十九.狂乱の女月神(ヒメツキノカミ)★
「ククヒヒヒ……! 男神の裸なんぞ趣味じゃあねェんだが……
ツクヨミ。貴様ほど艶のある神なら、興が乗るってモンだよなァ。
せいぜい拝ませて貰うぜェ!」
衣服を裂かれ、露になったツクヨミの肉体を一目見ようと、拆雷は大きく身を乗り出した。
だが次の瞬間、彼の目に飛び込んできたのは――凄まじい輝き。
真っ黒な球体が見えた。その外周から放たれる、眩しき光が拆雷のみならず、ツクヨミの肉を貪っていた黄泉醜女二体の目をも灼いてしまった!
「ギッ…………!? な、何だァッ…………?」
光自体は大した損傷ではなく、雷神の視力は再生能力ですぐに回復する。
彼が見た先にいたのは――激しく流血しつつも、亡者どもを振り払い悠然とその場に立つ……ツクヨミである。
拆雷は今まで感じたことのない、奇妙な恐怖に囚われていた。
「何だッ……貴様は一体……!?
ツクヨミ……なのかッ……」
雷神と黄泉醜女二体に囲まれた中心に立つ、神々しき姿。
流れるような銀髪に、透き通るような白い肌。男女の領域を超越した、何者をも魅了せずにはいられない美しき顔と、一糸纏わぬたおやかな肢体。
右の首筋と左の脇腹からは未だ激しく出血しているが、その痛々しさすらも気にならぬほどの輝きを放っていた。
(馬鹿なッ……拘束した時の感触では、華奢ではあるが確かに男神だったはず!
なのに今のこやつは……まるで……女神ッ……!?)
立ち上がったツクヨミは、伏し目がちのまま口を開く。
「私は……ツクヨミ……女月神」
「何だとォ……では今までの男神の姿は、偽りであったというのかッ」
「偽りにあらず。かの姿もまた、私の持つ数多ある姿のひとつに過ぎぬ。
亡者どもが、我が闇の御衣を引き剥がした事により……我が内にある夜之食国が溢れ出したのだ」
「何……を言っている。身体の中に……国だとォ?」
拆雷はツクヨミの言葉に理解が追いつかず、思考が混乱してきていた。
「まるで意味が分からんぞ!
それに先ほど見えた、黒き太陽のような光はッ……何なのだ!?」
「あの光は……日食の光。羅睺の力が引き起こす現象」
「戯言をッ……羅睺だと!? 九曜の一つである凶星ではないか。
それは本来、スサノオの力である筈だッ! 何故月の神である貴様がその力を得ている!?」
雷神の上ずった声の詰問に、ツクヨミ──いや、女月神は初めて興味深そうな笑みを浮かべる。
「ほう……汝は知っておるのか。天竺の占星術を。
我が弟に宿っている神力の正体についても」
「見くびるなよ!
黄泉の国に来る亡者は、葦原中国出身の者だけではないからなァ」
「ならば話は早い。汝の問いに答えよう。
私は月であると同時に、羅睺でもある。
いや、もっと正確に言うなら……羅睺などという星は存在しない。
計都もまた然り。この事実は天竺の占星術では、知られておらぬがな」
羅睺と計都。天竺の占星術及び、中国の宿曜道、日本の陰陽道において、日食や月食の原因とされる凶星である。
「な……な……で、出鱈目を言うなァ!?
羅睺星が存在せぬだと?
では月の神である貴様が、直接日食を引き起こしているとでも言うのかァ!?」
「汝は混乱しておるにも関わらず、理解が早いな。その通りだよ」
女月神は悪戯っぽく微笑む。見ているだけで魂魄の全てを持っていかれそうな、小悪魔めいた妖艶な笑みだった。
「……もっと議論を愉しみたいところではあるが、今は時が無い」
彼女の声に、黄昏よりも、闇よりも深い、狂喜の色が滲む。
「汝が知らぬ『羅睺・計都が存在せぬ』事を知っているように。
我が内には、闇に葬られた『忘れ去られしもの』の全てが眠っているのだ。
汝や亡者のされるがままに甚振られたのも、自らでは脱ぐ事のできぬ闇の御衣を、汝らの力で以て引き剥がして貰いたかったからよ」
彼女の笑みに、黄泉の神や地上の禍津神よりも昏い、嗜虐の色が垣間見えた。
その言葉の意味するところは、奴の着ていた闇色の衣は、単なる衣服ではなく――封印の為の拘束具であるという事だ。
「あぁ、痛い。痛い。痛い。痛い。でも愉しみだよ。
次は汝らが悶え苦しむ番なのだからね。
この女月神の姿を見た者に、平等に見る事を許そう。
我が内なる世界、夜之食国の深淵を。
遥か遠き闇の空に封じられ、『忘れ去られしもの』の……本当の『痛み』を知るがいい」
妖艶なる月の女神の放つ言葉に、黄泉醜女たちから恐怖の感情が膨れ上がるのを拆雷は感じ取った。
(どういう事だァ!? 黄泉の国においても強大な力を持つはずの黄泉醜女どもが……恐怖するだと?
