四.ウケモチとオオゲツヒメ・前編
オオゲツヒメによって生み出され、ツクヨミが煮た大豆は確かに美味だった。
スサノオがそうしたように、タヂカラオやウズメも恐る恐る口にして――たちまち味を占めてありったけ頬張っていた。
三柱の受け入れぶりに、オオゲツヒメも目を丸くしていたが……いつしか微笑んでいた。
(――ありがとうございます。ツクヨミ様)
彼女も食物神の端くれ。己の生み出した食糧で人を喜ばせられる事は、素直に嬉しいのだった。
しかし流石に麦や稲はそのまま食せないので、竈のある所まで運んで調理しよう、という話になった。
『――そうだな。調理云々もあるが、速やかにこの場を離れた方がいい』
スサノオの中にいる兄・ツクヨミは、心の中で呟いた。
『どういう事だよ、ツクヨミ?』
『我々がここに来た理由を思い出してみるといい。
この地から、尋常ならざる数の悪神が集っているのを感じたからだ。
では何故、悪神どもはここに集まっていたのだと思う?』
問いかけられ、スサノオも考え込んだが……
『もしかして……オオゲツヒメか!?』
『そうだ。彼女の生み出す五穀には、生きる糧となる強い陽の気がある。
暗雲に覆われ、大地が死の色に染まりつつある今の葦原中国では、彼女のような食物神は非常に目立つのだ。
我々が駆けつけるのがもう少し遅かったら、オオゲツヒメは殺されていただろうな』
『そんな……じゃあ彼女を黄泉の国に連れて行ったら、食糧は手に入るかもしれねえけど……
真っ先に黄泉の悪神や亡者たちに、狙われちまうんじゃねーのか!?』
スサノオの焦燥感はツクヨミにも伝わる。
言わんとしている事は分かる。恐らく戦う術も持たぬオオゲツヒメを、こちらの都合で黄泉に供させるのは――想像以上に独善的な行為ではないのか?
『そうなるだろうな。それでも……いや、だからこそオオゲツヒメは、我々と行動を共にせねばならない』
『なんでだよ!? そんな事したら、彼女はますます危険な目に……!』
『ではスサノオ。彼女をどうするつもりだ? 黄泉の入り口に着いたら、食糧だけ譲って貰って別れる気か?
今や危険なのは黄泉だけではない。食物神を単独で放置すれば、先ほどのようにまた悪神に襲われるぞ』
『ぐっ……それは……!』
『彼女を同行させるのは、酷に思えるかもしれない。
でもね――これが一番良い方法なんだ。彼女にとっても、我々にとっても』
ツクヨミの言葉に、普段のような皮肉げな響きは一切ない。
スサノオも完全に納得した訳ではなかったが……兄は兄なりに、オオゲツヒメの身を真剣に案じているのだと分かると、それ以上抗議する事はしなかった。
(彼女の行動自体も気がかりだ。襲われると分かっていて何故、誰もいない場所で五穀を生み出していた?
本当に……彼女をここで救う事ができたのは、幸運だったとしか言いようがない……)
今この場でツクヨミの疑念を追究する事は、かえって話をややこしくしかねない。
スサノオが押し黙った事を契機に、ツクヨミは別の話題を切り出す事にした。
『……ここを去る前にひとつだけ、やっておかねばならん事があるな』
ツクヨミの注意を向けた先を、スサノオも見やる。
昼間のツクヨミは盲目だ。故に『穢れ』や、周囲の心の流れを呼んで気配を察知する。
その先には、先刻オオゲツヒメを襲おうとした悪神の姿があった。
黒々とした瘴気のようなものに包まれ、ぼんやりとしており……ハッキリした形は見えない。
「あの悪神、まだ逃げ出してなかったのね」
ウズメは意外そうに声を上げた。彼女の舞の力によって悪神を魅惑し、襲撃を防いだ。
舞を止めてしまえば、ウズメの神力も途切れる。にも関わらずその場に留まったまま――何をしているのだろうか?
スサノオは注意深く悪神に近づいた。距離が縮まっても、全くこちらに注意を払っていない。
奇妙に思えたが、近づくにつれ……聞こえてきたのは、悪神のすすり泣きだった。
「おいスサノオ、あんまり深入りするな。いくらお前でも穢れるぞ」
タヂカラオが警告するも、スサノオは怯まず距離を詰める。内なるツクヨミの心情に気づいたのだ。
『……悪神に、邪悪な意思はない。ただ、弔っているんだ』
スサノオの右手が、逞しい少年のものから繊細そうな美しい素肌……ツクヨミの手に変わる。
月の神の手が瘴気を取り払うと――中から現れたのは、腐乱した鹿の死骸であった。




