三.舞踏会(ダンス・パーティ)始まる
天岩戸の前にて、宴を催す日がやってきた。
ウズメが踊るための無数の桶。
アマテラスを模し、沢山の勾玉と鏡を身に着けた榊の木で作った女神像。
そして宴席のためにしつらえた、およそ三百の客席。
これらは八百万の神々の中でも、特に高天原にて地位の高い天津神のために用意されたものだ。
他、フトダマが作成した数多くの御幣が、社の中に所狭しと設置されている。
これらはオモイカネの神力と連動する仕組みで、葦原中国に散らばる国津神のための設備である。
宴の開始と共にその様子を映像と音声を交えて中継できる上、遠く離れた神々の熱狂を陽の気に変換する力も備えている。
アマテラスを模した女神像の胸元の部分に、スサノオ達が取り戻したアマテラスの『魂』たる鏡をぶら下げる。
岩屋戸が開いた時、アマテラスから見える位置にその都度調整するため、コヤネとフトダマが像の両隣に立った。
その岩屋戸の前には、タヂカラオがいる。
アマテラスが目覚めた際、いつでも彼女を外に連れ出せるよう待機していた。
すでに社には、今回の為に招かれた三百の天津神たちが顔を揃え、始まりを今か今かと待ちわびていた。
天岩戸の舞台裏となる岩陰には、今回の音曲を披露する雅楽の神々。コヤネ達のいる位置から、いつでも指示を出せる場所だ。
他には、オモイカネが連れてきた常世の長鳴鳥たち。
そして、今回の宴の中心的役割を担う、舞の女神ウズメ。
彼女はフトダマ達が天香久山から持ち帰った日蔭鬘を襷のように身体に巻き、真拆葛を髪飾りに、さらには両手に笹の葉を束ねて持っていた。
ヒカゲカズラはシダ植物の一種で、乾燥させても緑をよく保つ特徴があり、紐状の飾りとしても加工しやすい。
マサキカズラは現代ではテイカカズラと呼ばれ、香しい白い花を咲かせる。
笹の葉は古くから七夕の飾りとしても扱われ、葉には防腐作用もあり、保存食を包むのに用いられた。
これらの植物はフトダマの太占によって、榊と共に持ち帰るよう告げられたものである。
「……ウズメ。緊張していますか?」
オモイカネがふと、微動だにしないウズメに尋ねた。
「心配しなくていいわよ、オモイカネちゃん」ウズメは明るく答えた。
「これだけの大舞台だもの。緊張しない方がおかしいと思うんだけど……
何でかな? すっごく心が躍るの。踊りたくてウズウズしてるって言うか」
この日の為に、ウズメは練習に練習を重ねてきた。
大陸で舞踏の神に教わった秘儀に、己の調整を加え続け、洗練し、理想的な形に仕上げるために。
(師匠の言う『天衣無縫の極み』はまだ見えない。
でも、行ける所まで登りつめたい──)
アマテラスの復活の為ではあったが、ウズメは舞神として、最高の舞を踊る。
ただそれだけに集中するつもりだった。
「では予定の時間も間近ですし、そろそろ始めようと思います。
長鳴鳥たちの一斉の鳴き声が合図です。皆さん、頼みましたよ!」
『おうッッッッ!!!!』
オモイカネの言葉に、ウズメ、タヂカラオ、コヤネ、フトダマの四柱は気合いを込めた大声を返した。
常世の長鳴鳥たちは、奇妙な事に誰からの指示を受けた訳でもなく。
まさに今この時。運命であるかのように。本能の赴くまま。
一斉にけたたましく鳴いた。凄まじい騒音!
それは今日我々の知る、朝を告げる鶏の鳴き声である。
コケコッコーーーー!!!!
