五.ウケモチとオオゲツヒメ・後編
悪神が取りすがり、悼んでいたのは鹿の死体だった。
鹿は古来、聖なる獣であるとされた。その理由は――
スサノオは……いやツクヨミの手は、倒れ伏した屍に触れた。
月の神の「時」を読む神力によって、流れ込んでくる。死した鹿の記憶が。過去が。
「島より――逃げて、海を泳ぎ――この地まで辿り着いたのか」
スサノオは信じられなかった。鹿が大海を渡るなど。
『知らなかったか? 鹿も、猪も、猿も……必要とあらば泳ぐのだよ』
ツクヨミは鹿に寄り添う、小さな悪神に優しく語りかけた。
『お前は海でこの鹿と出会い、共に渡ってきたのだね。
陸に上がったはいいが、穢れを得て病となり……鹿の命の灯は消えたのだな』
悪神は小さく頷いた。いや――この神とて、最初からこうだった訳ではあるまい。
穢れの影響と、共に旅した仲間の死の悲しみが、彼を変えてしまったのだろう。
(この神の正体は……分からない。穢れを得た際に、記憶を失ったのか)
『いかにこのツクヨミとて、失われし過去や、命の時を戻す事はできぬ。
失われるにはそれなりの理由がある――それが分からぬ限りはな。
だが……お前の悲しみに寄り添い、この聖なる獣の弔いを手伝う事ぐらいは、できる』
ツクヨミに敵意がなく、鹿の魂魄を解放しようという意思がある事を……小さき神も理解したらしい。
こくりと頷くと、月の神にその場を譲った。
腐乱し、悪臭を放つ死骸の全容が露になる。
その場にいたスサノオ、タヂカラオ、ウズメは思わず息を飲んだが――オオゲツヒメだけは顔色一つ変えなかった。
ツクヨミが手を触れると――鹿の屍肉は瞬く間に崩れ、形を失っていく。
「時」を速めているのだ。命を終えたが、穢れの荒ぶる刻はツクヨミの手によって縮められていく。
『目を逸らしてはいけない。お前がこの鹿の、殯の主だ。
完全なる死の平穏を得た事を、見届ける義務がある』
ツクヨミの言葉に、悪神はすすり泣きつつも――鹿から片時も目を離さなかった。
やがて鹿は完全に骨と化し、皆で埋葬する事になった。
『気高き聖獣よ。そなたの魂の荒ぶりを鎮め、見届けた者として。
その聖なる力を宿せし骨を、我が力と為す事をお許し願いたい』
そう言ってツクヨミは、鹿の肩甲骨の部分だけを回収し、懐に納めて祝詞を唱えた。
鹿の骨は古代の日本では、占いに使われていた。国産みを行ったイザナギ・イザナミの上位たる別天神ですら、この占いを用いて助言を与えているのである。
鹿の埋葬が終わると、小さき神の纏っていた穢れもまた消えていた。
しかし形は定まらず、所々に闇が点在しぼんやりとした姿のままである。
小さき神はとてとてと歩き、オオゲツヒメに寄り添った。
「あらあら――」
オオゲツヒメは最初は戸惑っていたが、赤子のようなものと思ったのだろう。
にっこりと微笑んで小さき神を抱擁した。
『……どうやら、その神はオオゲツヒメの事が気に入ったようだね。
姿こそ小さいが――並々ならぬ力を感じる』
未だ正体は分からぬが……恐らく元は、さぞ名と力のある神であったのだろう、とツクヨミは思った。
「……もしかして、コイツも連れていくのか? ツクヨミ」スサノオは怪訝そうに尋ねた。
『オオゲツヒメに懐いている以上、仕方あるまい』
ツクヨミは愉快そうに答えた。
『それにこの神の纏う闇、陰の気が強い。オオゲツヒメの生み出す食物の陽の気を抑えられる。
彼女が黄泉で悪神に狙われる事も減るだろう。護衛としては丁度良いのではないか?』
スサノオの懸念も払拭できる。それに小さき神は、オオゲツヒメの傍を離れようとしない。
それ以上異論は出なかった。
「名前が……必要ですね」
オオゲツヒメはぽつりと呟き、小さき神に尋ねたが――彼は悲しげにかぶりを振った。
未練を晴らし、穢れが祓われたとはいえ、元の記憶は未だ取り戻せていないようだ。
『ならば――私が仮初の名を与えよう。”ウケモチ”……というのはどうだ?』
ツクヨミの命名に、小さき神は最初は不満そうだったが――オオゲツヒメから「ウケモチ」と呼ばれると嬉しそうにコクコク頷く。結局受け入れてしまったようである。
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オオゲツヒメの麦や稲を用いた飯をたらふく食した後、一行は旅路を急いだ。
行き先は黄泉の国へと通じる地下の穴。
かつてツクヨミ、スサノオの父イザナギも赴いたという――出雲の国の、黄泉比良坂と呼ばれし地である。
(邂逅の章 了)
殯
古代日本で行われていた葬儀。棺に遺体を入れ、白骨化するまで経過観察した後に埋葬する。