十四.黄泉大神イザナミとの総力戦・其の一
イザナミの出現により、黄泉の国の大地が穢れた土と毒蟲へと変わり、ツクヨミとスサノオを飲み込まんとしていた頃。
そこからさほど遠くない、白濁した水を湛えた海を進んでくる影があった。
目と鼻に傷を抱えた巨大な黒鮫。
八雷神の一柱、黒雷が変身した八十合神・影鰐である。
影鰐の背後には二艘の葦の舟が繋がれており、それぞれにタヂカラオとウズメ。オオゲツヒメとウケモチが乗り込んでいた。
影鰐こと黒雷は戦いに敗れた後、ウケモチの葦矢によって心臓を狙われていると脅され――彼らの要求に従い、イザナミの下へと道案内をさせられていたのである。
「最奥の玉座の間じゃないけど……あの尋常じゃない事態は、間違いなくイザナミね」
ウズメは海岸から遠くを見やり、その先で起こっている怪異を把握したようだった。
「……言った通りだろォ……? オデ、命かかっでる時、嘘づかないィ……」
黒雷が濁声で卑屈にへつらってきた。
「約束通り、オデを生かして逃がしてぐれェ……
このままイザナミ様の下へ行ったら、オデ殺される……」
哀れっぽい声音を上げる雷神に、ウケモチはにっこりと笑顔を向けた。
「安心シロ。オイラ、約束は守ル」
優しい言葉と良い笑顔とは裏腹に、ウケモチは約束を守る気などこれっぽっちも無かった。
逃がしたところで、ウケモチ達に全く利点がないのだから仕方ない。
小神のような外見に似合わず、闇の神は状況次第で嘘をつく事に、何の躊躇いもなかった。
何より今は非常事態。強大なイザナミに助力を与えるような真似は避けたい。
黒雷の体内にいた時、心臓の位置を把握・捕捉している。
ウケモチは笑顔のまま、雷神の体内に残してきた矢を操り、心臓を射抜こうとした。
鋭い音が、海岸に響き渡った。
影鰐の巨体は貫かれていた。外側から。
海岸の灰色の土が尖り、銛のように鋭くなって。
「なッ…………!?」
ウケモチの命令が実行されるより早く、黄泉の国の大地が黒雷に制裁を加えていたのだ。
「ギ……ゲゲ……そん、な……イザナミ、様ァ……お許じを……」
次の瞬間、影鰐の姿は爆散した。
後に残ったのは、ウケモチが放とうとした葦矢だけであった。
ウケモチは戦慄した。己が射抜こうとするより早く、イザナミが動いた。
しかも彼らが海岸に来ている事も、すでに見抜かれていたようだ。
「おい皆、見ろ! 無数の手に襲われてるの……スサノオじゃねえか!?」
タヂカラオが焦り声を上げる。
ちょうどツクヨミの「魂」が拆雷に拘束され、別の地獄へと連れ去られた時だった。
「急ぎましょう、みんな! このままじゃ、スサノオくんが殺られちゃう……!」
ウズメの言葉に従い、オオゲツヒメをはじめとする仲間たちは駆け出した。
今しがたの黒雷の惨状を見て、自分たちの存在がイザナミに気取られている事は、皆承知していた。
だがそれでも、誰もが躊躇なく動いていた。ただ、スサノオを救う。それだけの為に。
ウケモチも気持ちを切り替える事にした。
今は恐怖に震えている暇すらない、と。
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膝をつき項垂れているスサノオ。
黄泉大神イザナミは、穢れた巨大な腕を伸ばし、無数の毒蟲を地に這わせながら迫った。
「さあ、スサノオや。この母イザナミに身も心も委ねよ。
悪いようにはせぬ……ぬしも愛しき我が子である事に変わりはないからのう」
亡者の多くが、夏の蠅のような耳障りな声を上げるにも関わらず。
黄泉の女王たるイザナミの声は、慈母の如き優しさと美しさで、スサノオの耳に心地よく響いた。
この絶望的な状況にあっては、いかに豪胆な魂魄を持つ神であっても、従い受け入れてしまうかもしれない。
ところが。
イザナミの腕が届く寸前、スサノオの周囲を一陣の風が吹き、渦を巻いた。
風の力は瞬く間に増し、巨大な質量を持つはずの穢れた腕は土塊となって飛び散った。と同時に、這い進んでいた毒蟲の群れも舞い上がり、吹き飛ばされる!
