友だちでいいから‥
本作品は、高橋由美子さんの「友だちでいいから」にヒントをいただいて勝手に妄想して書きあげました。
県立のG高に入学し、自転車通学を始めてもう二年が過ぎようとしていた。森田勇作は、大きな欠伸をしながら、学校への道を急いだ。G校まで五キロの道を毎日同じ時間に登校する。それが、当たり前であって、勇作は何の疑いもなく二年間を過ごしてきた。「日常とは、そういうものだ」と思っていた。退屈な毎日は、ずっと変わらず、多分、卒業するまで同じような日々を繰り返すだけなんだろうと思った。やがて彼が通うG高の校舎が見え、右へ曲がると校門があり、それをくぐって、自転車置き場に自転車を停める。この当たり前の日常生活の始まりが、時には退屈に思えたが、勇作には別に不満でもなかった。
「おはよう!」
友だち‥というよりも顔見知りの何人かが自転車置き場で自分の自転車を定位置に停めながら、勇作に声をかけてくれた。勇作も「おはよう」と軽い笑顔を返した。そうして自分の自転車を同じように定位置に停めてから鞄をさげて下足室で上靴に履き替えて教室に向かった。勇作の教室二年B組は校舎の二階だった。本館の一階は職員室や事務室、校長室、保健室、生徒指導室などがあった。二階は三年生と二年生の教室があって、三階は一年生の教室と多目的室などがあった。別館には、美術室など特別教科室と食堂などがある。どこにでもある校舎の造りになっていた。階段をあがると二つ目の教室が勇作の、つまり二年B組の教室だった。
「おはよ‥」
勇作が教室に入ろうとするといきなり二人の女子が教室から飛び出してきた。「何だ、あれ?」と息を呑んで勇作が走り去った女子の方を振り返り見ながら、更に前に進もうと教室の入り口に手をかけた時だった。
ドンッ!
「わっ!」「きゃっー!」
勇作は突っ込んできた誰かと正面衝突してしまった。「痛てて‥」と顔を上げた勇作は、自分にぶつかった相手が同じクラスの高橋由美だと気がついた。「‥だ、大丈夫かぁ?」勇作は自分が戸袋に激しく背中を打ちつけたことも忘れて、由美に声をかけた。由美はしばらく動かなかったが、突然顔を上げると叫んだ。
「私のマチュピチュ!」
「‥マチュピチュ?」
「返して‥痛てて」
「おい、由美? お前、大丈夫かぁ?」
「な~んだ、勇作だったの。もう、いきなりぶつかってきて~!」
「おいおい、勝手に突っ込んできたのは、そっちだろう」
「どうしてくれるのよ! 私のマチュピチュ‥」
そこまで言うと由美は泣きそうな顔になった。教室にいた他の生徒や廊下にいた生徒が「なんだ、なんだ?」と集まってきた。「森田と高橋が正面衝突らしいぜ」「高橋がなんか変なこと言ってるらしいぞ」ザワザワ‥ みんなの騒ぎを無視するように、勇作は立ち上がった。それから「さぁ立てよ」と由美に手を差し出した。
けれど、由美はその手を無視して先ほど逃げて行った女生徒が「ごめんね、由美‥」と差し出した一枚の紙を受け取って「マチュピチュ‥」と言いながらよろけそうに立ち上がった。
勇作は集まった生徒たちを「大丈夫だ、関係ない」と散らすように言いながら、飛ばされた鞄を拾って自分の席に着いた。背中から腰にかけて少し痛みが残っていたが、自分が痛がるとまた皆が騒ぎ出すと思ったので我慢していた。すると勇作の席のところまで由美が先ほどの紙を大切そうに胸に抱えながら、やってきた。
「森田君、ごめんね‥」
「いいけど、お前の方こそ大丈夫かよ。さっきから変なことばかり言ってさぁ‥」
キ~ン~コ~ン~カ~ン~コ~ン~
突然、始業のチャイムが鳴った。皆がザワザワと席に着いたので、由美も「後で話すから‥」と言い残して自分の席へ歩いて行った。勇作の三つ斜め後ろが由美の席だった。由美はおでこを少し赤くして手でさすっていたが、下を向いていて表情は分からなかった。勇作は自分の顎が痛むのをなでながら、由美のおでこが自分の顎とぶつかったんだなと思った。
やがて担任の吉田が入ってきて挨拶の後ホームルームが始まった。吉田は事務的な連絡の後で教卓から全員を見回した。
「諸君! 三学期も始まって、いよいよ諸君も三年生になろうとしている。‥ところで春の甲子園大会はN高の二大会連続出場だが、我がG高の野球部にも頑張って欲しいものだな。N高に対して五十二イニング無得点の野球部には、次の土曜日の練習試合‥市では、壮行試合だと考えているようだが、打倒N高! 昨年の夏の甲子園もN高に阻まれたからな。特に一年生の時からエースの真壁を撃破し、一点でも奪取してもらいたいものだよなっ!」
吉田は、きっぱりとそう言いきってから、ホームルームを終えて教室を出て行った。皆は一時間目の英語の文法の授業の準備を始めたり、今のうちにトイレに行く者もいた。‥だが、勇作は別のことを考えていた。「N高の真壁と言えば‥」
勇作は、斜め後ろの由美の座席を見た。由美は淡々と授業の準備をしている様子だったが、明らかに不愉快な顔をしていた。「無理もないな‥」と勇作は思った。自分の彼氏を「撃破」だなんて言われたら誰だって気分がいいものではない。「‥由美にとっては、自分が付き合っている人がたまたまN高の野球部のエースだったというだけなのに‥」そのことを知っている勇作には、担任の吉田の言葉が、どれほどに由美を傷つけているか、痛いほどによく分かっていた。とにかく由美のことなら‥マチュピチュは別として‥なんでも分かっているつもりだった。
勇作と由美は幼馴染だった。勇作が今の自宅に引っ越す前は同じマンションの隣同士だったのだ。勇作の誕生日は二月十四日‥つまりバレンタインデーで、由美は三月十四日‥つまりホワイトデーなのだ。お互いの誕生日プレゼントがそのまま告白になってしまうんだ。しかも本人だけでなく、両親もとても仲良く、親戚付き合いのようにしていたので、幼稚園の年中組までは、一緒にお風呂にも入っていたほどだった。その頃由美は、「大きくなったら、アタチ勇ちゃんのお嫁さんになる!」と言って勇作の頬に優しくキスをしてくれた。同じ病院で生まれ、同じ幼稚園、同じ小学校に同じ中学校‥隣同士で小学校低学年までは、一緒に手をつないで学校に通って、その後も兄妹のように何でも話せる仲だった。‥ただ、小学校も高学年になってくると女の子の方が早く成長してしまうものらしい。由美は昔から性格が真っ直ぐというか、直線的だったので、好きな人ができてしまうと、他のものが見えなくなってしまうらしい。だから、その人が少しでも気にいらないことをしたり言ったりしただけで、「好き!」が一転して「嫌い!」になってしまう。他の人から見れば移り気な少女に見えても、勇作だけは由美を理解しているつもりだった。中学の時に勇作一家が引越しても、近かったN高ではなく由美と同じG高に進学することを親も誰も反対しなかった。勇作は自分のためというよりも寧ろ由美のためにG高にしたのかもしれない。由美の直線的な生き方が心配だったのだ。そうして本当に本音を言えば由美がたまらなく好きだった。幼稚園の頃「大きくなったら、アタチお嫁さんになる!」と言った彼女の言葉を今でも待っているのかもしれない。もちろん、今由美にあの頃の約束を言っても鼻で笑われるに決まっている。勇作はそれも承知の上でG高に進学したのだ。「ずっと友だちでいいから由美のそばにいたい‥」というのが勇作の本心だったのかもしれない。
