九.一行、葡萄と筍を見つけるも罠にかかる
ウズメは無心で舞っていた。何にも煩わされる事なく。
黄泉醜女が全滅した事すら、彼女にとっては些事であった。
疲労はなかった。不安もなかった。
あるのはただ、極みに達したいという、渇望。
永遠に踊り続けたい。この恍惚を不変のものとし、普遍のものとしたい。
そのためならば、あらゆるものを投げ打ってでも。我は舞なり。舞こそ全て。
「ひふみよ──」
──ズメ! ウズメさん!
──しっかりしろ! もういい、終わったんだッ!
恍惚の極みにあったウズメの耳に、声が届く。ひどく懐かしく感じる声だ。
「いむなや──」
──返事をしてくださいませ、ウズメ様……!
──いつまで踊り狂ってんだ。戻ってこい!
一二三祝詞を紡ぐ瞬間だけ、彼女にとってかけがえのない、絆の糸が見えた。絆の音が聞こえた。
『ウズメ、よくやった。私と一緒に言霊を合わせて』
「──ここの、たり」
自然と口に出た、続きの祝詞の言霊。ツクヨミの穏やかな声が、ウズメの発したものと重なった。
極みは唐突に終わり、恍惚状態が解けた。
刹那――今まで感じる事のなかった疲労と不安が、肉体と精神にどっと押し寄せ……彼女は糸の切れた操り人形のように地面に倒れ伏した。
彼女の意識がはっきりした時、ウズメのたおやかな肢体は、傷だらけのタヂカラオの太い腕によって支えられていた。
「…………あ、タヂカラオ」
「『あ』。じゃねえよ! 心配かけさせやがって……
助けて貰っといて何だけどよ。昔っから危なっかしいんだよ、ウズメ。お前は」
「アンタだって……ボロボロじゃない。こっちだって……心配、だったんだから」
「あぁ、それは悪かった。……助けてくれて、ありがとう。感謝はしてる」
ぶっきらぼうに言い放ち、タヂカラオは目を逸らす。
ウズメは疲労の極みにあったが、それでも自然と笑みがこぼれた。
「……悪いんだけど、タヂカラオ」
「ん?」
「そろそろ手を放して……服、着させてくれる?」
ウズメに言われてようやく、タヂカラオも今の状況に気づいたようだ。
激しく踊り続けた結果、彼女の胸元はさらけ出され、形の良い乳房が露になってしまっている。
「お、おう……そいつは、済まなかったな。でも立てるのか?」
「それくらい平気よ。舞っている時は、たとえ素っ裸でも平気なんだけど……
でも今みたいに動けなくなったあたしは、全然駄目になってるから……その、恥ずかしい……」
「いや、その……べ、別にそんな事は、ねぇんじゃあねえか……?」
「?」
顔を背けつつ、しどろもどろなタヂカラオの言葉の意図を、ウズメは理解できなかったようだ。
ただ、大の男が消え入りそうな声でモゴモゴ言っている様は滑稽ではあった。
(ツクヨミ様の記憶のお陰で、『天衣無縫の極み』の形が見えた、気がするけど……
いくら自然と一体化するためとはいえ、意識まで完全に飛ばしちゃったらマズイわね。
皆がいなかったら……今頃あたしの魂は天に昇ったまま、二度と降りて来なかったかもしれない)
危機は脱する事ができたが、成功する保証のない、危険極まりない綱渡りである事は否めなかった。
「……もう振り向いてもいいわよ、タヂカラオ。着終わったから」
**********
スサノオとタヂカラオは、桃の実を食べて黄泉醜女から負った傷を癒した。
オオカムズミの加護が宿る桃の力は凄まじく、半分食しただけで亡者から受けた穢れを祓うまでに回復した。
少しの間休息し、疲れを多少なりとも癒した一行は、イザナギが残したという葡萄と筍を探すために歩いた。
黄泉醜女がいたという事は、その場所は近い筈。と目星をつけて探索した結果、割とあっさりと群生地を見つける事ができた。
