タヂカラオ、回想す・前編★
食物の女神オオゲツヒメの力は、スサノオ一行の旅路において大いに役立った。
五穀の生成による食糧の不安が無くなった上、蚕までも手に入るようになったのである。
蚕を戯れに、小さき闇の神ウケモチに渡したところ――たちどころに真綿を作り出し、スサノオたちの衣服の裏に忍ばせた。
「おお。こいつは……暖けぇじゃねーか」
怪力神・タヂカラオは嬉しそうに笑った。ただでさえ連日、暗雲の為に陽は遮られ、肌寒くなっていたのだ。
ウケモチの真綿は防寒に最適だったのである。
「タヂカラオみたいな暑苦しい男でも、寒く感じてたのね。
道理で冷えるハズだわー」
舞踏の女神・ウズメが冗談めかして言うと、一同で笑いが起こった。
「暑苦しいとは何だ、暑苦しいとは!
このタヂカラオ様の鍛え抜かれた肉体! 美しいと言って欲しいもんだ!
な、スサノオ! お前だってそう思うだろ?」
「え? えーっと、オレは……」
丸太のように太い二の腕を巻きつけられ、スサノオは答えにくそうに言い淀んだ。ところが――
『タヂカラオ、離れろ。暑い。それから臭い』
「あっ! ツクヨミ! てめっ! 昼間は出てこれねークセに! 自重しろよ!」
スサノオの口から、彼とは別の艶やかな声がした。
月の神ツクヨミ。スサノオの「兄」を名乗り、スサノオの内に宿る神格である。
『私はスサノオと感覚を共有している。私の感想はスサノオの感想でもあるという事だ』
「ンだとォ!? スサノオ! そーなのか!?」
「ちょっ、馬鹿野郎ツクヨミ! お前はどーしてそう、一言多いんだよ!?」
曇天の道中、決して小さくない声で騒ぎ立てている一行。
しかし――道を行く間、風景は色を失っていた。草木は枯れ、人っ子ひとり見当たらず。変わり映えのない――死の世界。
(本当に、静か……でも静かすぎる)
ウズメは皆と和気藹々としつつも、周囲に気を配っていた。
葦原中国をあまねく穢れた雲が覆ってから――人も獣も植物も、生きているものはめっきり減った。
(でも……これだけ派手に言い合いしていても、悪神一柱寄って来ない……
ツクヨミさまの言う通り、ウケモチって神の闇が気配を遠ざけているのかしら)
皆と話していると気分が明るい。しかしこの雰囲気も、束の間なのだろう。
陰鬱にして穢れに満ちた黄泉の国へ辿り着いてしまえば――気を引き締めてかからねばならない。
(ああ、もう! もどかしいわね。こういう時の気持ち。何て言ったらいいんだっけ)
ウズメは上手い表現が思いつかず、やきもきした気分になった。
(註:この時の日本には「楽しい」「面白い」といった表現はまだ存在しない)
一方、タヂカラオもウズメと同じように、弾んだ心地になっていた。
(まだちぃとばかし肌寒いが――悪くねえ気分だ。
一刻も早く、この辛気臭ぇ雲も……ブッ飛ばしてやらねぇとなぁ)
まだあどけさの残る少年神の顔を見やりつつ――タヂカラオは思いを馳せていた。
高天原で囚われた彼と、誓った時の事を……
**********
アマテラスの「岩戸隠れ」が起きた翌日のこと。
高天原にあるオモイカネの屋敷に、騒々しい訪問者がいた。
「オイこらオモイカネ! 上がらせてもらうぜ!
説明してもらわなきゃならん事がある!」
野太い声の主は、怪力の神タヂカラオのものだった。
随分と不機嫌な様子で、上がり込むや否や、オモイカネを見つけたら掴みかからんばかりの形相であった。
「……そろそろ怒鳴り込んで来る頃だと、思っていましたよ」
奥の書斎に、優雅に佇む理知的な、切れ長の目を持つ線の細い神がいた。
彼の名はオモイカネ。
その名の通り人間の知識を司る神であり、高天原の『智』の象徴。
彼は本来、アマテラスを補佐する相談役である。
「ですがそんなに大声を出さなくても、聞こえます。タヂカラオ」
「分かってるよそんな事ァ! お前さんはいつだって、俺の考えてる事なんざお見通しなんだろうが、こっちはそうはいかねえ。
お前の口から直に、納得のいく説明をしてもらいたいもんだ。
今朝のお前の、皆への説明。ありゃ一体どういう事だ!?」
「我が父にして別天神たる、タカミムスビ様の許可は取っていますよ」
オモイカネの的外れな返答に、タヂカラオは苛立ちの声を上げた。
「そういう事を聞いてるんじゃねえよ!
お前の説明、俺の報告した話と全然食い違ってたじゃねーか!
『スサノオの乱暴狼藉に心を痛め、アマテラス様は岩屋にお隠れになった』……って。
なんでまたそんな大嘘つかなきゃなんねーんだよ?