だが、いつからかお互いの誕生日のプレゼント交換もしなくなり、由美の次から次への恋‥それが終わるたびに泣きついてなだめるのがいつも勇作の役目になっていた。自分の本当の思いを伝えきれない自分が歯痒かったが、勇作はそれでも由美の良き理解者としていつもそばにいた。それが自分に与えられた運命だとでも言いたげに‥
お昼はいつも食堂の隣にある購買部でカレーパンか焼きそばパンを牛乳と一緒に買い、屋上で食べるのが勇作の習慣だった。由美は自作の弁当を教室で仲良し女子と一緒に食べているだろうし、食堂もあまり好きにはなれなかった。あまりに人が多くてうるさいところは好きでなかったのだ。勇作がいつものように購買部で買ったカレーパンと牛乳でお昼を食べていると不意に誰かが屋上のドアを開けた。由美が赤いバンダナで包んだランチボックスを持って立っていた。
「由美‥」
「‥ここ、いい?」
「いいけど?」
「朝のこと‥ちゃんと話しておきたかったの。それに‥」
「ホームルームのことだね?」
「うん‥」
由美がそっと隣に座って自作の弁当を広げた。その時勇作はあることを思い出して、思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
「ほら、あれ‥中三の時だっけ、その頃付き合ってたバスケ部の男子が、君との約束をすっぽかして、遊園地の前で君は四時間も待って‥」
「彼がNBLだかなんだかバスケの試合をテレビで見ていて忘れてたってやつ?」
「君が泣いて帰ってきて、俺が代わりに君が彼のために作ったお弁当を全部食べたよね」
「何が言いたいの? また欲しいの? いいわよ」
彼女は手製のお弁当を開けて勇作に差し出した。「サンキュ!」と勇作は小さめのお握りを一つ口に入れた。
「うん‥腕、あげたね」
「当たり前でしょう。毎日やってんのよ?」
「ご立派なことで‥ で、朝は何があったの?」
「うん‥ あのね‥」
由美が食べかけのお弁当を置いて空を見上げながら、話し始めた。‥それは昨日のことだったらしい。由美が教室で仲良しの美咲と沙織と好きな世界遺産のことについて話し合っていた時だ。三人ともそれぞれに自分が好きな世界遺産について自慢し合っていた時だった。「そりゃ、絶対に万里の長城よ! 宇宙から確認できる唯一の人工物なのよ!」と美咲が自慢げに言うと、沙織が負けずに「私は、ヴェネツィアの街並みだわ! アドリア海の真珠と言われているのよ‥ ロマンチックだなぁ‥」そんな二人を見ていた由美は、きっぱりと「本当のロマンが無い人たちねぇ‥」と言った。
由美そうに笑われた二人は由美に向かって「どういう意味?」と詰め寄った。「万里の長城にしろ、ヴェネツィアにしろ、必然性があってそうなっただけのものでしょう?」と鼻で笑うように由美が言うと、カチンときたらしく沙織が由美に聞いた。「じゃぁ、由美はどこがいいって言うよのっ?」その言葉を待ってましたとばかりに、由美が自信たっぷりに言った。
「マチュピチュよ!」
「マチュピチュ~?」聞いていた二人は素っ頓狂な声を出した。
「何それ?」沙織が呆れたような顔で聞いた。「あら知らないの? 子どもねぇ‥」明らかに馬鹿にしたように由美が笑った。美咲がキッとなって「ちゃんと説明しなさいよ!」と少し語気を強めながら聞いた。由美は更に自慢げに言った。「天空の城とか、空中都市とも言われているの、標高二千メートル以上の絶壁の上に築かれた謎の遺跡よ」「どこにあんの?」「南米のペルーよ」「何が凄いの?」「‥とにかく謎だらけなのよ。誰が何のために、どうやって築いたのか、未だに謎らしいわ」「ペルーって、確かナスカの地上絵も‥」「そうそう! 今のトレンドはインカ帝国の謎だわ!」「どうもイメージできないわ‥マチュピチュ‥」美咲がため息をついたので、由美はその素晴らしい姿を伝えたくなって二人に言った。「明日ネットからプリントアウトしてくるわ」二人は顔を見合わせて、由美に「約束よ?」と念を押したらしい。‥そして今朝の事、マチュピチュの写真が印刷された紙を二人が由美から奪って逃げたから、追いかけて教室を出ようとして‥
「‥で、勇作と激突したってわけ‥」
「‥だから、マチュピチュって言ってたんだね?」
「私、本気よ!」
「何が?」
「ハネムーンは、絶対にペルーに行くの!」
「マチュピチュへ行きたいから?」
「うん!」
「マチュピチュかぁ‥」
勇作は屋上の上に広がった青空を眺めながら呟いた。昨年行った南アルプスの山々を思い出しながら、山頂にできた架空の都市を想像していた。「面白そうだな‥」と勇作の空想を現実世界に引き戻すように由美が怒鳴った。
「それにしても今朝の吉田先生! 絶対に赦せないわ! N高の真壁君を撃破だなんて‥」
「吉田は我がG高を鼓舞するために、あんなこと言ったんだろうけど、あれはちょっと言い過ぎだったよな?」
「ね! 勇作もそう思うでしょう? あれじゃぁ真壁君が悪役みたいじゃない!」
「確かに高校球児の間では怪物って言われているけどね」
「意味が違うでしょう。意味が!」
「俺に怒るなよ」
「‥別に、勇作に怒ってなんかないわよ‥」
「うまくいってんの? 彼と‥」
「うん! 週末のG高との試合が終わったら、一緒にUSJに行くつもりなのよ!」
「USJか‥まぁ、うまくやるんだな」
「うん! 今度こそ大丈夫よ!」
「今度こそって、‥ええっと今までに‥」
「今までのことは、もういいの!」
「そういうもんかねぇ‥」
「ところで、勇作の方こそA組の吉沢さんとはどうなってんのよ。うまくいってんの?」
「吉沢とは、ただの友だちだって言ってるだろう」
「そうでもないみたいじゃない。今度デートに行くって吉沢さんの友だちから聞いたよ?」
「違うよ! あれはただ、綾香が一緒に観たい映画があるって言うから、ついて行くだけだよ!」
「いつ?」
「今度の日曜日‥土曜日は家の用事があるので、野球部の試合にも行けないんだってさ」
「いいなぁ。思われて付き合っている人は楽なのよねぇ‥」
プンと頬をふくらませて、由美はお弁当の残りを食べ始めた。もう食事の時間は終わっていて、昼休みになっていた。グランドではサッカーに興じる男子や日陰で楽しそうに話し合っている女子の姿が見えた。勇作は由美が大好きで大切に残していたミニトマトをつまんで口に入れた。
「あっ、私のプチトマト!」
