11. 死神と獅子は歩く
ハルクに別れを告げたエリスは、ユーラーラのダウンタウンへと足を向けていた。たとえ宗教的中立区であり、レルアバドの御膝元と言えど、やはり戦場である事は変わらない。その事の証拠に薄暗い雰囲気の娼館が立ち並ぶ姿はどこか退廃的だ。
しかしとエリスは思う。この退廃的な空間には、そこまでの闇の深さは無い。明日を知らずに薬に溺れ、体を売るような男女の姿もなく、健全と言っていいのかはわからないが、少なくとも今まで見てきた悲惨なものよりは、数段マシで、穏やかな雰囲気がここにはあった。
それもそのはずだと、不意に思い出す。こういった場所に、やってくる者達の全てが、身体を売り買いするだけでは無いのだから。
大なり小なり、戦闘後に娼館へと足を伸ばす人は多い。だがここは色町としての役割の他にも単純に酒場通りとしての機能も備えているのだろう。だからこそ、ここには穏やかな空気が流れている。幸いにも現在は昼。そういう店はもう少し日が落ちてから開くのが常だ。だとすれば。
エリスは周囲に視線を巡らせる。そう。こういった場所には必ずアレがある。
エリスは周囲を散策するように裏路地へと足を向ける。人目を避けるように奥へ進むごとに店は無くなり、生活臭が強くなってくる。この暗がりの中にも様々な人々が暮らしている。けして裕福とは呼べない、むしろその日暮らしに近い彼らの営みがちらほらと見える。
彼女が何度がの角を曲がったところで、目的のそれが見えた。
それは小さな教会だった。レンガ造りのそれは西洋のもので、キリスト教のものであることは間違いない。教義的にはプロテスタントか正教か、モルモン教ではないだろうと当たりをつけ、古い木戸を押し開けた。
イエスの磔刑を象ったステンドグラスから差し込む光が、十字架とマリア像を穏やかに照らしている。そこでエリスはやはりと頷く。ここは懺悔の場だと。また生まれてくる命に祝福を与える場だと。
宗教的中立区の色町には、こういった色合いの教会が多い。望まずして身ごもった子を堕胎したり、また産み落としたりと、娼婦となった女性は時に懺悔や祝福を求めて訪れる。場合によっては、育てることが困難な子供を預けることもする。つまりこの教会はそういう場所だ。
ラタナの居場所は想定がついていた。戦闘後の異常な興奮を鎮めるためか、または祈りを捧げるためか、そのどちらかしかなかった。前者を真っ先に思い付いたのは、周りにそういった男性陣が多かったからだし、女性でもそういったものが多かったからだ。
ラタナ自身には、すでにパートナーがいる事を失念していたのは、どうにも自分も神経が過敏になっている証拠だと、内心ため息をついた。
そして礼拝堂の最前列に彼女はいた。くせ毛の黒髪を下した彼女は懸命に何かを祈っていた。
「ラタナ」
エリスが声をかけると、ハッとした表情のラタナがその茶色の瞳を向けた。不安に揺れる色は、何を示しているのかはわからない。
「エリス。どうしてここに?」
「ハルクが探していたわ」
「そう」
エリスから視線を外した彼女は、組まれた自分の指へとその視線を落とした。
「ねえ、何でここがわかったの?」
「さあ、なんとなくとしか言いようがないわ」
「ねえ貴女、誰かを愛したことある?」
「あったわ」
エリスはその問いかけに端的に答えた。
「じゃあ」
縋るような目を向けたラタナに対して、エリスは一歩距離を開けた。
「悪いんだけど、私、貴女の懺悔を聞く気は無いわ」
ラタナが言葉を繋ぐ前にエリスは静かに言葉を重ねた。
「私、献体司教だけれど、本物の司教ではないから」
「そう、よね。悪かったわ」
「祈りの邪魔をしたわね。私は帰るわ。ハルクには少ししたら戻ると伝えておくから」
「待って」
「なに?」
「少しだけ、相談に乗ってもらえないかしら?」
エリスは彼女の表情を見て、既視感を覚える。そして頭中で警鐘が鳴るのを聞いた気がした。この相談に乗ってはいけない。そんな気がした。だからこそ、彼女は静かに目を閉じて、その相談に乗ることを断ることにした。
「わかったわ。 でも、ここじゃ場所が悪いわ。さすがに神様に近すぎるもの」
口をついて出た言葉は、決意とは全く別のものだった。
◇◇◇◇◇◇
彼女たちが向かった先は、ユーラーラの中心部に近い、チャーチル・ダーウィン大学の近くだった。朝の為か学生が多く、これだけを見るとここが紛争とは無縁の地の様に感じる。
「大学が珍しいの?」
エリスの視線を気にしたラタナが聞く。
「いいえ。昔、通っていたことがあるから少し気になっただけ」
「そうなんだ。意外ね貴女も学生だったことがあるのね」
「そうね。もうずいぶん昔のことだわ」
あの頃は、とエリスは記憶を想起する。ロサンゼルスの町並み、鞄を片手に大学とアルバイト先のバーへ通い詰めた日々、あの時は確か。
「私は大学になんて行けなかったわ」
エリスが回想に沈む中、現実の声が彼女を引き上げた。ラタナの声色には特段重々しいものは無く、大学など行かずとも幸せだったと、感じられるものがある。しかし憧れのようなものを感じ取ったエリスは、そっけなく頷くだけに留めた。
