九.火の神カグツチとの戦い・其の二
カグツチの穢れた血が熱泥と混ざり合い、炎を纏った泥人形のような悪神が無数に生み出された。
大陸の神話には、泥をこねて人間を造るという逸話がある。
それは古代中国の女媧と呼ばれる創造神の話で、彼女は人間の数を増やすために縄を使った。その際に飛んだ泥の飛沫からは凡庸な人間が生まれたという。
カグツチの行為も、女媧のそれを醜悪になぞらえた、悪しき神々の創造だった。
歪な神々の瞳に穢れた命の火が宿る。それが激戦の火蓋を切る合図。
彼らは下劣そうな笑みを浮かべ、二柱に一斉に襲いかかった!
悪神どもの放つ炎の息吹に、たちまちスサノオの姿が消える!
しかしその炎の渦から、旋風を纏って飛び出す影があった。
スサノオだ。十拳剣を手に、その凄まじい突進にて炎ごと悪神を数柱薙ぎ払う!
「確かにこいつらに後れを取るようじゃ、話になんねーよな……カグツチの兄貴よォ!」
スサノオの狙いはカグツチであった。突進の勢いを駆って、そのまま火の神の胴に神剣を突き立て、貫いた。
炎に包まれたスサノオの剣から、どす黒く濁り、糸を引く粘つく血液が周囲に飛び散る!
「いい動きに、いい一撃だな。スサノオ……だが!
さっきも言ったろう? ボクの肉体は火そのものだと。
その程度の一撃じゃあボクを仕留めるのは無理だよ」
「!?」
カグツチは苦悶するどころか喜悦の声を上げていた。
そしてスサノオの十拳剣にて飛び散ったカグツチの血から、先刻と同様に新たな悪神が生まれ始める!
「ありがとうスサノオ。ボクの新たな手先をわざわざ生み出してくれて」
火の神に付き従う雷神二柱が、炎を噴き上げる両腕でスサノオの肩を鷲掴みにした。
「ぐッ…………!」
「君の身体は捕まえた。後はボクの生んだ神がトドメを刺してくれるだろう。
安心して死ね」
スサノオは焦燥した素振りを見せたが――次の瞬間、ほくそ笑んでいた。
「ツクヨミ! 頼んだぜ!」
『!?』
異変は刹那で起こった。少年神ながらも筋骨逞しいスサノオの肉体が、一瞬にして女神の如き華奢な美しい肌に変わっていた。
スサノオの内に宿る兄・月の神の肉体に取って代わったのだ。
拘束していた雷神たちは、がっちり抑え込んでいたつもりだったが――肉体が瞬時に変質したため、空を掴むような感触に戸惑ってしまった。
瞬きほどの僅かな隙。しかし「時を操る」神力を持つツクヨミにとって、それは十分な時間だった!
『三貴子が一柱・ツクヨミの名に於いて――我が時、疾く読むべし』
ツクヨミの肉体は、信じ難い速度で二柱の手から脱出した。
カグツチは全くその動きを捉えられず――気づいた時には背後に回られていた。
猛禽の鉤爪の如く、ツクヨミは十拳剣を振るい――火の神の首を刎ねた!
「なッ……!?」
「カグツチ様ァ!」
一呼吸にも満たない僅かな時間。まさに電光石火の早業である。
かつて父イザナギが天之尾羽張剣を用いた事件を再現するかのように、カグツチの無表情な首が宙を舞う。
『やったか、ツクヨミ!』内なるスサノオが歓声を上げた。
しかし……ツクヨミの表情は優れない。
十拳剣で刎ねた首からは、一滴の血も噴き出さなかったからだ。
どころか、カグツチの頭部は中身が腐り落ちていた。無数の蛆蟲が湧いており、黄泉の神に相応しい穢れに満ちたおぞましき光景だった。
次の瞬間カグツチの刎ねられた首の傷跡から、凄まじい炎熱が飛び出し背後のツクヨミを焼いた!
「ぐ――あァッ――!?」
灼熱に全身を包まれ、苦悶に顔を歪めるツクヨミ。
さすがのスサノオも信じられない様子だった。
(馬鹿な……なんでツクヨミに即座に反撃できる!?
首もねェのに、一瞬で背後に回った相手を正確に狙い撃つなんてッ……!)
「残念だったねェツクヨミ。ボクが眼に頼ってモノを見ていると思い込んでいたようだが」
首を失ったままのカグツチが、嘲るような声で言った。
「気づかなかったのかい? ボクの首から上は、父イザナギに刎ねられたと同時に死んでいた。
何の機能も果たしていない、ただのお飾り。目も見えなければ、耳も聞こえない。
なのになんで、お前たちの事を認識できていたと思うんだい?」
「!……まさかッ……」
カグツチの首のあった場所から、ゆらゆらと青い炎が噴き上がった。
揺れ動く炎の中につり上がった目と口が浮かび、不気味な笑みを浮かべたように見えた。
「そうさ。ボクは火の神カグツチ! お前たちの姿ではなく『命の炎』を認識して居場所を捉えている。
つまりいくらお前が素早く動こうが、背後を取ろうが無意味だったという訳さ!」
炎に包まれ落下したツクヨミは、すでにスサノオの肉体に戻っていた。
無様に地面に這いつくばり、ヨロヨロと起き上がろうとするも……
「さあ悪神ども! ツクヨミとスサノオを殺せッ!」
勝利を確信したカグツチが命じる。
最初に炎の渦を作っていた悪神と、先ほどスサノオの剣によって生まれた悪神が同時に動いた!
彼ら全員が、カグツチの命令通りスサノオに襲いかかっていれば、そこで決着だったかもしれない。
ところが。
「……どういう事だッ!? 何をしているお前たち……!」
次の瞬間起きたのは、悪神どうしの奇妙な乱戦だった。
「カグツチの兄貴よォー……オレの逸話についても知らねェみてぇだな」
スサノオは立ち上がり、笑みを浮かべて言った。
「オレが父上に、海原を治めるよう命じられた時の事だ。
だがオレは何年も海を荒れ放題にして、悪神どもの巣窟にしちまった。
そのせいか、オレは結構……こういう連中の御し方に慣れているのさ」
悪神どうしの潰しあいにも、実は法則性があった。
スサノオを利して立ちはだかっているのは、明らかに先ほど十拳剣で飛び散った血から生まれた神々だったのである。
「同じ兄貴の血から生まれた神かもしれねェが……
少なくとも、オレの剣で飛び散った血の方は……オレが生みの親だぜ!」
「なんだと……小癪な真似をッ!!」
体勢を整え、十拳剣を構え直し油断なく対峙するスサノオ。
周囲ではカグツチ・スサノオにそれぞれ従う悪神どもの、不毛な殺し合いが不快な喧騒を立てている。
「さーて。仕切り直しと行こうじゃあねーか、カグツチの兄貴!」
メラメラと怒りの波長を声に滲ませていたカグツチだったが。
「……そうだな、我が弟たちよ」
すでに落ち着きを取り戻し、平静な口調に戻っていた。
ゆらゆらと蠢く青い炎は――心なしか笑っているように見えた。




