四.一行、桃木の神オオカムズミの下へ辿り着く・後編
桃木の陰から現れた小さな神は、奇妙な姿をしていた。
女童のような愛らしい見た目でありながら、頭には獣の耳と角が生えている。千早を纏っているものの、全身にうっすらと獣毛らしきものがあり、下半身は人というより虎の後ろ足そのものだった。
「アンタ……もしかして、この桃の木の神……?」
スサノオが恐る恐る尋ねると、獣神めいた少女は胸を張って答えた。
「そうじゃ。妾こそが桃木の神・オオカムズミなるぞ。
この名は主らが父・イザナギより直々に授かった貴き御名じゃ。少しは敬わんか」
尊大にふんぞり返ってはいるが、見た目の幼さとどうにも釣り合わない。
ウズメは一瞬キョトンとしつつも――考えるのが面倒臭くなったのか、瞳を輝かせてオオカムズミににじり寄った。
「……うーん、そう言われてもねえ。見たカンジ、ウケモチくんと同じような背丈だし。
『小っちゃい! 可愛い! 抱きしめたいっ!』って意味じゃそりゃ尊いけどさ」
「こ、こりゃ! 何をするか貴様! 馴れ馴れしく触るでない!
抱くな! 高い高いするな! 妾はこう見えても、そなたらの何倍も年上の神なのじゃぞ!?」
キーキーと抗議の声を上げるものの、結局されるがままのオオカムズミ。
「あー……済まねえな、オオカムズミ様」
ゴホン、と咳払いをしつつ、控え目にタヂカラオが詫びた。
「ウチのウズメは、世間一般からするとちょっとばかしズレてるというか、大胆と言うか……
悪気は無いんだが、時たま衝動的に突っ走る癖があってなぁ……ぷぷっ」
一連の滑稽な様子に、スサノオもタヂカラオも、挙句はオオゲツヒメやウケモチですら吹き出し、笑みがこぼれてしまった。
が……ふと我に返ったスサノオは、思わず内なるツクヨミにこっそり訊いた。
(ツクヨミ。思わず笑っちまったけど……これ大丈夫なのか?
オオカムズミって確か、父上の窮地を救った有り難い神様なんだろ?)
「古事記」に曰く。イザナギは黄泉の国から逃げ帰る際、迫りくる黄泉の軍勢に向かって、桃の実を三つ投げつけたという。
するとたちどころに軍勢や、それを率いる雷神たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。そのためイザナギは難を逃れる事ができた。
その際にイザナギは大変感謝し、桃の木に「オオカムズミ」の名を授けたのだ。
『……オオカムズミが本気で嫌がっているようなら、止めたのだがな』とツクヨミ。
『それに皆の顔を見ろ。黄泉比良坂で戦っている間、あれほど重苦しかった穢れが――祓われている』
言われてみれば確かに、ウズメもタヂカラオも、亡者どもと戦い手傷を負っていた筈だった。
オオゲツヒメの比礼の効果もあるのだろうが、香り高き桃の木の力による所が大きいのだろう。二柱はすっかり癒されていた。
(確かに……桃の木の傍にいると、心が安らぐ感じがする)
桃の木は仙木とも呼ばれ、邪気を祓う呪力がある。仙薬として万病に効果があるとされ、不老長寿の仙果としても有名だ。
日本においても、3世紀前半に栄えたとされる大和国(註:奈良県)の纏向遺跡から大量の桃の種が発見されており、古来より祭祀に使われ、信仰を集めていた事が伺える。
昔話の「桃太郎」や桃の節句、雛祭りなど、桃と関わりのある伝説や風習は枚挙にいとまがない。
なるほど確かに、オオカムズミは己の神力に絶対の自信を持って然るべきだ。
だがスサノオは――彼女の立ち居振る舞いに、一抹の違和感を覚えていた。
ウズメの魔手からようやっと逃れ、ぜえぜえと息を切らしているオオカムズミに対し。
スサノオは何とはなしに尋ねていた。
