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八.舞神ウズメ、天衣無縫の舞を披露する

 かつてウズメが初めて韓国(からくに)に渡った頃、大陸から来たという舞踊の神が教えてくれた。


──舞踊も、格闘も……その本質は似ているのだよ、ウズメ。


 当時まだ幼く、何も知らなかった彼女(ウズメ)に対し――彼は優しく、心穏やかに色々と教えてくれた。


──自然と完全に一体化するまで、明鏡止水の心で、極みに到達するのだ。

──めいきょう、しすい?

──曇りなき鏡のように、静かな水面のように。邪念を持たず、澄み切った落ち着いた心を持つ事だよ。


 彼に教わった舞をウズメは天性の感覚(センス)で、海綿(スポンジ)が水を吸うように次々と修得していった。


──その極致は、まさに天衣無縫。究極の美だ。誰もが心奪われずにいられない。

──てんい、むほう?

──縫い目なき天女の衣のように、小手先の技のようなわざとらしさもなく、自然で巧みで完全な事だよ。


 聞けば大陸で名を馳せた舞踏の神も、天衣無縫の極みには達していないらしい。

 それでも幼きウズメの目には、彼の舞う姿は美しく、憧憬を抱くに十分な代物であった。


 しかし皮肉なことに、成長し、舞踏の腕前も師を越えたウズメは――己の舞がまだまだ未熟である事を痛感した。

 彼女がひとたび舞い踊れば、神々も人々も、獣も(むし)も植物ですらも、見惚(みと)れてしまい(とりこ)となる。だがそれは、彼女の目指す「天衣無縫」には程遠かった。


(違う――皆は喜んでくれているけれど、これはあたしの目指す舞じゃない……

 でも踊りを極めれば極めるほど、(いただき)は遥かに高くて、手の届かない所にあるのが分かる。

 もっともっと、昇り詰めないとッ……!)


 そんなウズメの失意と焦燥を象徴するかのように、空に暗雲が陰り、葦原(アシハラノ)中国(ナカツクニ)が闇に染まった。

 己の望む理想が手に入らなかった事。己の限界に失望し、得る物もなく故郷への舟に彼女は乗り込んだ。


 意外な事に、そんなウズメにとって転機となったのは、月の神ツクヨミとの出会いだった。

 彼の手に触れ、彼の過去の記憶を知った時に――見たのだ。荒れ狂う夜の海の只中で、海神(ワダツミ)たちと舞う、美しき神の姿を。

 姿だけではない。記憶の中にあった、舞い踊りしツクヨミの心の中すらも、ウズメは知る事ができた。


(月夜の下、舞い踊るツクヨミ様の姿と心――あたしの中でどうしても足りなかった欠片(ピース)が、そこに在った。

 どんなに荒れた波風の中でも、決して止まる事なく、惑わされる事のない……高みへと昇る手段が)


 記憶の中の月の光が、ウズメの舞に(はく)を宿す。

 頭の中の雑念も邪念も全て洗い流し……『天衣無縫』の舞を……宿らせる!


 ウズメは目を閉じた。ツクヨミの記憶の中で繰り広げられた、心の闇の世界。

 舞の女神の肢体は、自然と動いていた。あるべき形に。絶え間なく満ち欠けする月のように。


「ひふみよ……いむなや……」


 ウズメの口から、赤子が最初に覚えるかの如く自然な、一二三祝詞(ひふみのりと)言霊(コトダマ)が漏れ紡がれる。

 祝詞に合わせ、彼女の身体も自然と動く。右に、左に、前に、後ろに。


「ひふみよ……いむなや……」


 あるべき姿に。自然に。月夜の後に、再び太陽が昇り来る事を願うべく。

 節奏(リズム)旋律(メロディ)舞踏(ダンス)。その全てが、一つとなる──


**********


 満身創痍のスサノオとタヂカラオに対し、さらなる絶望が間近に迫っていた。

 新たな黄泉醜女(ヨモツシコメ)が二体、いつの間にか姿を現していたのだ。

 三体目の亡者は頭が半分欠けており、身体は黄色く濁った骨がところどころ露出している。四肢に至っては両脚の膝から下が無い。

 四体目の亡者はもはや男女の区別もままならぬほど腐敗が進み、腹部から五本目の腕が歪に生えている。それが天に向かってだらしなく伸びていた。


 生者から見ればおぞましさを通り越して、なぜ(うごめ)いているのか不思議な異形であったが、いずれも凄まじい(けが)れをその身に宿し、力ある亡者である事は疑いようがない。