「美味しいよ!」
「大事に残しておいたのに~!」
由美は勇作の頭をゲンコツで叩いた。
「痛っ!」
「私の気持ちが分からない人って嫌いよ!」
「代わりに、マチュピチュのこと、もっと詳しく調べてやるよ」
「ええっ、本当に?」
「どうせ、今朝の写真も小父さんに頼み込んだんだろう?」
「うん‥ パパは面倒くさそうに引き受けてくれたけど‥」
「最初から俺に頼めばいいのに‥」
「勇作はバイトでいっつも早く帰っちゃうもん‥」
勇作は一年生の頃から夕刊の新聞配達のアルバイトをしていたのだ。‥だから部活はしていない。
「分かったよ。明日までに、どっさりプリントしてくるよ?」
「嬉しい!」
「やっと笑ったな」と勇作は思った。しばらくして昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。勇作はとりあえず目的を果たすことができたと思い、由美と並んで教室へ向かった。
その夜、勇作は自分のパソコンに向かって、「マチュピチュ」についてネットで検索してみた。幾つかの項目があり、「マチュピチュの謎」について、開けてみたら、かなり面白そうであった。ふと自分がマチュピチュにいるような気になった。
自分が考古学者になって謎の究明のためにいたのだ。「インカ帝国を征服したスペイン人にさえ発見されぬままになっていたマチュピチュの人々はどこへ消えたのか‥?」彼が頭を抱えて悩んでいると、何故か由美が「は~い。記念に写真を撮りましょう!」と言った。‥そこで勇作は現実に戻ってウィキペディアの内容をプリントアウトした。小学生の頃から、テレビゲームよりもパソコンが好きで、「調べ物があると由美のためによくパソコンを使ったものだ」と勇作は苦笑した。明日この印刷物の山を見たら由美はどんな顔をするだろう? 想像しているだけで勇作は楽しかった。
三日後の土曜日に、春季甲子園大会出場決定のN高の壮行練習試合が市民球場であった。対するG高はN高の引き立て役だった。勝てる相手ではないことは最初から分かっていたが五十二イニング無得点のN高に異様なほどのライバル心を持っていたG高は、校長以下教師はもちろん、生徒会までもが大々的に宣伝したために(負けると分かっていながら)G高の生徒はほとんど応援に来た。推薦入試で進路が決まった三年生も来ていた。だから、応援の数だけはN高よりも遥かにG高が勝っていた。
だが、試合が始まってみると当然ながら一方的な試合になった。決定的な違いは投手力だった。G高を八回まで無安打無四死球に抑えていたN高の真壁一人に対して、G高は毎回失点で三人の投手リレー‥誰が投げても話にならなかった。練習試合と言っても、夏の甲子園経験者が四人もいるN高との貫禄の差というものだ。
由美は試合前に真剣な顔で勇作に「あっちへ行ってもいいかな?」と聞いていたが、さすがに止められてG高の応援席に座っていた。勇作が由美の隣に座ったのは、変な意味でなく、由美を放置しておくと真剣に真壁を応援しかねかないからだった。由美が立ち上がろうとするのを何回抑えたことか‥ 試合はいよいよ九回の裏のG高の攻撃になった。
得点版を見て不意に勇作が顔を曇らせた。
「真壁の奴、危ないな‥」
「えっ、何が危ないの? 完璧じゃない」
「だからだよ。ほら、得点版見てごらん?」
由美は勇作に促されて得点版を見たが、G高が無得点でN高が十二得点ということしか分からなかった。
「分からないわ。‥何が危ないの?」
「ここまで真壁はノーヒットノーランできているよね?」
「‥ノーヒットノーランって?」
「エラー以外、一本のヒットもファーボールもデッドボールもないってこと‥」
「うん」
「こういう時って思わぬミスがあったり、迂闊な失点があったりするものなんだよ。‥もちろんN高のナインが誰も気がついていなけりゃいいんだけどね。今日はプロのスカウトも見に来ているらしいから、余計に心配なんだよ」
「‥なんかよく分からないけど、真壁君がちゃんと抑えてくれることを祈っている‥」
由美はそう言うと拝むように手を組んで下を向いていた。真壁は二人まで完璧に討ち取った。後一人だった。勇作は拳を握り締めて「真壁‥落ち着け!」と心の中で叫んだ。ストライク二つの後の三球目‥バッターボックスの後藤は、相手が投げた球に夢中でバットを出して思い切り振った。
カッキ~ン‥
打球は大きくライトに飛んで行った。ライトは深く守っていたので手を伸ばせば捕れるイージーフライかに見えた。‥しかし、ライトを守っていた矢部は緊張と予想外の大きな飛球に一瞬タイミングを外してしまい、グラブに当たってフェンスを越えて‥なんとホームランになってしまったのだ。
「真壁‥」
諦めかけていたG高大応援団は一瞬にして盛り上がった。中には悲鳴に近い声をあげている者さえいた。これまた一瞬にしてヒーローになってしまった後藤は、まるで勝ったかのようにガッツポーズをとりダイヤモンドを一周した。六十一イニングぶりのN高からの得点に、スタンドのG高みんなが「わ~!」と叫んだので俯いていた由美は何があったのか分からなかった。「どうしたの?」と勇作に聞くと彼は黙ってマウンドの真壁を指差した。そこには、まるで敗戦投手のように膝をついて悔しがっている真壁誠がいた。
「何があったの?」
「嫌な予感が当たったんだよ」
勇作は由美に今の出来事を説明した。
「真壁君‥」
由美は涙を流した。差し出された勇作の白いハンカチで口を押さえていた。勇作はこのままだと由美が本当に泣き出すかもしれないと思って「出よ!」と由美の腕を引いて通路に向かった。出口のところで由美は号泣した。
「仕方ないよ。真壁も高校生だもの。無理ないさ。プロでも難しいんだぜ?」
右手で由美の右肩を軽く叩いて慰めた。それから「俺に慰めてもらうよりも、由美が真壁を慰めてあげなきゃ!」と励まし、由美もやっと泣きやんだ。
「‥そうだよね。私が真壁君を慰めなきゃね?」
「そうさ。それが由美の役目だろう?」
「うん!」
泣きやんだ由美の瞳が輝いていた。勇作は由美から自分のハンカチを返してもらうと、涙で濡れた由美の顔を優しく拭いてあげたのだった。
その日の夜‥というか、正確には次の日曜日の未明だった。勇作は深夜放送を聞きながら、大好きな作家の小説のハードカバーを読んでいた。内容がクライマックスに入ろうとした時にメールの着信音がした。
「誰だ? 今頃‥」
勇作はポケットから携帯電話を出した。他の生徒から「ガラ携」と言われ、馬鹿にされる旧式の折りたたみ式の携帯だった。「スマホにしちゃえば?」と由美も言っていた。でも、勇作は頑なに携帯を換えようとはしなかった。だってその携帯は中学の卒業の祝いに由美に選んでもらった携帯だったから‥「絶対にこれ! 勇作によく似合うもん! しかも色違いで私のとお揃いよ!」‥勇作は携帯電話を見ながら一瞬、そんなことを考えていたが、メールを確認した。「由美からだ!」とその直後、勇作は本文を読んで凍りついてしまった。
