一.八十合神(ヤソアワセガミ)・影鰐(カゲノワニ)
舞踏の女神ウズメと小さき闇の神ウケモチは、はぐれた仲間を探すべく――周辺を歩き回った。
(大丈夫、まだ動ける……地割れに飲み込まれて落ちたのに、怪我もないし持ち物も失ってない。
これは紛れもなく、幸運ってヤツよね――)
ウズメは心の中で状況を整理し、努めて前向きな結論を出した。
「でも何だろう、ここ……海? 黄泉の国の中に、こんな場所があるなんて」
鉛の曇天と灰色の大地はいつも通りなだけに、眼前の透き通るような青い景色は奇異に映った。
ウケモチも同じ思いだったらしく、しばし青い海に視線が釘づけであったが……段々と違和感を覚えたようだ。
「…………」
「どうしたの? ウケモチくん」
「…………コノ海。何カオカシイ」
「!?」
(うわ、うわわわわ! 喋った! ウケモチくんが喋った!
声初めて聴いたッ! 予想してたより若干低い声だけど……でもカワイイ! やったッ!)
冷静に考えれば何てことはない、ごく普通の会話なのだが。
初めてマトモな意思疎通が行えた事で、ウズメの心は舞い上がってしまう。
(いや、いやいやいや! 駄目よウズメ。ここで有頂天になっちゃ。
あくまであたしとウケモチくんは友達! 普通の関係! 特別扱いしちゃダメ!
いちいち言葉を交わす度にニヤついてたら、ウケモチくん引いちゃうかもしれないッ)
何とか思い直し、弾む心を抑えながら――落ち着きを取り戻してウズメは言った。
「韓国に渡った時に見た海とは、全然雰囲気が違うわね……
白煙のせいで遠くが見えないし、なんだか熱いような……?」
彼女はそう言いつつ、そっと爪先を海に触れてみる。すると――
「熱ッ!?」
予想より遥かに高い水温を感じ、ウズメは慌てて足を引っ込めた。
幸いにして焼けただれるという程ではなかったが、限りなく沸点に近い温水。迂闊に入り込めば低温火傷は免れなかったろう。
「……何なのよ……ここ……?」
ウズメとウケモチが、不安そうに広大な海原の先を見ると……何かが凄まじい波しぶきを上げ、こちらに接近しつつあった。
目を凝らしている間に、白煙も晴れ、彼らの姿も段々とはっきりしてくる。
それは十艘からなる、巨大な葦の舟の艦隊だった。
牛の角を持ち、虎縞の腰布を纏った屈強そうな鬼が、一艘につき十以上の姿が見える。総勢で百以上はいるだろうか?
鬼たちは黄泉軍と呼ばれる、イザナミに仕える獄卒どもだ。
しかし何より異彩を放っているのは、葦舟の先頭に立つ、でっぷり太った黒光りする雷神であろう。
海岸まで近づいてくる黄泉軍と雷神に、二柱は迎え撃つべく即座に身構えた。
「……意識、戻ったかァ……?」雷神はたどたどしい、くぐもった声を上げた。
「……よがったァ。気がついたんだな! 名前、聞いてもいいかァ?」
明らかに敵なのは間違いないだろうが、何とも悠長な語りである。
「高天原の女神、ウズメ。この神はウケモチくんよ」
「……ウズメ! ウケモチ! どっちも知らねえ名だァ」
雷神は轟くような大声を上げ、何やら落胆したような様子だった。
「オデは……黒雷……! 黄泉大神さまにお仕えする……腹に宿りし雷神だァ!
ここは……オデの管理する……海地獄……!
おめェらを、食い殺していいと……大神さまはおっしゃっただァ。
ンでも、残念だぁ。女は肉が柔らかそうだがァ……そっちのチビは一口で平らげちまいそうだァ……」
黒雷。黄泉の女王イザナミに仕えし八雷神が一柱。
高天原で太陽神が襲撃された時、スサノオの投げ入れた暴れ馬を殺し、皮を逆剥ぎにして貪り食らっていた穢れし神だ。
「どうせ食うなら……あの大男の神や、太った女神のいる方がよがったなァ……」
「ちょっとあなた! 女神に失礼な事言わないでよね。自分だってブクブクに太ってるクセにッ」
ウズメは怒りを露わにして叫んだ。
「……おめェ……何言ってる……?」
黒雷は首をかしげている。あまり頭の回転は良くないらしい。
「オデ……あいつら……褒めてるづもり……! 肉が沢山あって……とっても食べ応えありぞうだものなァ……!」
肥満体の雷神は、涎を撒き散らして夢見がちな瞳で曇天を仰いでいる。
その奇怪でおぞましい様子に、ウズメもウケモチも思わずたじろいだが……真の衝撃はここからであった。
黒雷の大口が、見る見るうちに開いていき……その顎が臀部に達するまで裂け落ちたのだ。
そして上下ではなく、左右に開いた。頭から臍まで大きく裂けた全てが、雷神の口。
中には無数の鋸のような鋭利な歯が生えており、すさまじい悪臭が漂ってくる!
次の瞬間、雷神の口が襲ったのは……彼の従えている、傍らにいた黄泉軍たちであった!
『!?』
二柱が驚いている間に、黒雷は逃げ惑う獄卒どもを、乗っている葦舟ごと次々と平らげ――その胃袋に収めていく。
百はいたはずの黄泉の軍勢は、大した時間もかからずに貪欲な雷神に食べ尽くされてしまった。
「ちょ……何やってるのよ……! その鬼たち、あなたの手下でしょう……!?」
おぞましい光景が繰り広げられ、上ずった声を上げるウズメ。
「ぞうとも……大神さまより借り受けた、オデの手下だァ……
どう扱おうと、オデの勝手だァ!!」
轟雷のような唸り声を上げ……黒雷の肉体は瞬く間に変貌していく!
気がつけば鉛色の曇天は、不吉な漆黒の雷雲へと変わっており、周囲の海に次々と雷が落ちていった。
息を飲むウズメとウケモチ。
雷神の姿は……この海地獄すべてを覆い尽くさんばかりの巨大な、黒光りする鮫の姿となっていた。
「……オデは……八十合神……影鰐……!!」
黄泉軍を食らい、その穢れを体内に取り込んだ事で、格段に力を増したのだ。
島ひとつ軽々と一呑みにしそうなほどの巨躯を持った黒鮫は、二柱に向けて大口を開けて迫ってきた!
「……とっとどお前ェらを食い殺してェ……
他の神々もオデの腹ン中だァァァァ!!」
黄泉軍
イザナミが率いる、千五百の黄泉の軍勢。
頭から「牛」の角が生え、「虎」縞の腰布を身に着けており、我々が御伽話などでよく知る「鬼」の姿をしている。
この事からも分かるように、陰陽道では丑寅の方角(北東)を「鬼門」と呼び、鬼が出入りするため万事に於いて忌むべき方角であるとされる。