「オオカムズミさん。アンタの桃って、本当にすげえんだな」
「当然じゃ。我が桃に宿りし呪力、いかに不浄な黄泉の軍勢が押し寄せようと、物の数ではない。
妾の偉大さに感服したというなら、もっと褒め称えるがよいぞ!」
素直な賞賛に気を良くしたのか、彼女はふふんと鼻を鳴らす。
「でも――それだけ凄い力を持っているにも関わらず。アンタはとても寂しそうに見える」
「…………ッ」
スサノオの指摘が図星だったのか、オオカムズミは言葉を詰まらせた。
それまで愉快そうに笑っていた一同も、雰囲気が変わったのを察したか、表情が凍りつく。
辺りを沈黙が支配する中――獣神めいた少女の目からは、涙が伝っていた。
「そうじゃ――妾はここではずっと寂しく、独りぼっちなのじゃ。
妾はかつて、大陸の桃源郷から種としてこの地にやってきた。
木々の神は、己の住む場所を選ぶことはできぬ。いかにその地が己にとって好ましからざる場所であろうが、一度根を張った大地を拠り所にして、生き抜くしかないのじゃ」
天上や地上ならば、神々や人々に讃えられ信仰を集めていたであろう素晴らしき力も。
この穢れに満ちた黄泉比良坂では、皆恐れを為して近づく者すらいない。
他者から見れば優れている力でも、必ずしも自身がそれを望み、満足しているとは限らないのだろう。
「イザナギは妾に言った。
『お前が我を助けたように、葦原中国のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやって欲しい』と。
妾はその願いを引き受けようと思ったのじゃ。
じゃが、この地におるのは妾に触れる事すら叶わぬ亡者ばかり。
妾は……妾独りでは、何も出来ぬ。無力な神なのじゃ……」
しょんぼりした様子で俯くオオカムズミに対し、スサノオはそっと近づいた。
彼女が見上げると、スサノオの姿は変貌していた。女神と見紛うほど美しい銀髪と白い肌を持つ――月の神ツクヨミに。
眼前の神々しき姿に、オオカムズミは思わず息を飲んだ。
『オオカムズミ。今の地上や天上、そして黄泉にいるどんな神々でさえも。
独りではその力を十分に発揮する事はできない……このツクヨミも。スサノオも、タヂカラオも、ウズメも……オオゲツヒメたちも。
だからこそ、私たちは六柱でこの黄泉の国にやって来たんだ』
ツクヨミはオオカムズミの小さな顔に指を触れた。
月の神の「月日を読む」力によって、彼女の記憶が流れ込む。
長い、余りにも長い……孤独と、悲しみに支配された記憶が。
小さな神の目から零れ落ちた涙にそっと指を添え、ツクヨミは言葉を続ける。
『我が父イザナギがそうであったように。
独りではどんなに力のある神でも、その望みを叶える事はできない。
天地開闢の折に産まれし別天神たちですら、独り神であったが故に国土を固める事すらできずにお隠れになった。
今の葦原中国が在るのも、我らの両親たるイザナギ・イザナミが力を合わせて国産みをしたからなのだ』
「……ツク、ヨミ……」
『あなたの持つ、穢れを祓う桃の力は……私たちの旅路において大きな助けとなるだろう。
今、天上と地上において、生ある神々や人々は、苦しみ、悲しみ、悩みに満ち、溢れ返ってしまっている。
オオカムズミ。もし我が父イザナギの願いを、今でも果たしたいと考えているならば。
どうか私たちにその力を貸して欲しい。……私たちには、あなたが必要なんだ』
ツクヨミの微笑みと真摯な懇願に、桃木の神は心奪われていた。
「……わかった……妾でよいのなら。妾の力が役立てるというのなら……」
オオカムズミは未だ泣きじゃくっていたが――それはすでに悲しみの涙ではなかった。