「死ニタイ‥」
一瞬「えっ?」と思ったが、次の瞬間には返信していた。
「今ドコ?」
「家ノ前ノ公園‥」
「スグ行ク」
次の瞬間。頭の中でストップウォッチがスタートされたような感覚になった。三十秒で服を着替え、二十五秒で親に気づかれないように家を出て十五秒で自転車の音をさせないようにして外に出し、次の瞬間には由美のマンションに向かって猛烈なスピードで自転車を走らせた。チェーンがガチャガチャと音を立てたが向こうに着くまでに壊れなければ、それでいいと勇作は思った。昼間は信号が多くて何度も停車しなければならないが、この時間になると殆どが点滅に変わっていたので、昼間なら二十分ぐらいかかるところが、今夜は十分弱で目的地に着いた。勇作は自転車を降りて手で押しながら、マンションの前の公園の中で由美を探した。由美は滑り台の降りるところに下を向いたまま座り込んでいた。
「由美‥」
勇作は自転車をブランコの側に停めてから由美がいる滑り台の方へ向かって歩き出した。勇作の声に気がついたのか由美はゆっくりと顔をあげてこちらを見たが、すぐにまたうなだれるように下を向いた。勇作はそれでも決して走らないで歩いて由美の側まで行った。勇作の靴が自分の視界に入ると由美は初めてのように勇作の顔を見上げた。その両方の瞳は涙で潤んでいた。勇作はもう一度「由美」と言い。両手を軽く広げた。
「勇作‥」
由美は映画のスローモーションのように、ゆっくりと立ち上がった。我慢していた涙が溢れ出た。勇作はちょっと強めに由美を抱いた。由美は勇作の胸の中でまるで夜泣きしている赤ちゃんのように泣いた。
「何があったの?」
「真壁君が‥真壁君が‥」
由美はそう繰り返すだけだった。勇作は「泣きたいだけ、泣いていいんだよ?」と由美の背中をさすった。「ずっとそうだったな‥今までも、由美が誰かにフラれるたびに僕の胸で泣いていたな‥」そう思いながら勇作は腕時計を見た。午前一時四十五分だった。立春は過ぎたとは言え、真夜中の公園は寒さの底の中のような気がした。もちろん、こんな時間に公園を散歩するような人はいない。二人の邪魔をするように、季節風が木々を揺らせていた。「寒っ!」と思った勇作は更に由美を抱く手に力をこめた。由美の香りが少しくすぐったかったけれど‥
そうやって二十分ぐらい泣いていた由美は勇作の胸の中で、「ごめんなさい‥」と呟いた。勇作は腕を緩めてから外し、由美の両肩に手を置いてゆっくり話し始めた。
「何があったの? 真壁と‥」
「うん。あのね‥」
二人は近くにあったベンチに並んで座り、由美がポツリポツリと話し始めた。勇作の右肩に頭をもたげながら‥
試合は結局二十対一でN高の圧勝で終わった。しかし完封負けではなかったので、G高の大応援団はそれなりに満足して帰って行った。由美は心配する勇作に「一人で大丈夫だから‥」と一人球場に残ってN高のナインが出てくるのを関係者出入り口で待っていた。由美がしばらく待っていると、N高の野球部員が顧問に連れられて出てきた。「真壁君は?」と部員の顔を一人ずつ確認していると、一番最後に真壁誠が少し俯きながら出てきた。
「真壁君‥」
と由美が声をかけると、誠は一瞬由美の顔を見たが、再びうな垂れて由美を無視して帰ろうと歩き始めた。
「真壁君!」
もう一度、今度ははっきりと誠に聞こえるように言った。すると誠は立ち止まって、振り返って由美を睨みつけた。それから、怒鳴るように大きな声で、由美に言った。
「うるせえな! G高代表で俺を笑いに来たのか?」
「違うわ‥私は、私はただ‥」
「ただ? ただ、何だよ?」
「ただ、真壁君に頑張って欲しくて‥」
「何を頑張るんだよ? G高だったら完全試合だって当然だったんだぞ! 今日だって、ノーヒットノーラン寸前まできてたのに‥完封さえできなかったんだぞ! ‥畜生!」
「悔しかったよね?」
「G高の奴に何が分かるんだ!」
「私は‥確かにG高だけど‥ 真壁君だけを応援していたわ!」
「G高の奴とは話したくもないんだよ。君といるだけで吐き気がしてくるんだ!」
「そんなぁ! 真壁君、あんまりよ!」
「とにかく一人にしておいてくれ。‥帰れ!」
「だって、試合が終わったらUSJに一緒に行くって‥」
「USJ? 勝手に一人で行んだな!」
「真壁君、それって本気で言ってんの?」
「じゃぁな‥」
「真壁君‥」
誠は背中を向けて歩き出した。一度も振り返ることもなく‥
「‥で、それから?」
勇作は右腕で由美の左肩を抱きながら聞いた。
「‥覚えてない。気がついたらここにいた‥」
「マジ~? お前、家にも帰ってないのかぁ?」
由美は小さく頷いた。勇作は焦って時計を見ると午前三時になろうとしていた。由美が手に持っていたスマホには、着信履歴が何件も。「多分自宅からだろう‥」と勇作は思った。
「よし。その先のことは、今度話そう。‥とりあえず今日は、家に帰ろう?」
勇作は立ち上がり、由美に手を差し出した。由美も左手を出して手をつないで立ち上がった。「ママ‥怒っているよね」と俯きながら由美が言うと、「心配すんな。俺がちゃんと説明してやるよ」と優しく包み込むように勇作が言った。真夜中のマンションは巨大な怪物のように見えた。二人は手をつないでゆっくりマンションの中に入って行った。七階の由美の家の前で勇作がドアチャイムを鳴らすと数秒後に由美の母親がドアを開けた。明らかに疲れきった顔だった。
「‥勇作君?」
「こんばんは‥」
由美の母親は勇作の後ろに立っていた由美に気がついた。
「由美ちゃん!」
「ママ!」
由美が母親に抱きついた。由美はまた泣き出した。
「勇作君、一体何があったの‥?」
「事情は後で話しますから‥とりあえず寝かせた方がいいかと‥」
勇作は母親にしがみついて幼児のように泣きじゃくっている由美を指差した。「それもそうよね?」と母親は由美を連れて中に入り、由美の部屋で彼女をあやすようにして着替えをさせて寝かしつけてから、勇作が待っているリビングへ戻ってきた。勇作がそれまでの事情と今日の出来事を簡単に話すと母親はやっと納得したようだった。
「‥そうだったの。‥本当に親に心配ばっかりかける娘だわ。でも、勇作君が一緒で本当に良かったわ」
「僕はいっつも敗戦処理投手ですから‥」
「今までもずっとでしょう? 悪いわね。」
「幼馴染の宿命ですかね?」
「本当に困った娘だわ。どうせなら、あの子も勇作君みたいな人を好きになればいいのにな‥」
「まぁ、それは由美ちゃん自身の問題ですから‥」
「本当にごめんなさいね?」
「大丈夫です。‥それより由美をよろしくお願いします」
「うん。後は任せておいてね。勇作君は大丈夫?‥こんな真夜中に‥」
「はい。僕なら大丈夫です!」
