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く
彼方の繁木が本を 焼鎌の利鎌以て 打ち掃ふ事の如く
遺る罪は在らじと──」
この祝詞が終わればスサノオの罪は清められ、高天原ともお別れとなる。
良い思い出はほとんど無い場所ではあったが、それでも多少は名残惜しい気分になった。
「──今日の夕日の降の大祓に 祓へ給ひ清め給ふ事を 諸々聞食せと宣る」
結びの詞が終わった。
スサノオはコヤネに素っ気なく礼を言うと、裸一貫で高天原を後にすべく、歩き出した。
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スサノオが高天原と地上を分ける門に差し掛かった時、背後から呼びかける声と足音がした。
「おい、待てよスサノオ! 何も言わずに行っちまうつもりか?」
「そうよスサノオくん! 水臭いったら。お別れの挨拶はちゃんとするものよ!」
タヂカラオとウズメであった。
二柱して息せき切っている所からすると、大急ぎで追いかけて来たのだろう。
「オレは高天原を追放された、罪神だぜ?
いいのかよ。オレなんかと別れ際に話なんかしちまって」
「俺はお前の友達だ! そんな些細な事はどうでもいいんだよッ」
タヂカラオはこんな時でも笑顔だった。
内心どう思っているか分からないが、実に彼らしい。
「黙って行こうとしたんだ。お前なりに考えがあっての事だろう、スサノオ。
だから俺は引き止めねえし、決心が鈍るような事もしたくねえ。──でもな」
偉丈夫の怪力神はグッと拳を握りしめ、スサノオも同じく握り拳を作り……互いに軽く打ち合わせた。
「……こいつは、再会の約束って奴だ。必ず……また会おうぜ」
「……ありがとう、タヂカラオ」
「それからツクヨミ。いつまで澄まし顔で隠れてやがる!
最後の挨拶くらい、きっちりしやがれってんだ」
『…………フン』
タヂカラオに促されると、ツクヨミは鼻を鳴らしつつも腕を顕現させ、彼の拳を思いっきりひっぱたいた。
「…………痛ェッ」
『再び会う事は確約できんが、それでも良いなら約束はする』
何とも月の神らしい、ひねくれた物言いである。
タヂカラオとの再会約束の儀式が終わると、今度はウズメがスサノオに近づき……そっと抱きしめた。
「え、ちょ……ウ、ウズメちゃん……?」
「今度はあたしの番。これはね、大陸で教わったの。親愛な神との抱擁って奴ね。
スサノオくん。ツクヨミちゃん。あたしとの再会の約束も……忘れちゃ嫌だからね!」
最初は面食らったスサノオだったが、やがてウズメのやったように、そっと彼女の背に両手を伸ばした。
「ありがとう。うん……オレ、本音を言うと、ちょっと寂しかったから、さ……
すげェ元気出た。ありがとう……タヂカラオ、ウズメちゃん」
「スサノオ。ツクヨミ。元気でな……!」
「またね。二柱とも……」
タヂカラオとウズメとの、別れの挨拶を済ませ──今度こそスサノオとツクヨミは、高天原を旅立った。
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誰にも言わなかったが、実はスサノオ達には、真っ先に向かわねばならない場所があった。
その行き先とは、食物の女神オオゲツヒメの故郷――阿波国(註:徳島県)である。
(昇日の章 了)




