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二十三.愛しきもの

 突如、イザナミの背後から何者かが手を触れた。

 と同時に、彼女の全身に久しく感じた事のないものが走った。激痛である。


「ぐうッ…………!」


 黄泉大神(ヨモツオオカミ)となった彼女にとって、それは感じる筈のない痛み(もの)だった。

 肉が腐り、(うじ)が湧き、肉体の所々を蝕まれる。むず痒さを越えた全身の苦痛に、イザナミは激しく打ちのめされた。


「あああああああッッッッ!?」


 全身から溢れ出る吐瀉物(としゃぶつ)や糞尿の、(けが)れによる苦しみ。

 やがて女陰(ほと)が炎に包まれたような激しい熱さと痛みを覚え──


 気がつくとイザナミから、苦しみの全てが過ぎ去っていた。

 スサノオの首を絞め殺そうと伸ばした手が、イザナミの目に映る。


 だがそれは、見慣れた腐り落ちた仄暗(ほのぐら)(かいな)ではなかった。

 白く美しく、瑞々しさに満ちた清らかなる腕。

 腕だけではなかった。イザナミの全身は、生前の美しき女神の姿に戻っていた。


 さっきまで彼女の体内に取り込まれていたウケモチも、傍らに眠るようにうずくまっている。


「……これは、一体……この姿はッ……!」


 己の姿に驚いたのはイザナミだけではなかった。

 その場にいたタヂカラオ、ウズメ、オオゲツヒメらも……突如出現した神々しくも美しい、国産みの女神の姿に心奪われていた。


「……母上の願いと、父上の記憶を元に。

 このツクヨミが……貴女の『時を戻した』のですよ、我が母イザナミ」


 響いたのは、月の神ツクヨミの声。

 しかしスサノオの肉体は倒れ伏したまま。ツクヨミの澄んだ声は――産まれたばかりの女神の口から発せられていた。


「ツクヨミ……いつの間にその女神の中へ魂魄(こんぱく)を?

 何故その方法を知っておるのじゃ?」


「先刻、拆雷(サクイカヅチ)に連れ去られた時に。彼の『記憶を読み』ました。

 ご心配なく、母上。一時的に借り受けているだけ。時が経てば私はスサノオの身体に戻ります」


 ツクヨミは宿りし物言わぬ女神の肉体から、記憶を読み取ってさらに続けた。


「この女神の名は……キクリヒメ。

 アマテラスの陽の気と、スサノオの意思と、イザナミの血から再び生まれた……想いを紡ぐ女神」


 キクリヒメ。古事記にその記述はなく、日本書紀においてわずかに登場する女神である。

 イザナギはイザナミと黄泉(ヨミ)にて喧嘩をした際、彼女の言葉に大いに感心して黄泉の国を後にしたという。

 キクリヒメがその際、いかなる内容を語ったのかは記録されていない。だがこの逸話により、彼女は縁結びの神として後世に伝わり、今なお祀られている。


「ツクヨミ。やはりぬしの仕業かッ……愚かな事を!」イザナミは声を荒げた。

(われ)を生前の姿にまで『時戻す』などッ!

 いかにぬしの神力でも、どれだけ激しく消耗すると思うておるのじゃ!?

 今すぐにでも、このまやかしを解くがよい!」


「母上……このツクヨミとて、自分ひとりの力でこれほど強い『時戻し』をかける事は叶いません」


 ツクヨミは穏やかに言った。

 時を遡り、記憶だけでなく肉体の時間すらも巻き戻す。

 確かにそれはツクヨミ単身では到底成し得ない。

 今この場だからこそ。スサノオが命を賭した誓約(うけい)に同意したからこそ。

 キクリヒメという女神が誕生したからこそ。母イザナミが過去に憧憬を抱いたからこそ。

 そして何よりも――


(我が『時を操る』神力。忌まわしき闇の制約。

 それらを私に授け、背負わせたのは……今この時の為だったのか? 我が父イザナギ……)