勇作がマンションから出た時はもう朝の五時を過ぎていた。勇作は公園に置いたままの自転車のところまで戻り、乗らずにハンドルを押して歩きながら家路についた。ラジオでは早朝の番組をやっているはずだが、季節柄まだ真っ暗な夜の延長だった。
「よく死なずにいてくれたね‥」と勇作は歩きながら由美のことを考えた。今までも由美は失恋するたびに勇作を頼ったが、今回のように相手から徹底的に自分を否定されたことは一度もなかったからだ。自分だったら死んでいたかもしれない、勇作はそう思った。けれど、彼女は勇作を待っていてくれた‥
「‥由美が俺を?」
勇作は首を振り、自分の中の何かを自分で否定した。由美のマンションから自宅まで歩くと意外にその遠さが分かる。少しずつ空が青くなり、一時間以上かかって自宅に戻った。自分の部屋へ入ろうとすると、早起きの母が「今朝は早いのね? どこかに行っていたの?」と声をかけてきた。
「ちょっと真夜中の散歩‥」
そう言うと、勇作は急に眠気が全身を包み、そのままベッドに倒れこむように眠ってしまった。考えることは、たくさんあるような気がしたのだけれど、「‥とりあえず今は眠ろう」風邪をひかないように、布団にくるまった。
お昼近くになって携帯のアラームが鳴っていた。ディスプレイには「綾香と映画、B駅前広場」と記されていた。
「やっべ!」
眠気が一気に醒めて、顔を洗って財布をジーンズのポケットに入れて何も食べないで家をでた。
「まったく、朝早く起きたと思ったら、昼近くに出て行くんだから‥」勇作の母は、両手を上げて、「意味不明」という格好をした。勇作に何があったのか何も分からなかったのだ。後で由美の母親からお礼の電話をもらうまで‥
勇作はまた自転車を全速力でこいでB駅前広場に向かった。約束の時間を三十分も遅れていた。「吉沢の奴、怒ってるだろうな?‥もう帰ったかな?」頭の中は謝る言い訳を考え続けていたが、結局うまい言い訳も思いつかないままに駅前広場に到着した。
「ご、ごめんな!」
「珍しいじゃない。いつも時間にだけは正確な森田君にしては、遅刻だなんて‥」
綾香は広場の中心にある噴水の側で待っていた。
「言い訳はしない。全面的に俺が悪い!」
勇作があまりに素直に頭を下げたので、綾香はそれ以上文句の言葉が出てこなかった。
「今なら、まだ二回目の上映に間に合うわ!」
‥と綾香は勇作の手を引いて歩き出した。勇作はてっきりM市の方まで出るんだと思っていたので、駅の方とは違う繁華街の方へ向かって歩き出す。綾香に声をかけた。
「おい、吉沢。M市に行くんじゃないの?」
「本町のシネコンで今日からやってるのよ。古い映画だもん‥」
綾香は歩きながら説明をしてくれたが、勇作の頭の中には映画の題名さえも残っていなかった。「でも、約束したのは俺だもんな?」と勇作は不平も言わず。二人分の料金を払って繁華街入り口にあるシネマコンプレックスの階段を上った。公開初日ということもあって、意外に客は多かった。以前由美とディズニーの映画を観に来た時は、客がほとんどいなかった。
幸い中央の中ほどの席が二つ、まるで用意されていたように空いていたので、勇作と綾香は並んで座れた。やがてブザーが鳴り、映写幕を覆っていたカーテンが開き、様々な映画予告やCM画像の後で本編が始まった。それは、何年か前の映画で無声映画の時代からトーキーの時代へ変わっていく時代の役者の物語だった。字幕をいちいち追わなくても雰囲気でわかるような内容だった。勇作は椅子に深く座っていると映画館の暖房のせいで眠気を感じたが、同時に空腹感も襲ってきた。考えてみたら、昨夜の夕食以後何も食べていなかったことに気がついた。眠いし食べたいし、勇作は二つの欲望を必死に我慢していた。だから、映画どころではなかった。「こんな時は、別のことを考えるんだ!」そう思った勇作は、何か考えることはないか考えた。そうすると、昨夜の真夜中、自分の胸で泣きじゃくっていた無邪気な由美の顔が頭に充満してきた。「由美!」勇作は心の中で叫び、現実世界では左隣に座っている綾香の右手を握っていた。その右手には包帯が巻かれていた。しかし勇作には、その手が由美の手に思えた。「‥そうか、由美。君は自殺しようとしたんだね?」と呟いた。「ごめんね」由美がベッドの上で涙目をしながら微笑んだ。
「‥‥」
「森田君?」
「ええっ?」
「終わったよ」
「終わった? 何が終わったの?」
気がつくとそこはさっきまでいた映画館だった。隣で手を握っていたのは、由美ではなく綾香だった‥
「ごめん‥寝てた?」
「はい。熟睡されていましたわ」
「ごめん‥怒ってる?」
「別に‥それより‥」
「それより何だい?」
「離して欲しいの、手」
「えっ? あぁ‥」
勇作は慌てて綾香の右手から離した。綾香の右手には包帯が巻かれていた。
「吉沢お前‥?」
「金曜日に言ったでしょう?‥体育の時間にバレーをやってて、右指を二本突き指したって‥」
「あぁ‥ 思い出したよ。痛かった?」
「強く握るから激痛が走ったわよ!」
「本当に、ごめん!」
「いいわ。さぁ、もう行きましょう」
「行くって何処に?」
「もう! 一緒に食事するって約束も忘れたの?」
「いいや。‥実は俺昨夜から何も食ってないんだ」
「じゃぁ、何でもいいわね?」
それから二人で映画館を出て五階建てのビルの四階にあるインド料理の店に入った。香辛料の匂いが空腹感を増大させたので、勇作は注文を取りに来た店員に「一番早くできるもの!」って頼んだ。勇作と店員のやり取りを見ていた綾香が声をあげて笑いだした。「何が可笑しいの?」と勇作が聞いても綾香は答えずに笑っていた。出てきた料理を味わうという余裕もなく、勇作は食べた。完食して綾香を見たら、まだスープを飲んでいた。
勇作は食べるだけ食べたので、やっと心に余裕ができた。
「さっきは、本当にごめんね。右手痛くない?」
「誰と間違えたのかは知らないけど、‥私じゃないってことだけは分かったわ」
「うん‥実は由美が‥自殺したいって‥」
「高橋さんが‥自殺?」
勇作は昨日から今朝までのことを大まかに綾香に話した。もちろん、由美が勇作の胸で二十分も泣いていたことは内緒にしておいたが‥ 綾香は二人が幼馴染だということを知っていた。中学からの仲で、三人一緒でカラオケに行ったり、ボーリングをしたりしていたからだ。綾香は由美にとって勇作以外に何でも話せる同性の友だちだったと言えるかもしれない。綾香が勇作に告白するまでは‥ それまで「綾香」「由美」と呼び合っていた二人が、「吉沢さん」「高橋さん」と呼び合うようになってしまったのだ。超文系の由美とは対照的に医学部を目指している綾香は超理系だった。どちらでもない勇作が二人の接着剤みたいな役割をしていたのだが、思いつくと即行動する由美と、じっくり考えてから慎重に行動する綾香。「どっちが好き?」なんて聞かれて答えられるはずもない勇作に深い思いを寄せていた綾香が中三の夏休みに告白して以来、三人の仲の歯車がうまくかみ合わないようになってしまったのだ。
