六.黄泉醜女(ヨモツシコメ)が来る・其の二
オオゲツヒメはオオカムズミより譲り受けた桃の実を掲げていた。
それだけで亡者たちはスサノオたちを恐れ、遠巻きにして寄りつかなかったからだ。
生者である身には想像もつかないが……邪気を祓うという桃は、死者にとってよほど恐るべきものなのだろう。
入り口たる黄泉比良坂を抜け、本格的に黄泉の国に入ってからの旅路は平穏そのもので、何事もなくすでに四日が経過していた。
景色は相変わらず殺風景だ。のっぺりとした灰色の大地に、鉛色の曇天。吹く風は肌寒く、魂魄を奈落に引っ張ろうとしているかのように錯覚してしまう。
「妙だな……黄泉比良坂には、あんだけ亡者がひしめいてたってのに」
タヂカラオが訝しんだ。
「無事に済むに越した事はありませんが……何か引っかかりますね」
いつものように、皆に食事を配り終えたオオゲツヒメも首をかしげた。
「誰もいないのは確かに奇妙だけど……こいつは絶好の機会かもな」
スサノオが言った。
「亡者に目をつけられない内に、オオカムズミの言っていた葡萄と筍って奴を探しておこう」
スサノオの提案に従い、彼らは歩を進めようとした。が……
最初に違和感に気づいたのは、ウズメだった。
「……ねえ。なんか妙な音が聞こえない?」
「音? どんなだ?」タヂカラオが聞き返す。
「あたしも上手く言えないんだけど……蟲が何かを食べながら、這い回っているような……不気味な音」
ウズメの言葉が気のせいではない事を、皆はすぐに思い知る事になる。
がさがさがさ。
彼らの進もうとする先の岩陰から、何やら不穏な音が聞こえてきた。せわしなく地面を引っ掻くようで、不快な雑音めいている。
ふと岩陰から、物音の正体がひょっこりと顔を出した。
「!?」最初に目を合わせたオオゲツヒメが驚愕する。
覗いたのは女の顔だった。だがそう呼ぶには余りにも醜い。おまけに逆さまになっているように見えた。
不気味な逆さの女は、すぐに顔を引っ込めて姿を消した。
「どうしたんだオオゲツヒメ? 何が見えた?」
「今のは……いったい……!?」
タヂカラオが問い詰めるものの、恐怖に怯えたオオゲツヒメの返答は要領を得ない。
『――スサノオ。今のが見えたか?』
スサノオの内から、兄ツクヨミの声が尋ねた。
「いや……オレも見逃しちまった……」
『ならば、オオゲツヒメの”記憶”に直接聞く他は無いな』
月の神の狙いを察したのか、スサノオの右手は即座に兄のものに変化する。
ツクヨミとなった右手は、オオゲツヒメの左手に触れ――彼女の直近の記憶を読み取った。
『……オオゲツヒメ。黄泉醜女を見たのか』
「ヨ、黄泉醜女……? 今のが、そうなのですか……?」
『ああ、間違いない。あなたの今見た記憶――父上の過去の記憶と同じだ』
黄泉醜女の名を聞き、一行は即座に身構えた。
かつてイザナギを追いかけ回した、黄泉の国の恐るべき力を持つ亡者たち。
理性も知性もほとんど持ち合わせておらず、イザナギが作り出した食物に本能的に飛びつくほど、激しく飢えていたという。
「みんな……気をつけろ。オオゲツヒメが見た怪物は、比良坂にいた連中とは比べ物にならねえ」
スサノオが皆に注意を促すと……異変は再び起こった。
男神のスサノオとタヂカラオが前に立ち、女神たるウズメとオオゲツヒメを後方に下がらせる。
オオゲツヒメの傍に寄り添うウケモチも十分に周囲を警戒していた――にも関わらず。
眼前の岩の頂点に、二つの奇怪極まりない姿があった。いつの間にか、気づかぬうちに。
「彼女」らは仰向けになって這っていた。いわゆる橋状姿勢という奴だ。
四肢の関節があり得ない方向に曲がり、頭部もだらしなく垂れており、伸び放題の荒れた髪が地面に広がっている。
不幸にもスサノオとタヂカラオが、彼女ら──黄泉醜女と目が合った。
目が合うと、口が裂けるほど薄気味悪い笑みを浮かべた。そして次の瞬間、彼女たちは『消えた』。
『なッ…………!?』二柱が同時に驚愕の声を上げる。
凄まじい風切り音がしたかと思うと、スサノオの左脇腹と、タヂカラオの右肩の肉が、それぞれ無残に食い千切られていた!
「あがッ…………!?」「うごおッ…………!!」
激痛が襲うと同時に、思い出したかのように抉られた箇所から鮮血が噴き出す。
二柱の背後に、先ほどの黄泉醜女たちがいた。
仰向けの蜘蛛のような姿勢のまま、その口には今しがた噛み千切った二柱の肉をぶら下げ、満面の笑みを浮かべてボリボリと咀嚼している。
「スサノオくん! タヂカラオッ!」
突然の出来事に、ウズメは思わず悲痛な叫びを上げた。
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古事記に曰く、イザナギは黒い髪飾りや爪櫛の歯を地面に投げつけて葡萄と筍を生やし、黄泉醜女がそれらを食らっている間に逃げおおせた、とある。
これも奇妙な話だ。イザナギは決して、武勇に劣っていた神ではない。黄泉の国を脱出する際、十拳剣を振り回して黄泉の軍勢と存分に戦っているし、持ち上げるのに男手千人は必要と言われた巨岩を使って、黄泉比良坂を塞ぐほどの怪力ぶりを発揮している。
つまりイザナギは剣術においても腕力においても、突出した技と力を兼ね備えた神であったという事だ。
そんな強く尊いイザナギですら、黄泉醜女を前にしてはただひたすらに逃走している。何故だったのか?
その答えは単純だった。
黄泉醜女は恐ろしく速いのだ。その脚力は一駆けで千里(註:4000km)を軽く飛び越えてしまうほど凄まじいという。
いかな卓越した剣術だろうと、千人前の剛力だろうと。当たらなければ、どうという事はない。イザナギは防戦に徹するしかなかったのである。