三.神楽(かぐら)の女神、ウズメ★
偉丈夫の男神――怪力の神タヂカラオは、一仕事終えたと言わんばかりに、スサノオに振り返ってニカッと笑みを見せた。
「待たせたな、スサノオ。
ここに来るまで悪神どもが、ちょいとばかし多くてなァ」
「何、気にしてねェさ。
丁度いい時機だったぜ」
先刻まで張り詰めた様子のスサノオだったが、幾分表情が和らいでいた。
「しかし妙だな。今の葦原中国は、どこも酷い有様だが……
ここいらは他より穢れた連中が多い。一体何があるってんだ?」
タヂカラオの疑問も尤もであった。
そしてスサノオも違和感に気づいている。人気も少ない通りに、名のある穢れし雷神が――二柱も現れたのだ。
「若雷、土雷と名乗ってやがったな、あいつら。
黄泉大神に仕えてる、とも言っていた」
スサノオの言葉に、タヂカラオは露骨に眉をひそめた。
「黄泉大神だと? そいつはつまり――」
不意にスサノオの顔――左眼に奇妙な変化が起き、タヂカラオはギョッとした。
瞳が金色の輝きを宿し、瞳孔が縦長になる。真夜中の蛇の目さながらに。
『……ああ。奴等は”我ら”が母上の眷属だ』
スサノオの口から、スサノオのものではない声が響いた。
透き通るような鈴の音のよう。だが男のものか、女のものかも定かではない。声そのものは耳に心地よく伝わる――しかしタヂカラオはこの声が苦手だった。「蛇の目」も好きではない。
(スサノオの事は放っておけねーし、俺は好きだけどよ。
だがどーにも……コイツは苦手だ。スサノオの中に宿ってるっつう、月の神――)
スサノオのものではない瞳も声の正体は、彼の「兄」を名乗る神・ツクヨミであった。
スサノオの言によれば、夜にしか姿を見せないという。
(今はどんより雲が出ちゃいるが、時間的には昼のハズなんだよな)
「今喋って大丈夫なのか? ツクヨミ」
『……神力は消耗するが、薄暗さが心地良い。幾分マシさ』
弟スサノオや彼らの姉・アマテラスと共に産まれた際、ツクヨミは「夜之食国」を治めるよう、父イザナギに命じられた。
だが「古事記」に名が出てくるこの国、いかなる場所であるのか記述は無い。タヂカラオも聞いた事がなかった。
(ツクヨミ……表向きは今回の事件の「協力者」っつー話だ。
最初に聞いた時は、こんな少年神の中にもう一柱いるなんざ……信じられなかったけどな)
『それより急げスサノオ。先ほど助けてやった女神、放っておくのは危険だぞ』
「ンだと……! ツクヨミてめェ、神力使って安全な場所に避難させるよう言ったろう!?」
非難じみて声を荒げるスサノオに、ツクヨミは涼しい声で答えた。
『確かに避難させたさ。だがタヂカラオが言うように、この辺りは禍津神が多い。
先に退けた雷神二柱以外の連中が寄って来る事は大いに考えられる』
「くっそ……!」
焦って駆け出すスサノオを愉しむような笑い声を上げるツクヨミ。
態度の端々からこちらを試すような不快感を覚え、タヂカラオは顔をしかめた。
(言ってる事は正しいが、腹の立つ物言いだぜ。
だが助けた女の事……人ではなく神だと一瞬で見抜いた。
見る目は確かなのか?……それとも……)
ツクヨミの神力によって避難させた以上、その案内に従わねば救いに行く事もできない。
タヂカラオは不承不承、スサノオの後に続く形で走るのだった。
**********
自分はここで死ぬのだ――そう思っていた。
ある日を境に、空は曇天に包まれた。
来る日も来る日も、恵みの陽光は遮られ、どころか昼夜の区別もつかなくなり。