「じゃぁ、映画の間もずうっと高橋さんのことを考えていたの?」
「いいや、眠気と空腹感をまぎらわしてただけだよ?」
「本当に?」
「あぁ、本当さ‥」
「どうだか‥ 今日の貴方は少し違って見えるわ」
「どんなふうに?」
「さぁ? ‥なんとなく、かな?」
「中途半端に寝たからね」
「それは、いつもでしょう?」
「こらっ!」
「ハハハ‥」
綾香は、勇作を「貴方」と呼ぶ。男子の誰に対してもそうだが、決して勇作の名を呼んだり、ましてや呼び捨てにしたりはしない。そのことが嫌ではなかったが、なんとなくくすぐったい気持ちだった。昔は「勇作君」って言ってくれてたのに‥ 由美との三人の関係がおかしくなってから、綾香は勇作のことを「貴方」としか呼ばなくなったのだ。それから二人は他愛ない話をしながら、いわゆる「デート」を楽しんだ。食事の後、本屋で受験用の問題集などを買ったり喫茶店でコーヒーを飲んだりして、時間はあっけなく過ぎていった。そろそろ帰る時間になったのでバス停まで綾香を送っていくつもりで二人はバス停まで行ったが、バスは出た直後だったらしく。誰もいない。
「‥どうする?」
「そうねぇ‥ 歩いて帰るっていう選択肢は間違っている?」
「いいや、君がそれでいいなら送って行くよ?」
「じゃぁ‥」
と二人は再び駅前広場の自転車置き場に戻り、並んで歩き出した。勇作は綾香が本屋で買った問題集が重そうだったので、「貸せよ」と自転車の前かごに入れた。「ありがと」と綾香は微笑み昔のように首を少し左側に傾けた。勇作は、綾香の微笑みを久しぶりに見たような気がした。綾香は勇作の押している自転車を見て、不意にあることを思い出した。
「ねぇ、森田君‥貴方は、私が言ったことを気にして、まだ新聞配達のバイトをやめないの?」
「えっ、君が言ったこと? なんだっけ?」
「ほら、この自転車‥」
「あぁ‥」
勇作は中二の頃のことを思い出した。確か、あの頃新型のマウンテンバイクが売り出されて、それが欲しくてたまらなかった。両親にお願いしたが聞いてもらえず、拗ねて家出をしてしまったのだ。‥家出と言っても自宅の近くの公園に秘密基地のように、土管の中に隠れていた。そのことを勇作の母親から聞いた由美と綾香が、公園まで勇作を説得にきたのだ。
「お年玉を貯めて買えばいいのよ‥」
と由美は慰めたが、綾香はきっぱりと勇作の甘えを非難した。
「そんなに欲しけりゃ、自分で買えば!」
「えっ?」
「バイトでも、何でもして欲しい物は自分で手に入れればいいのよ!」
「分かったよ! 自分で買えばいいんだろう?」
勇作の六時間だけの家出は綾香の厳しい一言で無事に解決した。やがて勇作はクリスマスプレゼントで欲しかった自転車を手に入れたが、G高に入ってから両親に宣言した。
「今日から新聞配達のバイトをするから、小遣いはいらない!」
中学生のアルバイトは禁止されていたが、G高では理由があればバイトはOKだったのだ。綾香は「あの時はごめん。仕方なかったのよ」と謝ったが、勇作は綾香の言葉にも耳を貸さず、勝手にバイトを始めたのだった。
「新聞配達ってさぁ。結構いい運動になるんだよ?」
「本当?」
「うん。団地の五階までの往復はかなりハードなトレーニングになるんだよ。‥君が辞めろって言っても高三の夏までは続けるつもりさ! まぁ、部活がたまたま新聞配達だったってことかな。給料も貰えて一石二鳥ってことさ!」
「それならいいけど‥」
「でも、綾香のあの時の言葉は妙に説得力があったなぁ‥」
「二人とも必死だったもの‥私も由、あぁ高橋さんも‥」
「家出ったって公園の土管だぜ?」
「フフフ、今考えたら笑い話よね」
二人は緑地公園の側の道を並んで歩いていた。すると急に綾香が足を止めて勇作の腕をつかんだ。少し驚くように綾香を見た。
「何だい?」
「公園の中に池あったよね?」
「うん」
「‥寄っていかない?」
「‥俺はいいけど、時間が‥」
「まだ大丈夫よ!」
綾香は先に公園の中に入って行った。仕方なく勇作も後について歩いた。公園は市が整備した緑地になっていて中央に中ぐらいの池があった。今は季節柄誰もいなかったが、春から秋までは、若い恋人たちの格好のデートスポットだった。綾香はしばらく緑地の梅の木などを見ていたが、まだ咲くには寒すぎるようだった。それから池が見えるベンチに腰掛けた。
「‥ねぇ、こっち!」
綾香は少しイラつくように言って勇作を隣に招いた。勇作は自転車を停めてベンチの綾香の隣に座った。「今日は公園に縁がある日だな‥」と勇作は思った。真夜中に由美と、そして今は綾香と‥ 本当は仲良し三人組だったのに‥ 「どうして、こんなふうになってしまったんだろう?」勇作は考え続けた。自分がヤジロベイの中心にいればよかったのに、と後悔した。だが、それも綾香の告白によってバランスが崩れてしまったんだ。
「俺は確かに由美も‥」と思った時、急に無邪気な笑顔が今にも死にそうに苦しむ顔に変わっていった。「自殺?」という言葉が頭の中で何度もリフレインされていった。確かに今日の真夜中彼女は生きていた。自分を待ってくれていた。「でも‥」勇作の頭の中は悪い方へ悪い方へと暴走するんだった。
そうやって長い沈黙が続いた。辺りは少しずつ光を失っていき、代わりに街灯に明るさを渡そうとしていた。綾香が心の中のイラつきをぐっと押さえて呟いた。
「ねぇ‥?」
「‥‥」
「‥いいよ」
「‥‥」
「ねぇってば!」
「ええっ! 何?」
綾香はキッとなって、突然立ち上がって怒り出した。
「貴方って、本当にデリカシーがない人ね! 若い男女がデートに行って、帰りに暗くなりかけた公園のベンチで‥やることって一つしかないでしょ? それも私が、いいよって言っているのに‥!」
勇作はまったく別のことを考えていたので、一瞬綾香が何を怒っているのか分からなかった。「‥ごめん。他のこと考えていた」と返すしかできなかった。しかし、勇作のその言葉に綾香は更に語気を強めて言った。叫んだと言ってもいい。
「どうして? どうして、お前が好きだ。俺の側にいてくれ、由美、お前が好きなんだって言えないの!」
「綾香‥」
「初めて会った日から、分かっていたわ! ず~っと好きだったんでしょう、由美が?」
「うん でも、由美が‥」
「由美もず~っと勇作のことが好きだったのよ! 気づかなかったの?」
「だって由美は‥」
「由美から言われたの、勇作君に告白した時にね?」
「なんて?」
「私の勇作を返してって‥」
「‥で、君は?」
「好きなら自分で取り返しなさいって言ってやったわ」
「好きなら自分で‥」
「私は貴方たちの愛のLadderなわけ?」
「ラダァ‥何それ?」