そう。自分は単に幸福だったのだ。少なくとも大学に通えるだけの経済力は有ったのだから。
ラタナの向かった先は、飲食街の裏手にあるバーだった。ひっそりとあるその場所は階段で地下に降りた先にある。重厚な木製のドアを開くと薄暗い店内と、涼やかな冷房の風が肌を撫でた。
「プライベートルームは空いてるかしら?」
白シャツに黒のベストを着たウェイターにラタナが聞くと、静かに頷いた彼は彼女達を奥の個室へと通した。柔らかい皮のソファーに腰を下ろしたラタナは、キール・ロワイヤルを二つと軽く食べられるものを頼んだ。
「今日はオフでしょ?」
ラタナの今更な言葉に、エリスは笑みを浮かべた。注文を終えた時点で、確認する事でもない。
「深酒に付き合う気も無いわ」
「そうよね。私もそんな気分じゃないわ」
二人は穏やかに笑みを浮かべると、ウェイターが赤の鮮やかなグラスをテーブルに並べた。
「でも、確かにお酒は必要ね」
「悪いわね」
「いいわ。貴女のおごりなんだから」
グラスに浮かんだ気泡が弾ける音を聞きながら、二人はグラスを鳴らした。
つまみをいくつか口に運び、酒を含んだ所で、エリスは話を切り出した。戦場で不安定になる兵士たちのことを。
非常にメジャーな病で、PTSDの症状が今回のそれであろうと、エリスは語る。
心的外傷後ストレス障害、要は戦場で人を殺した事によるストレスで、精神を病むという状態だ。もちろん、レルアバドにも精神科医はいる。症状を抑える薬も、カウンセリングもおそらくTAFよりも綿密に行っているのだ。出撃後はもちろんのこと、その後も、その前も健診が義務付けられている。
それでも起こりうるのが、PTSDだった。
神に身体を捧げた献体と言えども、元は一人の信者。信じる神は違えども、その胸の中心には神の教えが生きている。単純に敵を【殺す】事がその教えに反している事も、本人が十分すぎる以上に理解していた。
理解しているが故に、その行為が自身を蝕む。信仰を守る為に、信仰に背を向ける。この二律背反を甘受できるものは多くない。
もっとも、それは信仰の有無に限った話ではない。レルアバドは宗教的中立区の設立を、主な活動としているが、貧困層への支援も同じぐらい主だった活動だ。だからこそ、貧困層からの献体も多い。
つまるところ、人は人を殺す事に忌避感を覚える生き物なのだろう。たとえ四度の世界戦争を引き起こしたのだとしても、世界から紛争と殺し合いが無くならなかったのだとしても。
「そうなの。PTSDか。そうね、そうなのかもしれないわね」
「ドイツ戦線では、自陣の二割がPTSDを発症したわ」
「二割、それって多いの?」
「多いわね。十人に二人の割合よ。まあ、歩兵に限った話だけど」
「歩兵」
「そう。陣営では三割が戦線を離脱する状態になったら、壊滅と同義なの。だから本当に悲惨ね。それでも敵は来るから戦わなければいけない。ガンパウダーを吸って麻薬の代わりにしていた奴もいたわ」
「それって」
「そうね。そんなことをすれば、死が近づくだけ。でも、考えても見て、今この瞬間、戦場で撃たれて死ぬかもしれない。信じる神はいない。信じた神は救いを死の先にしか用意していない。身体は疲れ、心は疲れ、そんな状況で誰がそれを止められるのかしら」
もちろんそれは自陣に限った話では無かった。ガンパウダー中毒の捕虜の頭蓋に、銃弾を撃ち込んだこともあった。戦場では麻薬だって貴重品だ。安価な化合麻薬でさえも、混沌と化した戦場では入手困難な品で、戦利品のアサルトライフルから抜いた弾薬をバラして鼻から吸い込むのだ。
あの血の海では、人の命ほど安いものは無くて、Ebや実弾の方が高価だった。ただそれだけの話だ。
重くなった会話の内容に、エリスは軽く息を吐いた。それはため息にも諦念にも似ていたが、そのどちらでも無いようにも思えた。
「戦場なんてそんなものよ。Ebでの戦闘がほとんどの戦場では、そんな事は起こらないわ」
「そうよね。でも、そのPST……だったかしら、それってEb乗りの献体でも起こるの?」
「起こるわ。ほとんど無いけれど、起こりうるわ」
「そう。ありがとう。一度、ラックスマンに診てもらうわ」
「それがいいわね。大したこと話せてないけど、これでよかったかしら?」
「ええ、少し楽になったわ」
ラタナが淡く微笑むのを見たエリスは、不意にある事を思い出す。
不安定な情緒。淡い微笑み。単純に大規模戦闘の高揚感や、大量殺人に起因する感情の揺れ幅以外のもの。
エリスにはわかっていた。恐らくラタナもわかっていた。だからお互いに言葉を濁し、意味の無い安堵感を求めたのだった。PTSDの心配をするフリをして、医者に行く機会を作りたかったのだ。
ラタナは妊娠している。
その事実が今のエリスには、酷く重く、幾度も振り払おうとした過去が、追いかけてくるような気がして、空を睨んだ。




