二十.ツクヨミの帰還
スサノオはアマテラスの鏡──奪われた彼女の『魂』を、ついに手にした。
高天原が暗雲に包まれた、あの屈辱の日から……ずっと求めていたものだ。
スサノオの疲弊は限界に達しつつあったが、鏡から漏れ出る陽の気が流れ込み、己の活力となるのを感じた。
(……姉上ッ……やっと、やっと会えた……!)
二度と離すまいと、スサノオは鏡をしっかと懐に抱く。
だが今の状況は、素直に喜べるものではなかった。
オオゲツヒメが救助に当たっているものの、タヂカラオとウズメは満身創痍。
そしてたった今、スサノオを助ける為にウケモチが穢れの中に飲み込まれた。
「……よもや、吾からアマテラスの魂を奪い返すとはのう……
成長したようじゃな、スサノオや……」
穢れの塊たる醜悪な物体から、イザナミの声が響く。
腹を裂かれ、姿形こそ大きく崩れているが――その声からも、漂う穢れの生む威圧感からも、その力が全く衰えていないのは明白だった。
「――何度も言うように、オレの目的は姉上の魂を地上に連れ戻す事だ。
母上を討ち果たすために、黄泉の国に来た訳じゃない」
スサノオは絞り出すように言い放つも。
イザナミは元の亡者の姿をすでに取り戻しつつあった。
「吾はぬしを褒め称えておるのじゃぞ、スサノオ?
後はその鏡を、黄泉の国の外まで持ち出す。それだけじゃ……じゃが。
それをいかにして為そうと考えておるのじゃ?」
イザナミの声には、嘲るような声色が混じっている。
「あの程度の剣で、吾の力を完全に散らす事ができると思うたか?
ぬしも疲労の極みに達しておる。吾の追撃を逃れ得るのかや?
それに……ぬしの仲間──彼奴らは何とする? 見捨てるのか?
よもや鏡を手にした時点で、吾が負けを認め、ぬしらを見逃すなどと思うまいなァ?」
畳み掛けるように問いを投げかけ続けるイザナミ。
確かに彼女の言う通りだ。
黄泉の国の地の大半が彼女の行動範囲である上、ここは黄泉の最奥に近い地。
イザナミの追撃を逃れ、地上に出る道のりは困難を極めるだろう。
「……確かに、仲間の大半が捕まっている上に、オレにも、オオゲツヒメにも余力なんざ残ってねえ。
これ以上戦い続ければ、オレ達は間違いなく地上に辿り着く前に全滅する」
「……よう分かっておるではないか、スサノオ。さすればどうするのじゃ?」
イザナミのからかうような詰問に――スサノオは答えられなかった。
策は無い。体力も神力も限界だ。この窮地を切り抜けられるような、都合の良い答えなど……
少年神が諦めかけていた、その時だった。
びぐん、と身体が震え――彼の心の内にあった空隙に、産まれた時から知っている感覚が蘇る。
『――待たせたな、スサノオ。戻るのに少々、手こずってしまった』
(…………ツクヨミ!)
スサノオは歓声を上げた。
雷神に魂魄を攫われた月の神にして、己が兄。
いかなる手段を用いて、自力で戻って来れたのか。判然としないが――そんな事はどうでも良かった。
絶体絶命のこの状況に於いて、失われていた片割れが戻ってきたのだ。
常に共に在った為、時には疎ましく思う事もあったが……それでも、スサノオは兄を頼っていた。兄がいなくなって初めて、それに気づく事ができた。
スサノオの希望を取り戻した表情で察したのだろう。イザナミは小さく舌打ちしていた。
「拆雷の役立たずめ……
そこにおるのじゃな? ツクヨミ。もう一柱の我が子よ。
ならば、母にその顔を見せるがよい」
黄泉大神の言葉に応え――スサノオの身体は変貌した。
茶色がかった黒髪は月の光を帯びた銀髪に。逞しき肉体は女神の如く白くたおやかな肌に。纏う白き衣袴は闇色の御衣へと。
「…………母上」
発する言葉ですら、勝ち気な少年のものから、女性のように艶やかな声へ。
(…………よし。問題ない。女月神は眠った。
また再び、生命の危機に晒されぬ限りは――目覚める事はない、はず)
美しきツクヨミの頬に、一筋の冷や汗が伝っていた。
ここから先、言葉のひとつひとつにも細心の注意を払わねばならない。
大きな「賭け」に出て、強大なる黄泉の女王に打ち克つ為には……
「今のこの状況では、我らに到底勝ち目などない。
勝ち目どころか、生きて地上に逃げ延びる目すらもないだろう。
母上。過ちを認め、許しを請えば――このツクヨミを、見逃していただけますか?」
『なッ…………!?』
月の神の予想だにしなかった申し出に、スサノオとオオゲツヒメは衝撃を受けた。