 ツクヨミはキクリヒメの目を通して、困惑するイザナミの瞳を見据えた。


『母上……聞こえますか?』


 ツクヨミの発した新たな声に、周りの神々は誰も気づいていない。

 それはイザナミにのみ通じていた。


『なッ……ツクヨミ。ぬし、この会話をどうやって……?』


『時を戻すため触れた時、母上の記憶も読んだのです。

 貴女は大雷(オオイカヅチ)の糸を使って、密かに連携を取っていた』


 ツクヨミの手には、大雷(オオイカヅチ)の張った糸が握られていた。

 仮に糸を持っていたとしても、これを使って意思疎通を行うにはそれなりのコツが要る。

 だがツクヨミの「記憶を読む」力によって、瞬時にそれも理解したのだろう。


『母上、これ以上の戦いは無益です。スサノオ達を解放してやって下さい』

『……解放せぬと言ったら?』


『私は貴女の記憶を読んだ、と言った筈です。

 私が拆雷(サクイカヅチ)を退け、彼の支配する地獄を崩壊させた事も貴女は知っている。

 だが……私がどうやって彼らを退けたか、貴女は把握できていない』

『!』


『貴女が黄泉の国の情報として把握できるのは、五感に関連するもののみ。

 それ以外の攻撃手段の情報は得られない。

 故に私の未知の力に、対処する事は不可能だ』


 ツクヨミの言葉に、イザナミの返事はなかった。沈黙は肯定を意味していた。


拆雷(サクイカヅチ)たちを発狂させた力は、非常に危険な代物。

 扱い方を誤れば、私自身もまた破滅しかねない。

 でもこれ以上戦い続けるというなら。スサノオ達を傷つけようというなら。

 私は躊躇(ためら)わない。もう一度この場で、切り札として使わせて貰う』


 無論使用すれば、スサノオ達にも影響を及ぼしかねない、諸刃の剣なのだが。

 ツクヨミの毅然とした態度は、覚悟の現れでもあった。


 イザナミの心に恐怖が芽生えているのをツクヨミは感じた。だが不十分だ。

 それにツクヨミも、イザナギとイザナミの子。ただ母を脅すだけの説得はしたくなかった。


『……でもこれは、あくまで最後の手段ですよ。母上。

 恐らくこれが、和解する最後の機会(チャンス)でしょう。

 母上、どうか……スサノオや私の想いを、尊重してやって下さい』


『…………』イザナミの心は激しく揺れ動いていた。


『私は黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、大岩の神ヨミドノサエに触れた時……父イザナギの記憶も読み取りました。だから分かるんです。

 今でも父は──妻たる貴女を深く愛している。

 私の時戻しによる母上の姿こそ、何よりの証。

 貴女の今の神々しくも美しき姿は、父イザナギの愛情の現れなのです──』


「なん…………じゃと…………」


 イザナミは思い出した。かつて夫イザナギが黄泉(ヨミ)の国を訪れた時。

 二柱が大岩ヨミドノサエによって遮られ、別れ際に交わした最後の会話を。


『イザナギ! 愛しき我が夫よ! このような酷き仕打ちをよくも。

 ぬしの国の人々を、一日千人、絞め殺してくれようぞ!』

『イザナミ! 愛しき我が妻よ! そなたがそのように申すならば。

 我は一日千五百の産屋(うぶや)を建て、生まれさせよう!』


 イザナミの呪詛(じゅそ)によって、葦原(アシハラノ)中国(ナカツクニ)では毎日千人が死に。

 イザナギの返しの言霊(コトダマ)によって、毎日千五百人が生まれるようになったとされる。


 夫が醜くなった妻の姿に驚き、逃げ惑ったのは事実だが。

 それでも――(けが)れに満ちた姿を見た後でさえも。イザナギは彼女を「愛しい」と言ってくれたのだ。


(ああ――イザナギ――我が夫よ――)


 いつしかイザナミの瞳から──涙が一滴、頬を伝わっていた。


 荒ぶっていたイザナミの魂は鎮まり、久しく忘れていた暖かい気持ちが込み上げてくる。

 彼女から溢れ出る、本来持っていた清らかなる神力に――まとわりついていた(けが)れは霧消していった。


 傍で倒れていたスサノオに憑いていた(けが)れもまた、洗い流され……少年神はうっすらと目を開けた。


「……母上、すげェ……綺麗だ……」

「スサノオ……しっかりするのじゃ、気を確かに持てッ」


 イザナミは自然と体が動き、スサノオを助け起こしていた。

 傷ついた子を母親が助ける事に、理由など必要なかった。


「……やっぱり、信じて良かった……

 母上は、オレの思っていた通りの。優しい母上だった……」

「分かった、もうよい! (われ)の負けじゃ。

 (われ)は……ぬしらが死して腐り落ちる姿を見るなど、耐えられぬッ……!」


 ツクヨミも、スサノオも。そしてアマテラスでさえも。イザナミが直接産んだ訳ではない。

 故にイザナミは彼ら三貴子に対し、真に親子の情念を抱く事はないだろうと思っていたが。

 しかし今、目に映る彼らの顔には――かつての夫イザナギの、愛おしい面影が色濃く映っていた。


(こうして命ある姿で、子に触れられる日が来ようとはのう……)


 だがこれは、ツクヨミの神力による一瞬の出来事。

 永遠ではない。過去は戻らない。

 キクリヒメの語る「思い出」が教えてくれたのは、そういう事だったのだ。

 恐らくはかつて、イザナギに対しても同じ事を……


「…………大雷(オオイカヅチ)

「……は、はい。大神(オオカミ)……さま」


 大雷(オオイカヅチ)は名を呼ばれ返事はしたが、美しき清らかな女神の姿となったイザナミに、戸惑いを隠せぬ様子だった。


「スサノオ達の邪魔立てはもう、やめじゃ」

「……本当に、よろしいのですか?」

「二度は言わぬぞ」

「……はいィ。畏まりました、大神(オオカミ)さま」


 蜘蛛の姿をした雷神は、直ちにイザナミの命に従い――恭しく一礼した後、地に潜って消え失せた。


「……ありがとう、母上」

「勘違いするでないぞ。ぬしらやイザナギを許した訳では決してない。

 ぬしは誓約(うけい)に勝った。負けた側が従うのは、当然の事じゃからな」


 スサノオのまっすぐな視線に、イザナミは顔を背けてしまった。


「それでも、ありがとう。姉上を返してくれて。皆を助けてくれて」

「……これ以上、繰り言を述べるでない。

 (われ)の気が変わらぬうちに、早々にこの黄泉の国を立ち去るがよい!」


 決して情愛にほだされただけではない。

 ツクヨミの脅迫を交えた懇願も、彼女を和解に踏み切らせた大きな要因だろう。


(今更こんな事をしたところで、(われ)が犯した、多くの命を奪い去った罪が消える訳ではないが。

 我が子らが和解を望み、然るべき証を立てたのじゃ。

 それに従わぬ道理はない。

 ツクヨミも、スサノオも。子はいつの間にか、成長するものなのじゃな……)


 結局、イザナミの願いは叶わなかったが。

 喜びを分かち合うツクヨミ達を、彼女は朗らかな気持ちで見守っていた。

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