一.黄泉比良坂の戦い・前編
出雲国(註:島根県)の地下。黄泉の国と地上との間には、黄泉比良坂と呼ばれる場所がある。
だがこの名称、いささか奇妙である。「比良坂」という箇所だ。
比良とは「平」。そして「坂」。
そのまま繋げれば「平らな坂」という意味になる。
坂道なのに平ら? これは一体どういう事であろうか。
結論を言えば、「坂」は坂道を意味している訳ではない。
「坂」とは「境」を表す。すなわち地上と黄泉との境界の平地。
それが黄泉比良坂なのだ。
穢れによるものか、薄暗く重苦しい空気の中――慎重に降りていく複数の影がある。
先頭は二柱の男神。一柱は少年のようにあどけない面影の残るざんばら髪の神・スサノオ。
もう一柱は長身にして筋骨隆々の偉丈夫、怪力の神タヂカラオだ。
その後ろには、二柱の女神が尾いてきている。
一柱は色艶やかな異国風の衣を纏い、健康的な肌を持つ――神楽の女神・ウズメ。
もう一柱は対照的に落ち着いた色合いの衣で、ふっくらした印象を持つ、食物の女神・オオゲツヒメ。よくよく見れば、彼女の傍に童のように小さく、闇を纏う神もいた。名はウケモチという。
「予想はついてたけど……ひどい臭いと有様ね……」
ウズメがぼやいた。彼女をはじめ、タヂカラオやスサノオは清浄なる天上世界に縁のある神々だ。
それが何故、地の底の死者が眠るとされる――黄泉の国に赴こうとしているのか。
(この先に……姉上の『魂』が囚われているのか……
かつて父上も訪れた事があるって話だが……)
スサノオが高天原に入り、狼藉を行った結果――太陽神アマテラスの魂は黄泉の神々に奪われ、世界は闇となった。
再び陽光を取り戻す為には、アマテラスの魂たる「鏡」を奪い返すしかない。その為に彼らはここに来た。しかしスサノオにはもう一つの目的があった。
(形はどうあれ――これで、母上に会える――!)
想定していたものとは違う形となったが、産まれた時から焦がれていた、母に会うという願い。
スサノオの心は言い知れぬ高揚感に支配されていた。
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しばらく一行が歩いていくと、道は巨大な岩によって閉ざされていた。
「これは――」
『ヨミドノサエ、だ』
スサノオの内から、艶やかな女性の如き声がした。
月の神ツクヨミ。スサノオと同じく三貴子が一柱にして、彼の体内に宿る神格である。
『我らが父イザナギが、黄泉から逃げ帰る為に動かした大岩の神。
これによって母イザナミの追撃を防いだとされている』
「これを父上が……? こんなバカでかい岩を……」
スサノオは驚嘆した。イザナギとて国産みを成し遂げた偉大なる神。宿す力はスサノオたち三貴子に匹敵するか、それ以上のものがあったのだろう。
『黄泉比良坂に入る為には、まずこの大岩を退けねばならんな』
「おっ、そういう事なら……俺に任せとけ!」
そう言って一歩進み出たのは、怪力自慢のタヂカラオ。
高天原随一の腕力を持つ彼ならば、男手千人は必要とされる巨岩と言えど、持ち上げられるに違いない。
『確かにタヂカラオなら容易かろう。だが……恐らく持ち上げるだけでは済まんぞ』
「どういう事でしょうか? ツクヨミ様……」
ツクヨミの含みのある言葉に、オオゲツヒメが疑問を呈した。
『今の黄泉比良坂は尋常な状態ではあるまい。
道中、嫌と言うほど見てきた筈だ。生きとし生ける者たちの屍を。彼らの魂魄は今、どこにいると思う?』
一同はハッとなった。暗雲が漂い、死の色に染まった地上。
数多くの人や獣が命を落とし、その大半は埋葬される事もなく野ざらしになっていた。
大岩を退けた先には、無数の彷徨う死者たちがひしめいている事、想像に難くない。
「だったら……あたし達が通る間だけ、タヂカラオに岩を持ち上げてもらって。その間に皆で中に入りましょ。
亡者たちも襲ってくるでしょうけど、皆でタヂカラオを守れば、何とかなる!」
ウズメの提案に従う事になった。どのみち、この穴を通るしか黄泉に向かう術はない。
皆が覚悟を決め、身構える中――タヂカラオは雄叫びと共に、巨岩ヨミドノサエを高々と持ち上げた!




