二十二.国産みの記憶
「う……ぐおおおおおおおッッッ!!」
ウズメが介抱を受けて意識を取り戻した時、最初に耳に飛び込んだのはツクヨミの絶叫だった。
「え……何? 何が起こっているの……?」
まだ頭がぼんやりとしており、状況が掴めないウズメ。
凄まじい穢れの侵蝕に晒され、ツクヨミは頭が破裂するかと思えるほどの激痛と不快感の濁流に苛まれた。
思考が苦痛で埋め尽くされた刹那──彼は全身から血を噴き出した。
「がはッ…………」
白目を向き、地に倒れ伏す。
その姿は元のスサノオのものに戻っていた。
タヂカラオとオオゲツヒメは、月の神の凄惨な状況を見て青ざめている。
「……ツクヨミ……畜生めッ……!」
「ツクヨミ様、なんという事をッ……
スサノオ様。どうか、どうか目をお開け下さいませッ!」
「……我が子ながら、なんと愚かな事よ」
イザナミの声も心なしか、嘲りの色が薄れ、沈んだものとなっていた。
「我が穢れに生きながら苛まれるのは苦しかろう。せめて吾の手で、一思いに楽にしてやろうぞ──」
「オ、大神さまァ……あ、あれをッ!」
突如上ずった声を上げ、イザナミに這い寄ってきたのは、蜘蛛の姿をした大雷である。
配下の雷神に言われ、イザナミが目を向けた先には。
砕けたスサノオの剣の破片から誕生した……美しい女神の姿があった。
ツクヨミはイザナミの穢れを受け、血を流し倒れたが……己の十拳剣の刃の破片から、神を産む事には成功していた。
生まれたばかりとは思えぬほど、神々しい雰囲気を持つ穏やかな表情をした女神である。
「ほう……ツクヨミの産んだ女神かや。これはこれは……」
(あれだけの悪条件の中、かような美しき神を産めるとはのう。
少なくとも、黄泉の穢れに侵された悪神の類ではない……)
イザナミは少々面倒な事になったと思った。
この女神がツクヨミの言った通りの善神ならば、誓約に従い負けを認めなければならなくなってしまう。
(力を発揮する前に取り殺してしまうべきか?
いや、さすがにそのような横紙破りは許されぬ……)
「そなた……名はなんと申す? いかなる力を秘め、産まれたのじゃ?」
イザナミは女神に尋ねた。が……
女神は何も答えなかった。ただ、ニコリと微笑み返すのみ。
「今一度問うぞ。そなたの名は? いかような力を持つ?」
「…………」
イザナミの辛抱強い再度の問いに対しても、女神の反応は同じく無言であった。
「……何とまあ、期待外れである事よ」
イザナミは倒れたままのスサノオに対し、憐れみと嘲りを込めて言った。
「この期に及んで、己が名も語れぬような出来損ないの女神を産んでしまうとは。
いかに穢れておらぬとはいえ、かような結果で吾が負けを認めると思うか?
文字通り、命を賭した博打にそなたらは敗れたのじゃ、ツクヨミ。スサノオ。
……これで心おきなく、我が傍へと参れよう。
さあ……我が穢れを受け入れよ……!」
黄泉大神の腐った肉体から、不気味な紫色をした木の根のような穢れが生え、拡がっていく。
醜い穢れの塊は、形は絶えず崩れ悪臭を放ちつつ迫り、倒れたスサノオに覆い被さろうとしていた。
周囲にいたタヂカラオ達も、イザナミの蠢きに対しどうする事もできず、絶望していた。
その時だった。
微笑むだけで黙して語らなかった、女神の口が動いたのは。
唇の形が微かに変わる。だが声は何も聞こえない。
異変は、イザナミの精神に起こっていた。
不意に彼女の視界が一変した。
灰色の荒廃した大地が、一瞬にして青い海原へと変化したのだ。
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(なッ…………何なのじゃ、これはッ…………!?)
幻覚か? それにしてははっきりとし過ぎている。
何よりもこの光景……イザナミは見覚えがあった。
ここは天浮橋。国が産まれる前、最初に降り立った聖なる場所。
遠い遠い、遥か昔の記憶。海面に海月のような、頼りなく漂うものが見える。
あれは生まれたばかりの──国土。
「……汝ら二柱に、この天沼矛を授ける。
この漂っている国土を整え、つくり固めよ」
(これは……吾とイザナギに国産みを命じた、別天神の声……まさかッ)
イザナミはハッとなって、隣で天沼矛を受け取っている者を見た。
忘れる筈もない、兄にして夫たる……今でも愛して止む事のない、イザナギの姿がそこにあった。
(何故じゃ……何故今頃になって、このような昔の事を……)
こおろ、こおろ。
天沼矛が潮をかき混ぜ、その切っ先から落ちた塩が固まり、島が出来た。
イザナギとイザナミはその島に降り立ち、国産みと神産みを始めた。
(何もかもが全て、上手くいった訳ではなかったが……)
イザナミは目を閉じ、呼び起される昔の記憶を流れるままに辿っていった。
降り立った島を天御柱と八尋殿に見立て、美斗能麻具波比を行った事。
「──あなにやし、えをとこを」
「──あなにやし、えをとめを」
だが初めて産んだ二柱の子は、不具であった。
(済まぬ……ヒルコ、アワシマ……
吾から先にイザナギに声をかけてしまったばかりに……)
泣く泣く彼らを葦の舟に乗せ、海へ流してしまった後悔。
別天神からの太占の神託に従い、麻具波比の方法をやり直した後……二柱は数多の島々と神々を産む事となった。
(じゃがそれでも……イザナギと共に過ごし、国と神を産んだあの日々は……幸せであった。
カグツチに女陰を焼かれ、苦しみ抜いて死した瞬間まで、吾は夫に愛されておるのを感じた……)
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ふと、イザナミは記憶の海から現実に引き戻された。
広漠たる黄泉の大地。倒れ伏したままのスサノオ。
傍らには、微笑んだまま佇んでいる、先ほど産まれた名も知れぬ女神。
「……今の記憶を呼び起こしたのは、ぬしの神力か? 名すら語れぬ女神よ」
イザナミの問いに、女神は微笑みながらコクリと頷いた。
「懐かしき感傷に浸らせてくれた事には、礼を言おうぞ。
じゃが、全ては昔の事。もはや戻らぬ時の彼方よ。吾の意思は揺らぎはせぬ」
(そうじゃ、決定は変わらぬ。
いかに昔が懐かしく、あの頃に戻りたいと願った所でな──)
今度こそスサノオを殺すべく、イザナミは手を伸ばそうとした。