人々は日々の糧にすら事欠くようになり、飢え、乾き……僅かな食糧を巡って争い合い、人が人を喰らう地獄が現出した。
そんな時だ。彼女は襲われた。
噂を聞きつけたのだろう。彼女が実は、五穀を生み出す「食物」を司る女神である、という事を。
恵み豊かだった頃は、己を「穢れ」と蔑み、遠ざけていたのに。
「寄越せ! 食い物を! 女神だろう、テメエ」
「こんな事態だ、細かい事にゃあ目を瞑ってやる!」
「このままじゃあ俺たちは皆、飢え死にしちまう!」
切羽詰まった時だけ縋りついて来る、身勝手な人間たち。
彼女は逃げ出した。ただ恐ろしかったからだ。隙を見て脱出し、あてどなく走り続けた。
狭い住処にひっそりと暮らしていた時は気づかなかったが……暗雲は自分たちの村だけではない。この国全てを覆っていた。
どこに行っても。待てど暮らせど。日は陰り、大地は色を失い、生の気は徐々に先細っていった。
(あの時どうして、逃げたのだろう? どこへ逃げても、同じなのに――)
逃げて逃げて、辿り着いた果てですら、同じ事が起きた。
穢れし雷神に睨まれた時、思った。疲れてしまった。ならばもう、これで終わりでいいか。
諦めにも似た感情がよぎった、その時だった。
不意に奇妙な感覚が全身を包んだ。懐かしくも恐ろしい、己に刻まれた「時」が逆流するような――
気がつけば彼女は、先ほどとは遠く離れた茂みの中にいた。命拾いしたらしい。
(アレは……あの『神力』の感触は……もしかして……)
彼女の名はオオゲツヒメ。食物を司る女神であるが――容姿はさほど美しい訳ではない。
オオゲツヒメは覚えていた。かつて月の神ツクヨミと出逢った事があったから。
**********
オオゲツヒメの潜む茂みに、コソコソと這い寄る者がいた。
全身が真っ黒な闇に覆われた小さき神々。食い入るように、血走った眼を彼女の顔に向けている。
ギギギ――ギギ――
不気味な唸り声を上げ、『それら』は近づいてきていた。
オオゲツヒメを殺そうとした禍津神どもの大半は、怪力の神に浄化されてしまった。
信じられない。大勢いた穢れし神を、清められた武器一つ持たず、徒手空拳で祓ってしまったのだ。
今ならば、周囲に誰もいない。
あの怪力神は恐らく、全ての悪神を討ち果たしたと思い込んでいるのだろう。油断したのだ。
奴がここに戻ってくる前に、あの食物の女神を――
決意した闇の神は、百足のようなおぞましき動きでオオゲツヒメに迫った。
一刺しでいい。ただの一刺しで、穢れを身体の中に流れ込ませる。女神一柱殺すにはそれで充分だ。
食物神は悪神たちの接近に気づいたが、遅すぎた。身体がまるで反応できていない。
闇の神々の不意打ちは、毒牙となりて首筋に――
届く寸前。不思議な香りが周囲に漂った。
「……………………!?」
襲いし小さき神々も、襲われしか弱き食物の女神も。
暗雲の下、似つかわしくない爽やかで香しき匂いに、思わず動きを止め、鼻を使い香りの出所を辿った。
香りの主はすぐに分かった。
清潔かつ妖艶。上等で色鮮やかな衣を纏う、美しき女神だった。
着ている衣は見た事もない色彩で、この国のものではない事が容易に伺い知れる。海を渡った韓国からの生地だろうか。
美しい女神は瞳を閉じ、緩やかに舞っている。
和やかに、艶やかに。いつしかオオゲツヒメも闇の神々も、恐怖や闘争心を忘れ、女神の舞に夢中になっていた。
この色艶やかな女神の名はウズメ。後の世においてその舞は「神楽」として伝えられる――芸能を司る神である。