「教えて! 私は一体何なのよ! アホらし‥ もう私帰るわ! 送ってもらわなくても結構よっ!」
綾香はそう言い勇作の自転車の前かごから、自分が受験するつもりの医学部の予想問題集が入っている袋を手にさっさと歩き出した。時計を見たら、もう六時を過ぎていた。やっぱり綾香を送ろうかと思ったが、そんなことをしたら本当に綾香が怒るだろうし、寧ろ彼女を傷つけるような気がしてやめた。
「私の勇作を返して、か‥」
その言葉が勇作の頭の中で何度も繰り返された。「好きなら自分で取り返しなさい」という綾香の言葉も渦の中に入ってきた。しばらくの間勇作はその場を離れることができなかった。ヤジロベイの中心だなんて自分の考えの甘さにげんなりしていた。そういう意味で綾香の方がずっと大人だったなと思った。
やがて勇作は携帯を出して短縮番号を押した。長い発信音の後で相手が出た。
「あっ、俺。‥まだ生きていたか?」
その後しばらくの間、寒いのを我慢しながら勇作は電話を切らなかった。長い電話が続いた。
綾香は、自分の胸の中にずっとあったモヤモヤがやっと晴れたような気がして一人暗い道を歩いていた。確かに女子高生が一人で歩くには街灯と街灯の間のほんの数メートルだが、暗がりだったが、勇作に送ってもらうのは惨め過ぎたし、自分の信念をもって一人で歩くことを選んだんだから、間違ってはいないと思っていた。自宅まで後五つの街灯のところまで来た時だった。後ろから如何にも改造したと思われるミニバイクの爆音が近づいてきた。それが急に綾香の側でスピードを上げて止まったので、綾香は避けようとし道に倒れこんでしまった。荷物などが辺りに散乱した。
「危ないじゃんか、気をつけないと!」
ミニバイクの若い男が言った。綾香は男を無視して荷物などを拾おうとした。だが男はヘラヘラ笑いながら言った。
「事故ったら、こっちの罪になんだぜ! おい、謝れよ!」
綾香が更に無視していると男はバイクを停めてこっちへやってきて綾香の腕を掴もうとした。
「やめてっ!」
男は、嫌がる綾香の身体に手をかけようとした。その時‥
「何やってんねん?」
図太い別の男の声がした。綾香にちょっかいをかけようとしていた男は、後ろからきたユニホーム姿の男の顔を見て驚いたように叫んだ。
「お前‥N高の真壁か?」
「確かに、僕はN高の真壁だが、君は一体何をやっているんだ?」
「畜生っ!」
そう言うと男は綾香から離れて逃げるようにミニバイクでその場を去った。「真壁」と呼ばれた男は綾香の荷物を拾って袋に入れた。参考書を見て驚いたように言った。
「医学部を受験されるんですか?」
「ええ、そのつもりです。親の跡継ぎで‥」
「凄いなぁ! ‥僕なんか野球しかなくて」
「それは、それで立派だと思うけど、‥何故あの男は貴方を見て逃げたのかしら?」
「僕に関わるとマスコミがうるさいとでも思ったんでしょう」
ふとその女の子の生徒手帳も拾って声をかけた。
「G高‥君、G高なの?」
「ええ」
「あっ、失礼。僕はN高の真壁誠って言います。」
「この市内なら、誰でも知っていますよ。‥多分。」
「G高なら、二年B組の高橋さんって分かりますか?」
「えっ‥ええ。一応、由美の知り合いですから‥」
「だったら、明日、N高の真壁誠が頭を下げて謝っていたと伝えてくださいませんか?」
「由美と何かあったんですか?」
綾香は、勇作から聞いていたのを承知の上で真壁に聞いた。
「自分に対する怒りを、彼女にぶつけてしまいました。きっと深く傷つけたと思います。‥あの後監督にも『今日の試合は、お前の一人相撲だったな?』と注意されました‥」
誠は真剣な顔で言った。「意外と男らしいじゃん」と綾香は思った。
「あぁ、それなら心配しないでください。彼女には‥由美には、どんな災難や災害が襲ってきても守ってくれる核シェルターみたいな男がいますから‥」
「でも、僕は男として‥」
「大丈夫ですって。由美の本命は核シェルターですから‥」
「いっつもそうなんです。後一球で勝てるって思うと身体が言うことを聞かなくなって、緊張して失敗してしまうんです。甲子園でも、土壇場でミスをしてしまうんです‥」
「‥まだ、私たちって高校生なのよ。自分の弱さや未熟さを補うための核シェルターみたいなものが必要なのよ」
綾香の言葉を聞いてやっと誠に笑みが零れた。それから綾香の足を見て、「足‥痛めましたか?」と言った。
「いえ、軽い捻挫です」
「いけません。捻挫を甘くみては‥ 家はどこですか?」
「ほら。あそこに見えている『吉沢クリニック』です、本当に近いですから‥」
‥と綾香は立ち上がって歩こうとしたが、少しよろけた。それをさっと左腕で誠は支えた。
「家まで背負いますよ?」と綾香に大きな背中を見せた。綾香は素直に身を預けた。誠の背中に負ぶさりながら歩く誠の背中に綾香は話しかけた。
「あのぅ‥真壁さん?」
「はい?」
「今、付き合っている彼女はいるんですか?」
「いえ、ですから高橋さんと別れたばかりで‥」
「‥あのぅ、もしもですよ。医学部の女学生なんて興味ないですかぁ?」
「僕にアプローチするつもりなら、やめておいた方がいいですよ?」
「どうして?」
「‥分かるでしょう? 僕は身勝手で意志の弱い男です」
「私は、由美のように、自分で勝手に恋に溺れたりしません。核シェルターは無理かもしれないけど、サンドバッグぐらいにならなれるわよ?」
「サンドバッグ‥ですか?」
「貴方の悲しみや弱い部分をいつでも受け止めてあげてもいいわよ?」
「じゃぁ、僕なんかの直球もコントロールしていただけるんですか?」
「えぇ‥なんなら、貴方の個人ドクターになってもいいわよ?」
誠は一瞬言葉が出なかった。それから背中の綾香の重みを感じながら言葉を選んでゆっくり言った。
「ちょっと‥嬉しいです」
綾香は「今しかない」とたたみこんだ。
「‥真壁君?」
「何ですか?」
「私は由美ほど可愛いくないけど、貴方の弱さや脆さも含めて‥全~部守ってあげたいの!」
「正直に白状すると、僕は今まで親や監督、そしてメンバーやマスコミから期待され続けて生きてました。本当は自信がないのに‥昨日の試合もスカウトのために投げていたような気がします」
「本当は辛かったのね。期待が大き過ぎて‥」
「自分の弱さを見せたのは‥多分、貴方が初めてです」
「貴方のこと」
「何ですか?」
「誠さん‥って呼んでもいいかしら?」
誠は、さっき会ったばかりの女子からいきなりそんなことを言われて、困ってしまったのだが背中の女性に「‥はい」と頬を赤く染めながら言ったのだった。この女性になら、自分の本当の姿を見せられるような気がしたので‥
月曜日は、毎週必ずやってくる。祝日や代休でもない限り、嫌でも必ず誰にでも‥ その日も勇作はいつも以上に疲れていたが、愛車のマウンテンバイクを走らせていた。時計を気にしていたのは、昨夜少し夜中まで起きていて寝不足で寝坊したせいだった。
