七.黄泉醜女(ヨモツシコメ)が来る・其の三
スサノオとタヂカラオの肉を食い千切り、二体の黄泉醜女は喜悦に満ちた奇声を発した。
ギギキイイエエエエエッッッッ!!
それは声というより、騒音の刃であった。耳をつんざくという表現が相応しい、聞く者の魂を驚かせ、魄を縛る猿叫だった。
仰向けのまま這い進む彼女らの四肢は、どす黒く変色しており手足の指も潰れたり折れたり、欠けたりしている。吐き気を催すほど痛々しい有様ではあるが、痛覚がないのかまるで意に介していない。
黄泉醜女たちは神々の肉をあっという間に貪り終え――まだまだ足りぬとばかりに涎を垂らしたままの首をグルグルとかき回し、乱れ髪が渦を巻いた。
豪胆で知られるスサノオやタヂカラオといえど、怯まずにはいられぬ異形の光景だった。
「くそッ……何なんだコイツら……!」
左脇腹をやられたスサノオは絶望に青ざめつつ毒づいた。
「動きが見えなかった……ムチャクチャ速え……!」
「俺の肉は硬くて食いづらいと思うんだが……お構いなしかよッ」
右肩をやられたタヂカラオが、脂汗を流しつつ軽口を叩く。
「道理で他の亡者どもの姿がねえわけだ……こんな化け物がうろついてるんじゃ、頭から齧られちまうだろうからなァ……」
黄泉醜女は貪欲であり、亡者の魂魄だろうが、神の持つ陽の気だろうが、お構いなしに貪り喰らい、己の穢れに変えて力を増すという。
(どうする? スサノオほどの巧者が捉えられない動きなんぞ、俺の目じゃ追える訳がねえ……)
黄泉醜女のうち一体が、再びタヂカラオと目が合い、口裂けた笑みを浮かべた。黒く濁った乱杭歯が覗く。
(また俺を狙ってくるか? いいだろう。このタヂカラオ様の鍛え抜かれた筋肉!
今度は全力で怒張させてやらぁ。同じように噛み千切れると思うなよ……!)
タヂカラオは亡者の襲来に備えた。恐らく目で捉える事も、見切る事も不可能な速度で来るだろう。
再び肉を食らおうとした際、怒張した身体でそれを防ぎ、噛み千切り損ねた隙を叩き伏せようという算段だった。
ところが――
黄泉醜女が動いていた。やはり一瞬の早業で、目で追う事もできない。
しかし亡者は、タヂカラオの肉を食おうとした訳ではなかった。ただ突っ込んできた。
「…………ぐふッ…………!?」
凄まじい速度の突進を鳩尾にもろに受け、さしものタヂカラオも大きくよろめいてしまう。
ヒヒヒヒギギギギッ!
タヂカラオの覚悟を嘲笑うかのように、蠅の羽音のような不快な声を上げる黄泉醜女。
「くっそがああッ!!」
せめて一矢報いようと、鳩尾に突っ込んできた亡者の頭部を左手で掴み割ろうとするタヂカラオ。狙いすましたつもりだったが、寸での所で掌は空を切った。再び恐るべき速度で離脱されてしまったのだ。
捨て身の戦術すら通じない。知性はない筈だが、本能なのか……的確にこちらの嫌がる点を突いてくる。
「こいつは……マジでヤベーかもなァ……」
ここに来て右肩の痛みが増してきた。桃の実を食べて傷を癒したいところだが、恐らく間に合う事もなく先手を取られるだろう。
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傍らを見れば、向かいでスサノオもまた、もう一体の黄泉醜女にいいように翻弄されている。戦況は最悪と言ってよかった。
「クソッ……ツクヨミ! お前の『時』を操る神力で、アイツらの動きを止められねーのかよ!?」
スサノオは負傷で苛立ち、内なるツクヨミに詰問した。
戦いが始まってからというもの、月の神は全く動こうとしなかったのだ。
『効率が悪すぎる――父上の記憶と、直に見るのとで、ここまで速さに差があるとは思わなかった』
ツクヨミもまた、スサノオの肉体負傷に影響されているのか、焦燥気味の声が返ってくる。
『奴らの動きを止めようにも、お前ですら目で捉えられないのだろう? 話にならんよ。
つまり我々の力は、まだまだ全盛期の父には遠く及ばないという事の証明でもある』
「ぐッ…………! じゃあ、このまま嬲り殺されろっていうのか?
ようやく黄泉に入ったばっかの、こんな所で……!?」
万事休すか。疲労と焦り、傷の痛みと穢れの不快感が、スサノオの心を追い詰めていた。
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「ツクヨミ様! タヂカラオ様……!」
なす術もなく傷ついていく二柱の男神たち。
窮地を見たオオゲツヒメは駆け寄ろうとしたが、傍らにいたウケモチがそれを制した。
小さな身体を張って、衝動的に飛び出そうとする彼女を押し留めている。
「……行ってはダメよ、オオゲツヒメちゃん」
ウケモチの行動を肯定するかのように、隣のウズメも首を振った。
「ですが、わたくしの五穀であれば……かつてイザナギ様がなさったように、彼女らの気を引く事ができるかと……」
「危険すぎるわ。イザナギ様は爪櫛や髪飾りを地面に投げて食物に変えたから、巻き添えを食わずに済んだ。
だけど貴女の場合、体内から食物を生み出す。身体ごと一緒に食べられちゃうのがオチよ」
「しかし……では一体どうすれば……!」
悔しげに歯噛みするオオゲツヒメであったが、ウズメも同じ思いだった。
(このまま手をこまねいてたら、二柱とも殺されてしまう……何か方法は……?
でもなんであの黄泉醜女たちは、スサノオくん達を襲ったんだろう?)
ウズメはしばし考え込み――知恵の神オモイカネから聞いた話を思い出した。
黄泉の亡者たちは、強い陽の気に惹かれやすいのだという。力強い男神であるタヂカラオやスサノオの方が、黄泉醜女たちにとって魅力的なエサとして映るのだろう。
やがてウズメは……ある結論に達した。
(なら、『アレ』をやるしかない。上手く行くか、分からないけどッ……!)
「……ウケモチくん。オオゲツヒメちゃんの傍を離れないであげてね。
アナタの生み出す闇の強い陰の気があるから、オオゲツヒメちゃんの食物に宿る陽の気を、あいつらに気取られずに済んだ」
ウケモチはこくりと頷いた。そして前に出て歩き出すウズメ。
「ウズメ様? 何を――」
「こうなったら、あたしが何とかするっきゃないでしょ」
筆架叉を両手に持ち、色艶やかな衣袴をふわりとなびかせ――オオゲツヒメ達から十分に距離を取ると、ウズメは一心不乱に舞い始めたのだった。