十八.引き剥がされし闇の御衣
イザナミの腹を裂いて出てきたのは、黄泉の底でさえなお照り輝く「鏡」。
(やっと……見つけた! 奪われた姉上の「魂」だッ!
もう少し……手を伸ばせば……届く。姉上を救い出せるッ!!)
スサノオは振るった十拳剣を放り投げると、鏡を己が手に収めんとした。
だが即座に気づいた。黄泉大神イザナミは未だその穢れ、いささかも衰えてはいない。
イザナミの腐った肉体の内側から、無数の蛆と小さな土気色の指が湧くのが見えた。
凄まじい増殖速度。このまま手を伸ばせば、スサノオの右手は確実に侵蝕されるだろう。
(ぐッ……どうする? 風を生み出して吹き飛ばすか?
ダメだ。そんな事をすれば、鏡ごと全部どっかに飛んでいっちまう――)
スサノオは悔やんだ。兄ツクヨミがいれば。
己の「時」を加速させ、目にも留まらぬ速さで鏡を奪うのも可能だったろう。
あるいは己の感情を調整し、鏡以外の穢れを祓う風を作り出す事もできた筈だ。
(……ウジウジ考えてても仕方ねえ。こうなったら……!
一か八か、強引にでも……姉上を掴み取るっきゃねえッ)
覚悟を決めたスサノオは、強い穢れの只中にある鏡に近づいた。
その時であった。
「――早マルナ」
スサノオの背後で、小さき闇の神ウケモチが、低い声で制止した。
一瞬躊躇している隙に、小さな身体はスサノオを飛び越え――桃弓に葦矢をつがえ、引き絞る。
スサノオも彼の意図を理解した。穢れを祓う葦の矢を至近距離で放つ事で、鏡を傷つける事なく蛆や指を一掃する気なのだ。
だがこの僅かな時間では、鏡のある下半身側は撃ち祓えても――上半身から迫る穢れには到底対処できない。
(馬鹿、やめろウケモチッ! そんな事をすれば――お前がッ――!)
少年神が叫ぶ暇もなく、矢は放たれた。
下腹部のイザナミの蛆たちはたちまち吹き飛ばされ――アマテラスの鏡も宙を舞った。
申し合わせたかのように、スサノオが伸ばした手にすっぽりと収まり――掴み取る!
スサノオが跳んだ勢いのまま地面を転がり、イザナミの躯から離れたと同時に。
ウケモチの身体は無数の蛆や腐った指の濁流の中に飲まれていった。
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時は僅かに遡る。
ツクヨミは魂魄だけとなった拆雷に不意を突かれ、スサノオの肉体から無理矢理引き剥がされてしまった。
「…………ッ」
一時的に気を失っていたらしい。
ツクヨミが目を覚ますと、周囲の景色が一変している事に気づいた。
嵐の中に放り込まれたような世界で、地に足は着いているものの、奇妙な浮遊感がある。辺りは絶え間なく雷が降り注ぎ、片時も気が休まらない。
ふと背後から、嫌らしい醜い声がした。
「……よォ~こそツクヨミ。この拆雷が支配する雷地獄へ。
名前通り、晴れる事のない雷雲がひっきりなしに雷を落とすだけの、平凡な地獄だがねェ」
大百足の姿をした雷神はツクヨミに襲いかかり、彼の闇色の御衣を切り裂いた。
「……あッ……がァッ……!」
咄嗟に躱した――と思いきや、胸が悪くなるような激痛が月の神を襲う。
「ククク! ヒヒヒ! 苦しいかね? 魂魄の姿でいるのは初めてかァ?
精神は悪意で触れられただけで傷つく。たとえ服だろうと、薄皮一枚だろうと――貴様の魂魄は削られる」
苦痛に呻く美しい男神に、拆雷は嗜虐心を刺激され愉悦を味わった。
だが次の瞬間。ツクヨミの姿が雷神の視界から消えた。
「!?」
ツクヨミが月の神力を用い、己の時を加速させたのだ。
いつの間にか背後に回り、どこに隠し持っていたのか……黒い十拳剣を振るい、雷神の胴体を薙いだ!
「ゴゲエッ!?」
頭部と尾部の二つに分かれ、奇怪な悲鳴を上げる雷神だったが……すぐに笑みを浮かべて恍惚とした表情になった。
「ギハハハ……痛ェ~~よッ! だが、全然物足りねェ。全ッ然ねええ!」
断ち切られた事すら、悦びであるかのように言い放ち……拆雷の肉体は断面が組み合わさり、あっという間に傷口が再生し治癒していく!
(ぐッ……高天原で戦った時も思ったが、凄まじい再生能力だ)
「我は拆雷。イザナミ様の女陰に宿りし雷神なり!
女陰は生命を産み出す源泉ぞ。故に我は、八柱の中でも随一の耐久力と再生力を併せ持っているのだァ!
いたぶるのも、いたぶられるのも等価値に愉しめるって訳さァ……ヒャハハ!」
百足の雷神は完全に元の姿を取り戻し、再びツクヨミと対峙した。
「貴様の剣の腕と時を操る神力。三貴子の一柱なだけの事はある。それは認めよう。
だが全くもって、軽いねェ! 我の命を完全に断ち切ろうという、殺気も気概もまるで感じられねェ!
貴様の弟スサノオは、もっと凄まじかったぞ? せめて奴ぐらい必死になって抵抗してみせろォ!」
雷神は完全に侮るような発言を繰り返していたが、心の奥底では奇妙な警戒心が芽生えていた。
この月の神の持つ力は、こんな程度のものではない……筈なのだ。
何か切り札を隠し持っている。根拠はないが、拆雷は何故か確信に近い感情があった。
(ここまで挑発しても、隠し玉を見せる気配すらないなァ……だが油断はできぬ。
イザナミ様がスサノオを殺すまでの時間稼ぎが我の目的ではあるが、下手に攻めて手痛いしっぺ返しが来ないとも限らん)
拆雷は試してみる事にした。
「…………はッ!?」
ツクヨミの背後に、二つの異形の亡者が姿を表した。
仰向けに這いずり、強力な穢れを宿した腐乱した女の亡骸。黄泉醜女だ。
「貴様一柱で二体の黄泉醜女に対処できるか?
できなければ死ぬだけだがなァ……こいつらは我の命令も、イザナミ様の命令も聞きはせん。
美味そうな陽の気を放つ餌に群がり、食い漁るだけだァ……」
ツクヨミの美しい顔に、焦りと怯えの色が浮かぶ。
迫りくる危機に立ち向かおうとするものの、消耗しきったその身のこなしはどうしようもなく鈍い。
ギギギヒヒヒッッッ!!
おぞましき亡者どもが耳障りな奇声を発し、即座にツクヨミへと襲いかかった。
「……あがッ……ああああッ!!」
ツクヨミは超速の黄泉醜女の動きに全く対応できず、右の首筋と左の脇腹をそれぞれ食いつかれてしまった。
無慈悲にツクヨミの肉を貪り、鮮血がほとばしる。そして彼女らは腐乱した手足をバタつかせ、すでに傷だらけだった闇の御衣をバラバラに引き裂いた!