「──さっきも言ったろう、母上。
その申し出は受け入れられない、って」
スサノオは立ち上がり、幽鬼めいた表情で十拳剣を構えた。
勝算はない。
生まれてからずっと共にいた兄ツクヨミの魂も奪われ、奈落のような空隙が心の中にポッカリと空いていた。
「かような状況で、孤独であるにも関わらず。心は変わらぬと申すのかや?」
イザナミはあくまで心穏やかな風を装っているが――声の奥底に、微かな苛立ちが滲むのを隠すことができなかった。
「愚かな事よ。勝ち目なき戦いは、ぬしの苦痛を増し、より痛ましい傷跡を残すだけぞ?」
母の言う通りかもしれなかった。
それでも――スサノオは拒絶した。使命感というより、子供じみた意地のようなものだ。
首を振り、掠れるような声で――子は母に抗った。
「……もう一度言うぜ、母上。姉上の『魂』を返してくれ」
「くどい! こちらも答えは変わらぬ。欲しければ奪うがよいッ!」
イザナミは今度は、圧倒的な質量を持つ土塊を隆起させ、スサノオを一気に押し潰そうとする! かつて地上で、土雷も使っていた技だ。
もはや並大抵の風では吹き飛ばせない。スサノオは残り少ない神力を集中させ、さらに強い大風を起こそうとした。
周囲の空気が渦を巻き、切り裂くような轟音を上げ猛り狂う。
スサノオの大風は一旦はイザナミの攻勢を押し戻した。
が、やはりカグツチ戦の時のような神力は取り戻せておらず……加えてツクヨミによる精神的支援もない。
嵐も長くは続かず、集中が途切れた。
そこに容赦なくイザナミの眷属が殺到する!
(くッ……駄目か。ここまでかよ……!)
神力が底をつき、万事休す――
不意にスサノオの周囲に、八本の葦矢が突き刺さった。
「……これはッ!?」
食物の女神オオゲツヒメに寄り添う、小さな闇の神ウケモチの放った、穢れを祓う矢の布陣だ。
「スサノオくん。間一髪だったわね」
スサノオの前に、二柱の神が立っていた。
片方は、快活そうな舞の女神ウズメ。振り向きざまにスサノオに片目をつぶると、両手の筆架叉を手に、新たに舞い始めた。
(スサノオくんの、猛き風を想像してッ……力に変える!)
ウケモチの矢からほとばしる浄化の力を、ウズメの風の舞が運び上げる!
地上を這う毒蟲の群れは、悲鳴のような羽音を響かせた。
ウズメの起こした風による祓いの力を本能的に避け、矢の陣から波が引くように逃げ出していく。
「待たせたなスサノオ。シケた面してんじゃあねーぜッ!」
続けざま、聞き覚えのある力強い声が耳に飛び込んできた。
矢の陣のさらに先に、偉丈夫の男神タヂカラオが降り立ち、漲る力を拳に溜めて構えている!
彼の腕は先の火髑髏との戦いで大火傷を負っていたのだが……ウケモチと合流した際、彼の持っていた桃の実を食べて癒していた。
イザナミの操る大質量の巨腕が迫る寸前、タヂカラオは地面に向けて渾身の一撃を放つ。
途端に轟音が黄泉の国中に響き渡り、たちまち地割れが発生した。
彼の立っている先の大地が、盛大な悲鳴を上げて崩れ去っていく。
足場を失った巨腕は均衡を崩し、地割れの中へと飲み込まれていった!
「は……ははッ。みんな、無事だったのかよ。
相変わらず出鱈目な力技だぜ……」
皮肉めいた声を上げるスサノオであったが。
古今東西、窮地に駆けつけてくれた仲間ほど心強いものはない。
強大な敵に立ち向かう勇気を再び取り戻すのに、それは十分すぎるものだった。