一.禍津神(マガツカミ)を祓いし神、スサノオ★
薄暗い道なき道を、逃げ惑う人々がいる。
痩せこけ、眼に疲れの色を濃く残した男二人。
彼らは住み慣れた村を捨て、逃亡している最中だった。
「ハアッ、ハアッ……」
「畜生。どうして……こうなっちまった……」
彼らの故郷は今や、絶望しかなかった。
事の起こりは一月ほど前。天の恵みたる陽光がいつしか暗雲に遮られ、昼夜の別なく闇に覆われてしまった。
草木は枯れ、動物は姿を消し、作物は育つ事なく……村は瞬く間に飢餓に見舞われた。
あらゆる対策は実を結ばず、それどころか更なる災厄が村を襲った。
飢えて死した村人から「穢れ」が湧き、荒ぶり――恐るべき病が村中に広まったのだ。
「もう村はおしまいだ。逃げるしかねえ」
「逃げるったって……どこへ? 見渡す限りどんより雲しかねえぞ!」
男二人は村から離れたが……行けども行けども、暗雲は途切れるどころか空を覆い尽くしている。
まるでこの世の終わりの光景だ。暗き灰色に染まった――死の世界そのものだ。
だがそんな中、二人の「生きたい」と願う執念が形と成したのか。
彼らは不思議な光景を見た。枯れかかった大木の傍に、清潔な衣を纏った女。その周囲に無数の穀物……稲・小豆・粟・麦・大豆……が積まれている。
冷静に考えれば不自然極まりない。だが飢えと焦燥で追い詰められた男二人に、考えを巡らせる余裕など無かった。
「もう何日もマトモに飯を食ってねえ……腹が減った……」
「いただいちまおうぜ。お天道様も、今なら見てやしねえしな!」
女は二人の接近に気づいたようで、ハッとして顔を青ざめさせた。
「女ァ。何もお前を取って食おうって訳じゃねえ。食い物をちょっと寄越しゃあいいのよ」
「そんだけ沢山持ってるんだ。少しぐらい俺たちに恵んでもバチは当たらねえだろう?」
完全に山賊か、野盗の言い分であったが。明日をも知れぬ今、四の五の言っていられない。
だが女の怯えた視線は、男二人に向けられたものではなかった。
彼女の視線の先が、自分たちの背後にあると気づいた時。
不意におぞましい「穢れ」の臭いが充満した。鼻を突き刺すような不快な悪臭に、男たちも尋常ではない事を悟る。恐る恐る振り返ると――
恐るべき悪鬼の如き形相の、二柱の神々がいた。
腐乱した肉体のあちこちに雷光を纏い、凄まじい穢れを宿している。雷神の類であろうか。
男たちは神に詳しくはないが、人に災いをもたらす禍津神である事は容易に想像ができた。
「ぎゃああああああッ!?」
男たちは悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、時すでに遅し。
禍津神らの放った雷に撃たれ、あっという間に黒焦げの物言わぬ屍と化してしまった。
「見つけたり」「見つけたり」
禍々しき悪神二柱は、五月の蠅のような耳障りな声で――怯える女性を睨み据えた。
彼女は腰が抜けてしまったのか、その場にへたり込んでしまい……立ち上がる事すらままならない。
「殺すべし」「朽ちるべし」
恐怖に震え、抵抗する素振りもない女に対し……禍津神はゴロゴロと、威嚇するように不気味に喉を鳴らした。
それに呼応するかのように、頭上の暗雲が不吉な光を帯びる。招き寄せているのだ――雷を。
次の瞬間、目映い稲妻が身動きの取れない女を直撃し――
「!?」
雷神は目を疑った。確かに招雷は成功した筈。
にも関わらず、何の手応えもない。放たれた雷は地面を焦がしただけで、女は瞬く間にその場から消えていた。
代わりに立ちはだかるは、ざんばら髪の男だった。
髪も髭も伸び放題で、だらしなくも見えたが――その身に纏うは、神々しき清浄なる気。
雷神は訝しんだ。この男は無力な「人」ではない。神だ。
今や何処も穢れ切った葦原中国に、未だ自分たちに逆らう神が生き残っていたのか?
「主ァ……何者ぞ。どこぞの国津神か?」
雷神は苛立ちを交えた誰何の声を上げるも――男神は答えない。
名乗りも上げず、言葉も交わさぬ。雷神はこの男を侮った。彼は全く戦闘態勢を整えていなかったし、己の神力を上回っているようにも見えなかったからだ。
「名乗らぬか。ならば名も無き愚かな神として――ここで朽ち果てるがええ」
雷神は再びゴロゴロと不気味な唸りを上げ、雷を呼び寄せた。
いかなる神とて、一度天空より放たれし稲妻を躱すなど不可能だ。この男がどの程度の力を秘めていようが――すぐに終わる。
再び周囲の地面が凄まじい轟音と稲光に包まれる。
雷神は歪んだ笑みを浮かべたが――もう少し用心深くなるべきだった。
最初の雷撃が放たれた時、狙ったはずの女がどこへ消えたのか? それを不審に思うべきだった。
男神は悠然と立っていた。
何をどうやったのかは分からない。信じがたいが、奴は雷神の一撃を躱したのだ。
「馬鹿な……何故だァッ!?」
雷神が金切り声を上げ、再び雷を呼び出そうとした時――男神は駆け出していた。
決して見切れぬ速度ではない。だがそれ故に不可解だ。何故この程度の動きしかできぬ神に、己の雷が命中しなかったのか。
雷神は男神の動きを片時も見逃すまいと凝視した。
ところが……眼前でその姿は忽然とかき消える!
「ッ!?」
男神はいつの間にか背後に回っていた。神気に満ちた十拳剣を抜き放ち、一瞬にて切り伏せる!
穢れし雷神の力は見る間に祓われ、清められ――耳障りな絶叫が上がった。
消えゆく雷神の目に映ったのは、不可解な光景だった。
男神の顔の、左半分が変化していたのだ。黒髪が銀髪に、野性的な顔立ちが、陶磁器のような白く瑞々しい素肌に。まるで女神と見紛うばかりの美貌である。何より特徴的だったのはその左眼。夜闇に光る蛇のような細長い金色の瞳孔。見ているだけで魂魄を吸い尽くされそうな――狂気の色だ。
「そ……んな……この……若雷が……いとも、簡単に……!」
雷神は苦悶に顔を歪め、存在を保てなくなり――その力を、そして姿を消失した。
葦原中国
地上世界。国産みの神たるイザナギとイザナミによって作られた、我々人間の住む世界である。要するに日本列島だ。
葦原中国で生まれた神や、高天原から天下ってきた神のことを国津神と呼ぶ。
なお古事記が成立した頃の大人の事情により、東北や北海道、沖縄などは含まれていない。知らないんだからしゃーない。