数が多いため、たっぷり一分(註:約3~5分)は騒々しい鳴き声が続いた。
長鳴鳥たちの声が途絶えると同時に、ウズメが意を決して、並べられた桶の舞台の上に立ち、舞い始めた。
それを見たコヤネが、雅楽の神々に音曲を開始するよう指示を出し、自らは朗々たる美声で一二三祝詞を唱えた。
「一二四 五六七八 九十百千万
蘭根 敷き 縷結い──」
楽曲と祝詞の調子に合わせ、ウズメは一心不乱に舞った。
だがすぐに彼女は気づいた。不完全だ。練習を重ねた舞の動きそのものは完璧に近い。
ウズメの美しい舞と、踊るたびに揺れ動く飾り。激しく響く桶を踏み鳴らす音。彼女の胸元はすでにはだけかかっており、踊りの激しさを物語っている。
彼女の舞に引き込まれた天津神らは早くも熱狂の色を見せ、興奮状態になりつつあったが。
ウズメは激しく踊り続けながらも、心が平らかに沈んでいくのを感じた。
(なんだろう……何かが足りない気がする。皆は喜んでくれているけれど……
いまいち乗り切れない。いつか感じた時のような、恍惚の極みに昇りつめられる予感がしない……)
その「いつか感じた時」が何なのか、ウズメには見当がつかなかった。それがもどかしかった。
それもその筈。彼女が達しようとした「天衣無縫の極み」への足がかりは、黄泉の国で旅した極限状態に中にあったのだから。
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アマテラス復活の宴に、八百万の神々が集ったが、決して歓迎すべき善神ばかりではなかった。
前日のオモイカネの懸念通り、大勢の神々の盛大な催しによる陽の気の高まりに気づき、穢れに満ちた禍津神どももまた、誘蛾灯に群がる羽虫のように寄り集まってきていたのである。
空を覆い尽くす暗雲は、不吉に唸るような音を立て、禍々しくも不気味な雰囲気を漂わせていた。
すさまじく大きな、恐ろしい顔のようにも見え……というのは、比喩でも何でもなかった。
実際、巨大な顔であった。苦悶の表情を浮かべ、目の部分から黒く汚らしい、泥のような涙が絶えず滴り落ちている。
ドス黒い泥土の涙は、ボトボトと地面に落ち、穢らわしい染みとなり……意思を持っているかのように蠢いた。
泥の動きには指向性があり、宴の社へと這い寄っていくのが分かる。泥の中には無数の醜悪な顔が浮かんでは沈んでいく。
泥土の無数の顔は、数多くの災いを司る多頭の神、ヤソマガツヒ。
空を覆う暗雲に浮かぶ顔は、大いなる災いを司る巨頭の神、オオマガツヒ。
彼ら禍津神の首魁たる兄弟神は、本能のままに全てを飲み込もうと動いていた。
恐るべき力を持つ禍津神らの襲来を、迎え撃つべく現れた二つの影があった。
ひとつは精悍なる強者の意気を纏った、高天原最強の軍神・タケミカヅチ。
もうひとつは照り輝く顔を持ち、闇色の御衣を纏った、月の神ツクヨミである。
「――お前の言った通り、凄まじい数の悪神どもだな。
ざっと見積もっても、百万柱は下らないのではないか?」
ツクヨミはからかうように笑みを浮かべ、タケミカヅチに語りかけるも――彼は仏頂面のまま、低い声で応じた。
「……我が報せに、嘘偽りの類はない。
それに百万は盛り過ぎだ、ツクヨミ殿」
「……やれやれ。見た目通り冗談のカケラも通じないんだな」
今は夜明け前。ツクヨミの姿ではあるが、肉体は当然スサノオのものである。
本来なら罪神であるスサノオが、宴の場に顔を出す事も許されていない。
だが咎があるのはスサノオのみ。ツクヨミは表向き、囚われの身ではない――そんな詭弁を用い、タケミカヅチは月の神を連れ出したのだ。
(今はアマテラス復活の為、全ての天津神・国津神の力を合わせねばならん。
故に余計な戦力を禍津神の迎撃に割く訳にはいかない。
だからこその少数精鋭――私とタケミカヅチの二柱のみ、か)
『おい、一応オレだっているんだぞ。ツクヨミ』
今は内なる「スサノオ」から、抗議の声が上がった。
(いっその事、皆の前でスサノオの姿を晒してみるのはどうだ?
きっと大変な事になるぞ)
『ふざけんな。そんな事をすればタケミカヅチに迷惑かかんだろ!
くだらねえ冗談言ってねえで、戦いに備えるんだよッ!』
戦闘前の緊張を和ませるつもりだったのだが――ツクヨミはぼやきつつも、迫りくる百万柱の禍津神が放つ、凄まじい穢れの渦に目を向けた。
岩屋戸開きの盛大な宴の裏で、人知れず。
ツクヨミ達もまた、戦いの舞踏会を始めるのだった。