そもそも奴らに、そんな感情を抱くような知性や理性が存在したというのか!? 一体何が始まるというのだ?
夜之食国の深淵……だとォ……?)
スサノオとの連携を警戒し、ツクヨミを引き離すのがイザナミの作戦であった。
これまでの戦いぶりから、ツクヨミは誰かの支援役としては有能でも、自ら戦いを為す力には乏しいと思われていたからだ。
だがそれは間違いだった。
この狂気を放つ月の神を、独りにするべきではなかった。
仲間がいないからこそ、今のこいつは全力を出せる。
「心せよ。そして出来うる事なら、手遅れになる前に逃れるがいい。
でなければ──汝らは二度と戻ってこれなくなる」
亡者どもの抱く本能的な恐怖が、拆雷に疫病のように伝播する。
女月神の姿は、男神であった頃とは比較にならぬほどの目映い美をたたえ、己の全てを委ねたくなるほどだ。
だが同時に、耐え難い恐怖と狂気もまた、突き上げてくる。
この場にいてはならない。一刻も早く逃走するか、即座にツクヨミを殺さなければならない。さもなくば、何もかも手遅れになるだろう。
これから何が起こるのか、まったく理解が及ばなかったが……未知故の強い恐怖が、雷神と亡者どもを突き動かしていた。
殺せ。殺せ。殺せ! これ以上、この神に口を開かせてはならない!
恐るべき言霊を発するであろうその喉笛を噛み千切り、首をねじ切るべし!
黄泉醜女二体が左右から、女神となったツクヨミの首に肉薄し、その穢れた牙を突き立てた。
先刻とは比べ物にならないほどの鮮血が噴き出す! これで死なぬ筈がない。もし死なないなら、それは神の姿をした何か別の化け物だ。
ところが拆雷の瞳に映ったのは……凄まじい量の血を流しながらも、変わらぬ笑みを湛えた女月神だった。
雷神の安堵の笑みは、見る間に引きつった恐怖の笑みへと変わり果てる。
次の瞬間、狂った瞳をした女神の口が──蠢いた。
『天地初發之時於高天原成神名天之御中主神訓高下天云阿麻下效此次高御産巣日神次神産巣日神此三柱神者並獨神成坐而隱身──』
女神の口から膨大な言霊の波が飛び出した。耳を塞いでも無駄だったろう。彼女の言霊は言葉ではなく、思考そのものなのだから。
いかに超速で動ける黄泉醜女といえど、思考より速く動ける訳ではない。
拆雷は女月神の発する凄まじい、夏の蠅よりも大きく木霊する思考の量に圧倒されつつも、その本質を心の奥底で理解した。
『次國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣琉之時如葦牙因萌騰之物而成神名宇麻志阿斯訶備比古遲神次天之常立神此二柱神亦獨神成坐而隱身也上件五柱神者別天神──』
偉大なる三貴子が一柱でありながら、ツクヨミがスサノオの内に封じられ、神話においてもほとんど記述されない真の理由。
それは彼(あるいは彼女)が月の神であり、同時に夜空の星々の神でもあったからだ。
星々の神、すなわち天地開闢の折に現れては消えていった別天神らと同等の存在。
彼らは性別はおろか姿形すらも定かではなく、しかも太古においていかなる信仰が成立していたのかの記録も残されてはいない。時と共に忘れ去られたのだ。
夜之食国には、遥か昔に忘れ去られた膨大な知識と記憶、そして信仰の全てが留まり、記録され、彼女の内に秘められていた。
光よりも速い思考と闇の凄まじい波は、八百万の歳月にも匹敵する物量となり、雷神と亡者たちの脳髄に叩き込まれる。
しかも実際の時間では一瞬だが、体感する時間では永劫に回帰する終わりなき拷問に等しかった。
黄泉醜女たちは全身から腐汁を撒き散らし、倒れた。思考の濁流から逃れようにも、叶わなかったのだろう。
(マズイ、マズイ、マズイ、マズイィィィィ!?)
拆雷もようやく事の深刻さに気づいたが、すでに何もかもが遅かった。
『次成神名國之常立神次豐雲上野神此二柱神亦独獨神成坐而隱身也次成神名宇比地邇上神次妹須比智邇去神次角杙神次妹活杙神二柱次意富斗能地神次妹大斗乃辨神次淤母陀琉神次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音次伊邪那岐神次妹伊邪那美神上件自國之常立神以下伊邪那美神以前併稱神世七代──』
文字通り天地開闢から蓄積された知識・記憶の全てを叩きつけられるなど、その末路にあるのは発狂以外に有り得ない。
再生能力など意味を為さなかった。ツクヨミの御衣を剥ぎ、女月神の姿を取らせるべきではなかったのだ。
その結論に行き着いた時、拆雷の思考は──黄泉の国の果てへと飛んでいった。
それは彼の精神と、彼の統括する雷地獄の崩壊を意味するものだった。




