十二.黄泉を統べる者・前編
ツクヨミとスサノオは太占の結果に従い、熱泥地獄を離れ――さらに黄泉の国の最奥を目指した。
カグツチの支配領域であった地を離れた途端、見慣れた肌寒い曇天と灰色の大地が視界に入った。
(今の地上……葦原中国も似たようなものだ。
これがかつて私が望んだ世界だというのか……)
ツクヨミは思う。己は光ある限り目も見えず、神力を消耗する身。
夜闇の中でしか生きられず、彼は昼の世界を憎んだ。太陽神アマテラスを憎んだ。
しかしそれでも――ツクヨミが理想とする夜之食国と、黄泉の国は違う。
夜には闇に生きる生き物が。夜空に輝く星たちがいる。
だがここにはそれが無い。荒涼にして腐り果てた死の大地。そこにツクヨミの望む安寧は――恐らくあるまい。
全てが死の世界に染まる前に、母であるイザナミの暴走を食い止めねばならない。
ツクヨミは改めて、そう思うのだった。
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二柱が旅して三日が過ぎた。
オオゲツヒメの食糧支援はないが、どちらからも空腹を訴える気配はない。
三貴子たるツクヨミ、スサノオ共々、そう簡単に餓死する訳ではないが……それでも先のカグツチとの戦いで神力を消耗したスサノオの足取りは重い。怪我も治りきってはいない様子だった。
『……スサノオ、交代しよう。今度は私が歩く』内なるツクヨミは申し出た。
「オレは大丈夫さ。それにツクヨミ。
お前だってカグツチに火傷を負わされたろう?」
『……大丈夫には見えないな。お前は私などよりずっと消耗している。
そんな調子では母上の下に辿り着く前にへばってしまうぞ』
ツクヨミは辛抱強く説得した。
スサノオも最初は突っぱねていたが――普段は飄々としているツクヨミが、ここまで真摯に身を案じているのだ。
もしかすると気づかぬ内に、疲労が肉体を蝕んできているのかも知れない。
「ここから先の道は険しいぜ。ツクヨミ、身体を明け渡して本当に平気か?」
『せっかく私とお前とで二柱いるのだ。負担は分かち合った方がいい。
どうしても心配だと言うなら、そうだな……オオカムズミの桃の実を、半分ずつ分け合って食べよう』
結局このツクヨミの提案が通り、まずスサノオが桃を半分食べ。
しかる後にツクヨミが表に出て、残りの半分を食べた。
果たして桃の効果があったのか、カグツチに負わされた火傷も幾分痛みが和らぎ、傷の治りも早まっているようだ。
ある程度活力を取り戻したツクヨミとスサノオは、さらに歩を進めた。
やがてもう一日が過ぎた頃。周囲に異変が起こった。
地鳴りがする。ツクヨミのいる地面に留まらず、黄泉の国全体が激しく鳴動している。
先にカグツチの手によって、地面を泥化させられた事もあったが、今回はあの比ではない規模と強さであった。
(……これは、来たか。ついに……)
ただならぬ事態に、ツクヨミ、内なるスサノオともども身構える。
二柱の見据える先の地面から、今までとは比較にならぬほどの強力な穢れが膨れ上がった。
大地が盛り上がり、灰色がおぞましい紫色となって破裂する!
姿を現したのは、腐りかけた屍だった。
未だに腐肉に蛆が盛んに湧き、ところどころに深い闇と雷光を纏っている。
醜くおぞましく、生者に対し恐怖と狂気を振り撒かずにはいられない、魑魅魍魎の如き亡者。
『………………ッ!!』
内なるスサノオは息を飲んだ。表に出ているツクヨミも僅かに顔を歪めただけで、落ち着き払って対峙する。
「……ほう。我が夫イザナギは、吾の姿を見た途端、悲鳴を上げて逃げ出したがのゥ……
親よりも子の方が肝が据わっていようとは。滑稽な話であるな」
もはや男神か女神か、区別もつかぬほどの穢れに満ちた存在であったが……ツクヨミもスサノオも、この亡者が何者であるかを知っている。
黄泉の国を統べる者。黄泉大神イザナミ──
古事記に曰く。醜く変わり果てた妻の姿に衝撃を受け、イザナギは一目散に逃げ出したという。
だがあの時の父とは、ツクヨミもスサノオも心構えが違う。
彼らは愛する母がそのままの姿ではないと知っている。とうに命を落とした事を知っている。
そして黄泉の国に溢れ返る、おぞましき亡者たちの様を、これでもかと目に焼き付けており、覚悟を決めて歩を進めてきたのだ。
「……ここまでよう参った。ツクヨミにスサノオ……愛しき我が子たちよ」
イザナミは子供たちの来訪を労った。
姿こそ醜いが、その声はかつてスサノオが地上にいた時に聞いた、心優しい母の声のままであった。
にも関わらず、兄弟神の腹の中で膨れ上がる、胃の中が逆流するような不快な威圧感。
「母上…………!」
スサノオはイザナミの放つ瘴気の強さに、気勢を飲まれかけてしまったが、どうにか踏み止まり精一杯の声を上げた。
ツクヨミも彼の望みを察したのか、すでに姿はスサノオのものに戻っている。
「どうしてだ、母上……なんで姉上の『魂』を奪ったんだよ?
