十六.黄泉大神イザナミとの総力戦・其の三
一方、前線では。
糸に囚われたタヂカラオ、ウズメを救い出そうとスサノオが懸命に立ち回っていた。
スサノオの必死に動き回る様を、イザナミは憐れむように、嘲るように言った。
「ぬしの動きなど、手に取るように分かる。
何故吾が、逃げ延びる寸前のイザナギに肉薄できるほど走れたと思う?
後に道敷大神と呼ばれるほどにのう……」
スサノオが動くたび、土中から湧き上がる不気味な腐手に阻まれてしまう。
「吾は黄泉の国であり、黄泉の国が吾なのじゃ。
この国は全て吾が支配する体内に等しい。
体内で起こりし事は全て把握でき、全ての場所に瞬く間に移動する事ができる」
無数の手が次々と殺到する。斬っても斬っても、新たな腕が湧いてくる。
際限なく迫る攻勢に、スサノオはとうとう剣を握る右腕を掴まれてしまった。
「うッ……おォッ……!?」
腐った死人の腕から、おぞましき穢れが湧く。
地上の悪神や、荒ぶる海神など比べるべくもない。
スサノオとて天津神でありながら、穢れの類には幼い頃から慣れ親しみ、耐性があるつもりだったが……漂ってくる桁違いの腐臭。恐怖。破滅。
(このまま掴まれてたら……利き腕が腐っちまうッ! 何とかしねえと……!)
焦る気持ちだけが逸り、数瞬先の未来がスサノオの脳裏をよぎる。腕を失う絶望。間に合わない――
刹那。ひゅう、と風を切る音が鳴り……腐手の手首に一本の矢が生えていた。
「ッ!?」
葦の矢である。古来より穢れを祓い、鬼を退けるとされるもの。
スサノオの腕が腐り落ちる寸前、葦に込められた神力が腐乱した腕を四散させていた!
「――惑ワサレルナ」
矢を放ったのは、桃木の弓を構えし小さき闇の神ウケモチ。
「奴ハ全てヲ見る力はアルガ、全てヲ把握する力はナイ。
付け入る隙ハ、必ずアル」
ウケモチは淡々とスサノオを励まし、腐手を躱しつつ一房の葡萄を投げて寄越した。
「食エ。消耗した神力ヲ取り戻セル」
促され、葡萄を頬張ると……呆けていたスサノオも我に返った。
(本当に母上が、黄泉の国で万能の存在だというなら……
何故、黄泉比良坂にオオカムズミがいた?
父上の残した葡萄や筍がそのまま残っていた?)
確かにウケモチの言う通り、イザナミは決して太刀打ちできない敵ではないかもしれない。
スサノオは目に光を取り戻し……十拳剣を握り直した。
剣の内に陽光めいた輝きが、鈍く強さを増している。
「お前に言われるまでもねえ……! だがありがとよ、ウケモチ」
「…………フン」
希望と闘志を取り戻したスサノオとウケモチに、イザナミの怒りに満ちた声が轟いた。
「忌々しや! 余計な口を閉ざすがよいぞ、この小神めがッ!」
黄泉の女王の声が大気を騒がせた後……タヂカラオが撃ち崩した断崖から、巨大な仄暗き腕が勢いよく飛び出してきた!
「こいつは受け流し切れねえ! いったん大きく跳ぶぞ、ウケモチ!」
跳び退こうとした二柱に対し、土中に隠れていた無数の蜘蛛が粘つく糸を飛ばし、拘束しようとした。
だが神力を回復させたスサノオが風を起こし、糸を吹き飛ばすと同時に跳躍の為の追い風と化す!
間一髪、仄暗き腕の魔手が地表を押し潰す寸前――スサノオとウケモチは逃れる事ができた。
イザナミの巨腕が、黄泉の国そのものをひっくり返さんばかりに大地を揺るがす!
だがスサノオはイザナミの凄まじい力よりも、気がかりな事があった。
スサノオの剣の輝きは、今は消えている。
(やはりだ……さっき、ツクヨミが雷神に攫われた時にも起きた……!
これはひょっとして……)
スサノオは考えを巡らせた。次に母はいかなる行動に出るか?
(オレが母上なら……こうやってオレたちを追い立てるだけで体力の消耗を促せる。
そしてオレたちの動きが鈍ったら、本命の攻撃をぶちかませばいい……)
持久戦はこちらに圧倒的に不利だ。囚われたタヂカラオやウズメも手遅れになるかもしれない。
ならばどれだけ相手の裏をかけるか。緊迫した命のやり取りの最中にも関わらず、いやそれ故か……スサノオの精神は高揚していた。
(ここからが正念場だぜ……! さあ来い母上……!)
スサノオの予測を肯定するかの如く、無数の腐った腕が地面から生え、絶え間なく攻め立ててくる。
イザナミの千万腐手。穢れを纏いし無数の手は、一日千の人間を絞め殺すため魂魄を黄泉へと引きずり込む、荒ぶる死の具現であった。
スサノオはウケモチと共に、迫りくる手を躱し、払い、時には十拳剣で斬り裂く。
(だがッ……これはオレの待っている攻撃じゃあねえ……
まだだ。もう少し耐え忍べ……!)
スサノオは激しく動き回りながらも、機を執念深く待ち続けた。
「どうした、スサノオ……動きが鈍くなっておるぞ」
イザナミの嘲笑の声が響く。スサノオの軽やかだった身のこなしは徐々に精彩を欠き始め……腐手がスサノオの身体を掠めるようになった。
「ぐッ……くっそォ!」
スサノオの表情に焦りの色が浮かび、呼吸が乱れていき、神剣を振るう力も段々と弱まってきている。
神力こそ葡萄で回復できたものの、体力の限界が近いのだ。
イザナミの思惑通りに戦いは推移していた。