理由を挙げるのは、簡単だった。前の日の日曜日の夕方から公園で由美との長電話をすませて、帰ってから夕食や風呂を済ませて寝ようと思ったところへ今度は由美から長い電話があり、土日と生活パターンからの乱れた生活をしていたので、余計にリズムが狂っていたんだろう。ただ、勇作の顔には迷いや不安のようなものは見られなかった。
「今日こそは由美に‥」
勇作は、自分から由美に告白するつもりだった。今日の昼休みに屋上へ来て欲しいことは、昨夜の電話で由美に伝えてあった。だから、その時に素直に自分の気持ちを伝えることにしていた。頭の中で何度も練習していたから、由美もきっと分かってくれるだろう。
勇作が、校門をくぐって自転車置き場に着いた時、そこに綾香が立っていた。勇作はさっきまでの自信に満ちた気分が急に落ち込んでいくのを感じた。だが、綾香は昨日のことなどはすっかり忘れていたように、笑顔で勇作に話しかけた。
「おはよう勇作君!」
「あっ‥あぁ、おはよう」
「自信はついたの?」
「自信‥何の?」
「今日、由美に告白するんでしょう?」
「えっ? ‥まぁ」
「頑張ってね、勇作君!」
「うん‥」
「こらっ! しっかりしろ、勇作!」
「何でだよ?」
「何が?」
「今日は何で貴方じゃないんだよ?」
「フフフ、なんとなくよ!」
そう言うと綾香は教室の方へ戻りかけて、振り返った。
「あっ、そうだ。由美に伝言!」
「何?」
「真壁君が頭を下げて謝っていたって伝えておいて!」
「真壁が?」
「自分に対する怒りを彼女にぶつけたことをすっごく後悔していたわ。由美を傷つけたんじゃないかって‥」
「真壁が?」
「うん‥ それと、関係ないけど、一応勇作君に報告しておくわ。‥私、真壁君と付き合うことにしたから!」
「えっ! お前が真壁と?」
「うん! ‥じゃぁ、勇作君も頑張ってね。ずっと応援しているから‥」
「あぁ! もう迷わないよ!」
綾香は勇作に背を向けてルンルンと歩いて行った。勇作は綾香の後姿を見送りながら微笑んだ。
いつものように昼食を屋上で食べた勇作は、穏やかな気分で由美が来るのを待っていた。由美は意外に早く屋上へ来てくれた。二人は並んでフェンスにもたれていた。「今だ! 今だ!」と勇作は鼓動が早くなるのを感じながら由美の方を見た。
「あのさ!」「あのさ!」
二人同時に声を出した。「何だい?」と勇作が由美に言うと、「勇作の方こそ、何よ?」と由美も聞いてきた。
「そっちが先に言えよ」
勇作にそう言われて、由美は俯きながら言った。
「昨日の夜考えていたんだけど、ずっとMなのよねぇ‥」
「何が?」
「私が好きになった人のイニシャル」
「イニシャル? あぁ、土曜日までの真壁に、その前は剣道部の三浦、中三の時はバスケ部の村田‥」
「陸上部の目黒君ってのもいたし‥」
「本当だ! すごい偶然だな。確かにイニシャルがみんなMだな」
「でしょう。これって偶然かなぁ?」
「さぁ? 由美がSなだけなんじゃないの?」
「何? Sって?」
「あぁ、分からなければいいよ」
「何よ?」
「つまらないジョークさ‥ それより‥ 昨日真壁が頭を下げて由美に謝っていたらしいよ‥」
「何で?」
「自分に対する怒りを全部お前にぶつけてしまって、傷つけたことを後悔しているらしい。綾香が言ってた。案外いい奴じゃん、真壁‥」
「‥でも、私は赦せない! ねぇ、勇作?」
「何?」
「私をどこかへ連れて行って!」
「どこかって?」
「誰もいなくて、広いところ‥大きな声で叫びたいの」
「何て叫ぶの?」
「真壁誠の馬鹿~!」
「あぁ‥」
「ねぇ。すっきりすると思わない?」
「そうだな」
「‥ところで、勇作の話って何?」
「うん‥ あのさぁ」
キ~ン~コ~ン~カ~ン~コ~ン
勇作が言いかけた時に昼休みの終わりのチャイムが鳴った。
「いっけな~い! 私今日、日直だったわ! すぐに行かなきゃ!」
「だから‥あのね」
「ごめん‥ 後で聞く!」
出口へ急ぐ由美の背中を見送りながら、ため息をついた。
「俺も森田‥Mなのに‥」
絶好の告白日和だったのに‥
次の日曜日、二人は電車に乗っていた。由美にせがまれて冬の海にいく予定になっていた。夏場は大勢の海水浴客で混雑している砂浜だ。電車はのんびりと少し揺れながらトロトロと先を目指していた。
「ねぇ、あの日、勇作は何を言いたかったの?」
「別に‥ たいしたことじゃないよ」
車窓にはだんだん田舎びた風景がゆっくり流れていた。後一時間もすれば海に近い駅に着くはずだった。「告白は海に着いてから‥」と勇作は思っていた。
「まだ、怒ってんの?」
「‥何が?」
「いや、真壁のこと、まだ怒ってんの?」
「どうして?」
「綾香がさぁ。真壁と付き合っているらしいよ」
「ええっ? 綾香が真壁君と!」
「な、驚くだろう?」
「うん‥」
その後、由美は黙って何か考ええているみたいだった。勇作も黙って窓の外の景色を見ていた。電車には、客も疎らだった。そもそも、こんな寒い季節に海に行く人なんて少ないはずだった。やがて電車は速度を落として海に近い駅を車掌がアナウンスした。二人は駅を出て黙って海の見渡せる海岸の方へ歩いて行った。
冬の海岸には予想通り誰もいなかった。空も少し曇っていて、寒さに震えそうになった。勇作は由美を促し、「思い切り叫ぶといいよ」と言った。
由美は両手を上に上げて伸びをしてから海岸に向かった。それから大きく深呼吸すると、こう叫んだのだ。
「森田勇作の馬鹿~!」
「えっ?」
「私をマチュピチュに連れて行きなさ~い!」
「由美‥」
振り返った由美はいつもの無邪気な笑顔だった。
「ずっと、ず~っと由美が大好きだったんだ~!」
そう叫ぶと、勇作は思いっ切り由美を強く抱きしめた。
「ごめんね。君の気持ちを分かってあげられなくて‥」
「こういう時は、黙って私を抱いてくれてたらいいのよ」
「由美‥」
勇作は由美を抱きしめながら「もう離さない!」と心の中で強く、強く誓った。「いつまでも、いつまでも二人一緒でいられますように」と願いながら‥
やがて二人は、海を眺めながら砂浜に並んで座った。
「‥夏になったらさぁ?」
「うん?」
「ここに海水浴に来ない?」
「いいけど?」
「綾香と真壁君も誘ってみんなで‥」
「じゃぁ、夏の甲子園が終わってからだね?」
「うん‥!」
「楽しいだろうな‥」
「森田勇作‥」
「何?」
「‥私の最初で最後のMね?」
「最初で最後のMか‥」
しばらくして、突然由美が顔を上げて、目を丸くしながらいたずらっぽく勇作の顔を見てこう言ったのだった。
「ちなみに、私はSなんかじゃ、ありませんから‥ね?」
「ええっ?」
「貴方もSとMじゃ嫌でしょう?」
振り向いた由美の笑顔はいじらしいほどに可愛かった。そして、世界中できっと誰よりも一番好きなんだろうなと勇作は確信していた。
(了)