オレを言葉巧みに騙してまでッ」
「今更聞きたいのは、そんな事なのか?」イザナミは拍子抜けしたように言った。
「わざわざ吾の口から語らずとも、すでに吾の目的など知れておろう?」
『……スサノオに答えてやって下さい、母上』ツクヨミが言葉を添えた。
『弟は、貴女の口から真相を聞きたい。その為にここまでやって来たのだから』
二柱の言葉に、イザナミは「やれやれ」といった様子で肩をすくめた。
「……まあよかろう。
吾の目的は、地上も天上も区別なく、吾の統べる黄泉へと堕とすためじゃ。
かつて夫のイザナギが、死した吾を連れ戻すため、黄泉の国を訪れた話は知っておるな?」
イザナミは遥か昔の思い出のように、遠くを見つめながら語った。
「吾とてイザナギと共に、永久に在りたかった。
産んだ神々もまだ十分ではない。出来うる事なら再び現世へと還りたかった……
じゃが、それはすでに叶わぬ夢であった。吾はすでにヨモツヘグリを食し、黄泉の住民と化していたからじゃ」
イザナミの声は、悲しみに震えていた。
「それでもイザナギは吾と共に在りたいと願った。
故に吾は考えたのじゃ。吾もイザナギも、同じ想いであるならば。
死者は生者に戻れぬ。じゃが……生者はいつでも死者となれる。イザナギが黄泉の住民となれば、互いの望みが叶うとな」
スサノオは母の異常性に気づいた。彼女の言い分はすでに破綻している。
神産みを続けたいと言いながら、イザナギを亡き者とするのでは本末転倒も甚だしい。
それに生者が望んで死者となるのは、自殺と呼ばれる忌むべき行為だ。
イザナギがそれを望むはずがなかった。
「だから吾は、イザナギが訪ねて来てから……黄泉の神々に願い、その力と権限のほぼ全てを吾の中に取り込んだのじゃ。
全てはイザナギを、我が黄泉の国へと迎え入れるために。それには多くの時間を要した。
吾が黄泉の神々の全てを取り込み、黄泉大神となる寸前。
イザナギめは、吾の言った禁を破り、我が恥ずべき姿を覗き見てしもうた」
そこから先の話は、昨今に伝え残されし古事記に書かれた通り。イザナギの黄泉の脱出劇へと繋がる。
ただ知られていなかったのは、イザナミは最初からイザナギを亡者とするために、敢えて偽りを述べてイザナギを黄泉の国に留め置いたという点である。
「……結局イザナギは地上へと逃れてしまった。吾は悲しかった。
そして妬ましかった。吾や黄泉の神々は、何故これほどまでに醜く穢らわしく、恥辱に甘んじなければならぬのかと。
吾はずっと考え、待ちに待ち続けた。吾の望みを果たす好機をな」
イザナミはさも愉快そうに、とくとくと己の野望を語った。
「アマテラスさえ亡き者とすれば、陽光は二度と戻らず、全てが闇となり、いずれ死を迎える。
そうなれば皆、仲良う暮らせるようになる。吾ら亡者も、穢れや醜き姿を恥じる必要がなくなる。
スサノオ。ツクヨミ。ぬしらも吾に会いたがっておったであろう。
今からでも遅くはない……吾の望む世界を共に作らぬか?
さすれば、我が夫イザナギも、ぬしの姉アマテラスも……皆等しく、黄泉の国にて何の気兼ねもなく一緒になる事ができようぞ!」




