五.黄泉醜女(ヨモツシコメ)が来る・其の一
その日、スサノオ達はオオカムズミの桃木の下で一晩休む事にした。
黄泉比良坂を抜ける際に消耗した神力を回復させる意味もあったが。
「明日の朝になれば、丁度良く熟れた桃が三つ実る。
それらをそなたらに譲ってしんぜよう」
というのが、桃木の神の主張であった。
「でもオオカムズミさん。こんなずっと暗いままの黄泉の国で、朝とか夜とか分かるのか?」
スサノオが不思議そうに尋ねると、オオカムズミは胸を張って答える。
「当然じゃ。妾が幾星霜、ここで過ごしたと思っておる?」
ここまで言われては断る道理はない。
一行は夜の間――もっともスサノオには、黄泉の闇の変化は見分けがつかなかったが――疲れを癒した。
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明くる朝。眠っている皆を起こした後、オオカムズミは言った。
「比良坂を抜けた先にある、葡萄と筍を探すがよい」
「葡萄と……筍?」
タヂカラオやウズメは聞き慣れない単語に、訝しげな顔をした。
黄泉の地に生えている食べ物には、警戒して然るべきだからだ。
「ふふ、心配するな。ヨモツヘグリ(註:黄泉の食物。生者は食せない)の類ではない。
イザナギが残した、れっきとした清浄なる食べ物じゃ」
『――聞いた事がある。父上はこの地にて、神力を以て葡萄と筍を生やしたと』
とはツクヨミの言である。
「……いつも思うけど、ツクヨミは父上の事、何でも知ってるんだな」
『私には過去を読む力があるからね。かつて父に触れた時、記憶を読み取ったんだ』
「いいなぁ……オレは記憶力そんな良くねえから、ツクヨミが羨ましいよ」
『…………』
スサノオは素直に賞賛したつもりだったが――ツクヨミは機嫌を損ねたのか、押し黙ってしまった。
「妾の桃ほどではないかも知れぬが、葡萄や筍もきっと役に立つはずじゃ。
探し出しておいて損はないじゃろう」
そう言ってオオカムズミは、熟れたての瑞々しい白桃を三個手渡した。
それぞれスサノオ、オオゲツヒメに。残る一個はタヂカラオとウズメが半分ずつ受け取った。
「食せば傷を癒し、穢れを祓う。消耗した神力も多少は戻るじゃろう。
或いは敵に襲われた時に投げつけても良い。命中すれば大抵の敵は撃退できるぞ」
「そうやって聞くと、本当にめっちゃ便利な桃ね……どうもありがとう! オオカムズミちゃん」
「『ちゃん』はよせ! せめて『様』をつけるのじゃ!」
またもウズメとオオカムズミがキーキーとじゃれ合う一幕もあったが。
「……そうじゃ。ウケモチ、昨晩のお主の頼み……聞き届けようぞ」
思い出したように言って、彼女がウケモチに渡したのは、大振りの桃木の枝であった。
「あらあら……ウケモチ。いつの間にそんな願いを?」オオゲツヒメも寝耳に水だったらしい。
ウケモチは枝を受け取ると、嬉しそうな顔をして懐にしまい込んだ。
「……何に使う気なんだ?」
スサノオが訊いてみるも、元々ウケモチはオオゲツヒメ以外の神と積極的に話そうとしない。真意は分からずじまいだった。
「よし! 体力も戻ったし、そろそろ出発するぜ!」元気よく声を張り上げるタヂカラオ。
「じゃあな、オオカムズミ様! 色々と世話になった事、感謝するぜ!」
こうして一行は、オオカムズミの木の下から再び歩き出した。
目指すは黄泉の国の深淵。さらわれた太陽神アマテラスの「魂」を救い出すために。
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一方、黄泉の国の最奥の地にて。
人骨によって形作られた巨大な玉座に、禍々しき雷光を纏った、不気味な人影が座っていた。
黄泉を統べる者。黄泉大神イザナミである。
イザナミの腐乱した肉体の周囲を飛び交う光は、彼女に仕える雷神たちだ。
そのうちの一柱と何事か言葉を交わし――イザナミは苛立たしげに声を荒げた。
「地上にて、若雷と土雷が祓われた、じゃと?」
敗れし二柱の雷神は、イザナミの左右の腕に宿る者たち。決して脆弱な神ではない。
さらに別の雷神からの報告が黄泉大神にもたらされた。黄泉比良坂に侵入者あり、と。
「ふむ――スサノオか。よくもまあ、ぞろぞろ大所帯で訪れたものよ」
イザナミは侵入者の正体を聞くと、悦ばしげな声を上げた。
死人同然のおぞましき貌からは読み取れないが、笑っているようだ。
「姉たる太陽神を取り戻しに来たか。歓迎してやらねばな。
誰ぞある。火の神カグツチを鬼界より呼び戻せ。彼奴らを迎え撃つ準備をするのじゃ」
黄泉大神の命に従い、二柱の雷神たちが恭しく頭を垂れ、すぐに気配を消した。
(……先刻から、大神さまの感情は不安定であるな……)
イザナミに仕えし八雷神が一柱、火雷は違和感を抱いていた。
怒ったかと思えば微笑んだり。機嫌が良いと思っていたら急に癇癪を起こしたり。めぐるましく変化する主の感情は、最近とみに起伏が激しい。
(元々頭の切れるお方であった。スサノオを騙し、我らを高天原に侵入せしめた計略は見事という他はない。
しかし……大神さまは見越しておられるのか? 鬼界の噴火によって現出した、闇の世界の末路を……)
イザナミは元から黄泉の国の神だった訳ではない。カグツチと同様、元生者である。
彼女の肉体は今もなお、緩やかではあるが腐敗が進行している。もし今回の事件が、荒ぶる穢れの影響による、衝動的な思いつきであったならば――ぞっとしない話だ。
火雷の懸念を他所に、黄泉の女王は比良坂の方角を見上げた。
「まあ……慌てずとも良い。時は吾らの味方じゃ。
それにカグツチが到着するまで、彼奴らが生きておる保証もないからのう――」
イザナミの視線の先で、一際禍々しき穢れを纏った亡者たちが、奇怪に蠢いているのが見える。
人の姿をしているが、動きは蟲のようであり――黄泉の主に命じられるまでもなく、活きのいい生者の気を察知したようだ。
「彼女」らは黄泉醜女。本能と空腹のみで動く、恐るべき黄泉の眷属である。