「素晴らしい。とても黄泉に生えている食物とは思えません」
オオゲツヒメは驚嘆した。
今までも黄泉を旅して、まばらながらも食べ物らしきものは見つけていた。
しかしいずれも、灰を被ったような色であったり、中身を割れば食べられそうな部分がほとんど無かったり。おおよそ地上や天上の生者が食すに適しているとは言い難いものであった。
「かの貴きイザナギ様が植えられただけの事はありますわね。
きっとオオカムズミ様の桃と同様、我々に加護をもたらしてくれるでしょう」
食物の女神をしてこう言わしめるのだ。安心して栽培して良さそうだ。
「確かに色鮮やかで美味そうだ。ヨモツヘグリとは違うっぽいな。
よしタヂカラオ! 一緒にこいつらを回収しようぜ」
辺りは相変わらず静かで、亡者の姿ひとつ見当たらない。
目の届く範囲とはいえ、イザナギが逃走のために生み出した事もあり、葡萄と筍の群生地は離れていた。
『――スサノオ。地形が妙だ』
最初に異変に気づいたのはツクヨミだった。
むき出しの灰色の大地に、不自然な形に膨れ上がった形跡があったのだ。
いつの間にか、肌寒かったはずの黄泉の大地が熱を帯び始めている。
灰色の大地のあちこちに、坊主の頭のような膨らみが湧き出て、餅のように膨れ上がっては弾け飛ぶ。
「……何かおかしい。みんな戻れ──」
違和感が疑念となり、疑念が確信に変わった時には、すでに手遅れであった。
はっきりとした危険に勘付いたのは、ウケモチだった。
オオゲツヒメが筍を回収し終えたので、一緒に葡萄の群生地に足を踏み入れた時だった。
葡萄畑の周辺から異常な熱気が噴出し、彼女の立っている地面が不気味に膨らんだのだ。
「…………ッ!!」
すでに地面からは凄まじい炎が湧き出しつつある。
このままでは、オオゲツヒメが火柱に包まれてしまう。
ウケモチは決死の形相で、食物の女神を突き飛ばした。
泥のようになった大地から、紅蓮の炎が噴き上がった!
だが間一髪、ウケモチの咄嗟の機転によりオオゲツヒメは無事だった。
「危ねえ……! っていうか、熱ちちちッ!?」
異常を察したタヂカラオもオオゲツヒメを救おうと近づくが、煮え立つような熱気に思わずたじろいでしまう。
しかも危機はまだ去った訳ではなかった。
すでに驚くべきほどの広範の大地すべてが、高熱を持った不安定な泥の塊と化していたのだ。
次の瞬間、恐ろしいまでの地響きが起こり、立っていられないほどの振動が六柱を襲った!
「み、みんなッ……!?」
スサノオは慌てて皆に駆け寄ろうとしたが、遅かった。
大地は見る間に形を変えて崩れ去り、まずタヂカラオとオオゲツヒメの姿が視界から消えた。
落ちていく二柱を追って、ウズメとウケモチもまた別にひび割れに足を取られ――いなくなっていた。
もはやその場に残されたのは、スサノオのみ。
「そんな……何だよ、今のッ……! 皆、どうしてッ……!?」
大穴の空いた地面を覗き込んでみるものの、底は深く、仲間たちの姿はどこにも見当たらなかった。
呆然としているスサノオに、内なるツクヨミが呼びかけた。
『スサノオ、気をしっかり持て。誰か来るぞ。
恐らくこれは――母上の仕掛けた、分断の為の罠だったのだろう』
兄たる月の神の警告でようやく我に返ったスサノオは、後ろを振り返った。
ツクヨミの推測を証明するかのように現れたのは……二柱の蝙蝠の貌を持った雷神を従えた、燃え盛る火に包まれた神であった。
背はスサノオよりも低く、黄泉の神らしく血色は悪い。何より不気味なのは、首に痛々しい大きな傷跡がある事だろう。
この神の名はカグツチ。イザナミが最期に産んだ火の神であり――母を殺した咎により、父イザナギによって首を刎ねられ、その命を終えた者である。
(触穢の章 了)