なんでスサノオを拘束した?
あの時スサノオの奴がアマテラス様と雷神たちの間に割って入らなけりゃ、今頃ヒメサマの魂魄は黄泉路送りだったんだぞ!」
「それは分かっています。
アマテラス様の抵抗。スサノオ様の乱入。タヂカラオの救援。
そのいずれが欠けても、アマテラス様のお命は無かった事でしょう。
ですが……これも高天原の為です」
「オモイカネ。俺はお前と違って頭の回転はよくねえんだ。俺にも分かるように話してくれよ!」
「まずスサノオ様ですが、黄泉の勢力の入れ知恵とはいえ、米蔵を穢す等の狼藉を働いたのは事実です。
これを咎めねば、高天原中の神々が黙っていないでしょう。
残念ですが、天津神の間での彼の心証はきわめて悪い。迂闊に寛大な処置をする訳にはいかない」
「ぐぬぬ……」
タヂカラオは言葉に詰まった。
スサノオにどういう意図があったにせよ、彼の数々の悪行はアマテラスへの嫌がらせでしかなく、今回の事件の引き金になったといっても過言ではなかった。
「それに……アマテラス様の魂が『鏡』に変えられ、黄泉の神々に奪われたなどと正直に話してしまえば、高天原の威信は大きく傷つきます。
そうなった場合、警護の任を担うタケミカヅチの責を問わねばなりません」
タヂカラオが高天原の『力』の象徴なら、タケミカヅチは『武』の象徴たる雷神である。
「仮にタケミカヅチを解任したとして、一体誰が代わりに高天原を守るんですか?
タヂカラオ。貴方が引き受けてくれますか?」
「うっ……それは……無理だ……」
タヂカラオは力比べ、運動、喧嘩といった単純なモノは得意分野だが、戦争や都の警護ともなると全くの門外漢だ。
今は高天原ですら暗雲に覆われ、穢れに満ちた禍津神が近辺を跳梁跋扈している。
アマテラスが健在だった頃には考えられなかった事態だ。
タケミカヅチほど、高天原の守護を真剣に考えている神はいまい。
もし彼の任を解けば、今後さらに大規模な事件が高天原を襲うだろう。
「……そういう事です。迂闊に真実を公表すれば、要らぬ混乱を招きかねない」
「なるほどね。さすがはオモイカネだ。
俺みてーな単純な奴じゃ、及びもつかないほど色々考えた上での判断なんだな。
すまねえ。手間ァ取らせちまってよ」
タヂカラオは頭を掻きながら謝罪した。
非を素直に認めるのも、この怪力神の美点なのだ。
「いいえ。謝る事などありませんよ。
むしろこちらは貴方に感謝しているくらいです」
「そりゃどういう事だ?」
「……私はね、タヂカラオ。
知識を司る神として、皆さんの知恵をかき集める事はできますが、その心情までは汲み取れません。
神も人も、感情の生き物です。
感情を理解せずして、真にその方の為になる行動は取れない。
だからタヂカラオ。貴方のように、素直に思ったことを直接ぶつけてくれる方はありがたいんですよ。感情を知り、今後の課題に役立てる事ができますからね。
何しろ高天原の神のほとんどは、私に論破されるのを恐れて、意見ひとつ言ってきませんから……」
天才ゆえの孤独、とでも言うべき話なのだろうか。
寂しげに微笑むオモイカネに、タヂカラオは同情の念を抱いた。
**********
こうして高天原は表向き、アマテラス襲撃事件を隠匿し、必要以上の混乱を避ける事ができた。
だが黄泉の神々によって陽の気を大量に奪われたアマテラスは、放置しておけば魂魄の均衡が崩れ、やがて死に至ってしまう。
天岩屋に蓄えられた霊力によってアマテラスの延命を図る事はできる。
だが三貴子が一柱たる彼女が復活できるほどの陽の気となると、とても足りるものではない。
アマテラスが目覚めぬ限り、世の闇は晴れず、天上も地上も区別なく、緩やかに滅びを迎える事となるだろう。
「……状況は逼迫しています。このまま座して死を待つ訳にはいかない。
私はこれから、天安川に向かい、八百万の神々の知恵を借りてきます。
その後は、拘束しているスサノオ様の処分ですが……」
「そいつに関しては、俺に任せてくれねーか?」
タヂカラオはニヤリと笑って提案した。
「……貴方が?」
「オモイカネ。お前は他人の知恵を集めるのは得意だが、感情ってやつを汲み取るのは苦手なんだろ? だったら俺に任せな!
今のスサノオに必要なのは、理詰めの正論なんかじゃねえ。
心情に寄り添ってやれる理解者ってヤツなんだよ」
自信たっぷりに宣言するタヂカラオの笑顔を見て、オモイカネもふっと笑みを返し「それも道理ですね」と賛意を示すのだった。




