一.ツクヨミ誕生
闇の中、厳めしい声が聞こえる。
「――我は数多くの子を産んだが、これほど貴き者たちは見た事がない」
誰の声だろう――ウズメは初めこそ不審に思ったが、すぐに状況を思い出した。
(そうだ……あたし、ツクヨミ様の手に触れて――
『記憶』を見せて貰っているんだったわ。
これは……生まれた時の記憶?
じゃあこの声は、ツクヨミ様を産んだ神――かの偉大なる国産みの神、イザナギ様……?)
イザナギ。かつて妻たるイザナミと共に、数多の島と神を産んだとされる、伝説上の存在だ。
さぞや貴く美しい男神なのだろう……ウズメは想像し、期待に胸を膨らませた。
ところが……辺りは闇であった。
何も見えない。光すら感じる事ができず、ウズメの感覚に響くはただ、声のみ。
「……アマテラスよ。そなたには我が玉飾りを授ける。天上の世界、高天原を治めよ」
「――はい、お父様」
アマテラス。高天原を統べる太陽神。
イザナギが黄泉の国で受けた穢れを落とす為行った「禊」の際、最後に産まれし三貴子が一柱。
ウズメもまた高天原に住まう天津神。彼女の美しさ、神々しさはつぶさに見知っていた。
が……やはりその姿は見る事ができない。ウズメの感覚に響くはただ、声のみ。
(どういう事……? 何でさっきから声だけで、姿がさっぱり見えないのよ……?)
もどかしさにウズメは苛立ちを覚えた。
「……そして『スサノオ』。そなたはこの海原と――夜之食国を治めよ」
(!?)
次に続いたイザナギの言葉に、ウズメは驚きを隠せなかった。
(えっ……どう、なっているの……?
伝え聞く所によれば、ツクヨミ様が夜の世界を治め。
で、末っ子のスサノオくんが海原を治めるよう、命じられたって話なのに……)
おかしい。話が合わない。
イザナギの声はツクヨミにはかけられなかった。彼が呼びかけたのはアマテラスとスサノオに対してのみ。
ウズメの疑念は解消される事もなく、イザナギの声と足音は遠ざかっていく。
イザナギの気配が消えた後、ふわりと温かい感触があった。
女性に抱き締められている感覚だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
「お父様には、きっとお考えがあっての事なのよ。
本当は私だって、スサノオと一緒にいたい。でも私たちが頑張らなくちゃ。
荒ぶる天と地、そして海原を鎮める事。それが私たちの使命」
声はアマテラスのものだった。
震えている。彼女も不安で仕方がないのだろう。
無理もない。生まれて間もない内から広大な世界を治める事を、一方的に命じられて。やり方を教わった訳でもなく。近しい仲間がいた訳でもなく。
(それでも、アマテラス様はまだ幸運だった。
高天原には皆がいたから。タヂカラオにオモイカネちゃん、タケミカヅチ……大勢の天津神たちが一丸となって、彼女の統治を支え続けた)
では対するスサノオはどうだったのか?
今のイザナギの言葉を信じるならば、彼は夜と海、二つの世界を同時に治めるよう命じられた事になる。
スサノオにとって不幸だったのは、味方がいなかった事だ。
三貴子が生まれる直前にも、イザナギの禊によって多くの子が産まれた。その中には海を司る神々もいた。いわゆる「ワダツミ」の一族である。
しかし彼らがスサノオの統治に手を貸した形跡はない。この後に起こった事を考えれば――むしろ敵対していたと言っていいだろう。
スサノオは孤独だった。荒れ狂う海原に。一寸先も見通せぬ夜闇に。たったひとりで立ち向かわなければならなかった。
だが――ウズメは気づいてしまった。今見ている「記憶」が誰のものか。
(いえ、そんな事は最初から分かっている……でも。
ただ『聞かされる』のと、実際に『感じてしまう』のとでは、まったく違う――)
スサノオの肉体はひとつだった。しかし彼は――本質的には「独り」ではなかった。
アマテラスに抱擁され、スサノオは安らぎを感じたのかもしれない。だがもうひとつの「心」が、彼の中にはあった。
不快。猜疑。嫌悪。おおよそ好意的とは呼べぬ類の、負に傾きし感情。
その「感情」は昼間は、ものを見る事すらできなかった。しかし――日が没し、夜となり、天に星が満ちた時。その「瞳」は解放され、荒れ狂う海を前に踊っていた。
スサノオは夜の間だけ、闇の中でのみ――月の神ツクヨミとなっていたのだ。