「……どうする?……二体だけでもこのザマだってのに……さらに増えやがった」


 スサノオは最初の左脇腹の傷以外は意外にも軽傷であったが、疲労の色は濃い。

 深刻なのはタヂカラオであった。醜女(シコメ)の桁違いの速度に対応できず、(たくま)しい肉体の至る所に傷を負い、穢れが侵蝕しようとしている。

 致命傷に至らず何とか立っていられるのは、タヂカラオに宿る神力の強さを表しているが、こうも一方的に嬲られるだけでは先は見えている。


 タヂカラオからの返事はない。あのいつも陽気な怪力神ですら、言葉を返すほどの余裕もなくなっているのか。


 その時だった。四体の黄泉醜女(ヨモツシコメ)の雰囲気が、明らかに変わった。


「…………?」


 スサノオは己に向けられていた亡者どもの視線が、後方に注がれた事に違和感を覚えた。

 振り返るとウズメが舞っていた。目を閉じ、握っていた筆架叉(ひっかさ)も無意識の内に放り捨て……その衣服も激しい踊りの為に、徐々に胸元がはだけかかっていた。


「なッ……ウズメ、さん……!?」


 スサノオは目を疑ったが、次の瞬間には彼女の舞に……魂が吸い込まれるような感覚で魅入っていた。

 欲情の類ではない。自然な動き。自然な流れ。彼女の織り成す『天衣無縫』に、ただ魅入っていた。


「……ひふみよ……いむなや……」


 祝詞(のりと)を紡ぐ。本能の赴くままに、ただ舞う。舞い続ける。

 絶え間無き舞踏はウズメの心をますます澄み渡らせ、舞う動きは見る間に洗練されていく。


 スサノオやタヂカラオが消耗していたせいもあるが、今やこの場の誰よりも強い「陽の気」を纏っているのはウズメであった。

 黄泉醜女(ヨモツシコメ)たちは即座に反応した。彼女らは矛先を変え、四体が四体ともウズメの舞に釘づけになる。


 ギギギギシシシシッッッッ!!!!


 新たな活きのいい獲物を見つけた悦びから、亡者どもは蟲の羽音の如き醜い笑い声を上げた。


「……囮か!? ダメだ、ウズメさん! 餌食になるだけだ……!」

 スサノオは我に返り、切羽詰まって叫んだが、恍惚(トランス)状態に入っている女神に声が届いた様子はない。


「待てスサノオ。様子が変だ」

 (かば)おうと動くスサノオを制するタヂカラオ。もっとも二柱に、もう間に入って何とかする力は残っていないのかも知れないが。


 黄泉醜女(ヨモツシコメ)のうち一体が、視界から消えた。ウズメに超速で襲いかかったのだ!

 ウズメは意に介した様子もなく、一心不乱に踊っている。

 その緩慢な動きは、亡者のそれに対抗すらできない……筈だった。


 次の瞬間、消えた黄泉醜女(ヨモツシコメ)の身体が地面にめり込んでいた。

 いかにして突進を(かわ)したのか? ウズメは傷一つなく、未だ舞い続けている。


 黄泉醜女(ヨモツシコメ)は超速の勢いのまま、地面を何十間(註:一間は約1.8メートル)も(えぐ)ってようやく止まった。

 彼女の腐りかけた肉体はグチャグチャに崩壊しており、四肢も内臓もあらぬ方へと飛散している。あの様子ではもう立ち上がれまい。


「何だ……何が起きた! 今の、見えたか? タヂカラオ」

「お前に見えねーモンが、俺に見える訳ねーだろ……」


 信じ難い光景に、思わず間の抜けた問答をするスサノオとタヂカラオであった。


 残った三体の亡者どもは、相も変わらずウズメの舞から視線を外せず、遠巻きにして微動だにしない。

 だがいずれも、示し合わせた訳でもないだろうが……同時に彼女に襲いかかる腹積もりを決めたらしい。


 迫りくる危機に対しても、ウズメの心は乱れなかった。

 彼女が目指すものは、天衣無縫の極み。ただそれのみ。


(まだだ……まだ足りないわ。もっと、もっと……森羅万象と一体に……)


「……ひふみよ……いむなや……」


 舞い続ける間にもウズメの心は明鏡止水に近づき、さらに動きは速く無駄のないものになっていく。だがまだ足りない。もっと高みへ。もっと極みへ。


 黄泉醜女(ヨモツシコメ)は三体同時に動いた。三方からの超速の襲撃! たとえ魔神でも(かわ)せぬはず。

 亡者のうち一体の牙が届く寸前。ウズメの肢体は流水のごとく、最低限の動きで軸をずらし、亡者の牙は最適の力点を逸らされた。

 と同時に、醜女(シコメ)の凄まじい速さは赤子に手を添えるかのように優しく触れられ、勢いの方向を変えられた。その先にあるのは……同時に襲いかかった二体の仲間だった。


 形容しがたい破砕音が周囲に轟いた。

 スサノオたちの目に入ったものは、バラバラに砕け散った、さっきまで黄泉醜女(ヨモツシコメ)だったものの肉塊や骨の破片だった。


 見る者によっては、彼女らは自分からそれぞれに衝突し、愚かにも自滅したようにしか見えなかったろう。

 当のウズメはといえば、亡者どもからさほど離れてもいない地点で、やはり未だに舞い続けている。飛び散ったはずの(けが)れの類は一切付着しておらず、夜空の月のように神々しくも美しい。


 まさに神憑(かみがか)りと言っても過言ではない、女神ウズメの天衣無縫の舞。

 黄泉醜女(ヨモツシコメ)たちは足元にも及ばず――どころか、敵としてすら見做(みな)されないまま戦いは終わっていた。

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