プロローグ 上空3,000フィートの世界は
上空3,000フィートから眺める世界は、目の覚めるような青と、目が潰れそうなくらいに陽光を照り返す雲海が広がっている。
きっとこの雲海の真下は、暗い雨が降っている。
彼女はそんな事をぼんやりと思いながら、窓のシェードを下ろした。
航空機のエンジン音が低く唸る中、ひっきりなしに騒音を立てる元凶が一つ。エリスは何度目になるかわからないため息を、そっと圧し殺した。
「つまりだね、石油燃料が枯渇したこの時代、長距離航空機に乗れると言うのは、一種の特権なんだよ」
「そう」
エリスの無関心な相槌など、目の前の青年には意味がないのだろう。彼は先程から酒精に顔を赤くさせて、どこまでも尊大な講釈を喋り続けている。
「まぁ通常は海上高速船や、大陸間高速鉄道を使って移動なのさ。そう、長距離航空機を使えるのは、金持ちの軍か僕らのような者達だけなのさ。君は初めてだろ?」
「そうね」
石油燃料などの旧世代の資源が枯渇したのは、数世紀前の話だ。それによって世界がどのように混乱をしたのかは、エリス自身は知らない。だが、幼い頃に習ったそれは、上辺の知識でしかなく、その混乱を想像する事すら困難だ。 安定した世界、安定した供給、一部の富裕層、大多数の貧民層。第四次世界大戦以降、代わり映えのしない構造だが、たぶん、第三次世界大戦の後も前も、それほど大きく変わることは無かったのではないだろうかと、エリスは考えている。
上空3,000フィートから眺める景色には、代わり映えの無い白雲が広がっている。
「それで、このフライトはオーストラリアに行くので間違いないの?」
「ああ、そうとも。君の次の舞台はオーストラリア。厳密にはエアーズロックさ」
「そう。政府の抵抗が、まだあるわけね」
第四次世界大戦以降、宗教は元より、信仰を持つ者への弾圧は激化していた。キリスト教、イスラム教、仏教は当然のこと、オーストラリアの先住民族であるアボリジニも、第四次世界大戦初頭にかなりの部族が虐殺にあっていた。
現在のオーストラリアは、政府の強引な信仰放棄政策、俗に言う棄神法に抵抗したアボリジニや、他宗教の人々が、政府を武力で押さえつけ、北東部、東岸部を除くほぼ全ての地域を、宗教的中立区としていた。
彼女達は、信仰の自由を謳うレルアバドの一員であり、アルマディナ・アルファーデラの下に集った信者だ。
不可侵なる永遠
一般的に、神聖レルアバド教団と呼ばれる集団だ。
絶対女神アルマディナ・アルファーデラを崇め、世界中の宗教を統一し、第四次世界大戦を終結に導いた新興宗教と言われている。
世界各地に宗教的中立区を設立し、戦災支援や宗教保護活動を行う事から、世間的に新興宗教と誤解を受けている。
実際には、主教的中立区を設立する集団であり、絶対女神などと言う分かり易く馬鹿げた信仰は持っていない。
誤解を招いた要因は二つあり、一つは彼らのほとんどが理想郷を意味する《アルマディナ・アルファーデラ》という言葉を用いて、自らを鼓舞するからである。
さらに、不可侵なるレルアバドの中心人物に《被弾しない乙女》と呼ばれる奇跡の乙女がいたことから、アルマディナ・アルファーデラという女神がいるという誤解を与えた。
そして、最大の要因は、第四次世界大戦後に行われた『黒い声明』である。
創設者ラグル・ディーンが世界中に向けて行った声明。
『世界は混乱と混沌に満ち溢れている。戦争は無くならず、権力者は私腹を肥やすことにしか頭を働かせていない。改革が必要なのだ。絶対的な象徴と、救いが必要なのだ! 先日、神聖レルアバド教を導く女神アルマディナの信託がつげられた。その信託に従い、我は世界の浄化を執り行う。この狂った世界を破壊し、浄化し、新たな時代を作り上げる為に!』
キリスト教カトリックの、ローマ法王を模した衣裳に身を包んだ、本人とは似ても似つかない老人が、演説を行っていた。
無論、レルアバドはこれを否定するも、直前に行われた南米諸国、南アフリカ連合国、中国北部連合国の国連脱退、国家を上げた宗教的中立国の制定が、世論に事実無根の声明を信じさせる事になってしまった。
『黒い声明』自体は、レルアバドの中でそれほどの動揺を生むことは無かったが、世界的にはレルアバド=狂信者と知られる事になり、それに日和見をしたオーストラリア政府は、現在、宗教的中立国の撤廃、棄神法の制定、TAFへの軍事的協力要請を行っている。
「せっかく設立できた《アルマディナ・アルファーデラ(理想郷)》なんだ。アボリジニは元より、この国には信仰を持つものが多い。守るために戦う。昔の日本にあったジエータイと同じさ。浅学な君にこの意味がわかるかい?」
「オーストラリア政府を、いえ、TAF(国家連合軍)を追い出して、政府の方針を転換させるでしょ」
「そうさ。そうとも。その為には君の力が必要なのさ」
「私一人で戦局が変わるくらいならば、戦争なんてそもそも起きるわけ無いわ」
エリスはため息混じりに言い捨てると、目を閉じて眠る事にした。これ以上、不毛な会話を続ける意味を見いだせなかったからだ。
夢の導入は、いつだって闇の中から始まる。暗く暗い闇の中を泳ぐ夢。幼い頃から変わらない夢だ。
戦場で人殺しに明け暮れた後は、必ずと言っていいほど見る夢だ。一人のような、一人で無いような不思議な感覚が身体中を巡り、何も見えていないはずなのに、何かがあることがわかる。そんな意味の無い夢。
ユダヤ教徒の養父母に、この話をしたならば何を思うのだろうか。
エリスはそんな事を考えながら、優しかった養父母の事を思う。厳格なと言うほどでは無いが、毎年ハヌカーや過ぎ越し、養父母に引き取られた年にバルミツバーなど、養女の自分に、ましてやこんな自分に対して、本当に良くしてくれたものだと、自嘲気味にエリスは微笑んだ。
夢の世界ではいつだって思い出に浸ることが出来た。現実は争いの日々だからこそ、こんな事でしか自身の人間性を確かめられない。
あんな事があった、こんな事があった。過ぎて、もう取り戻せない、引き返せない日々を想いながら、エリスは夢の闇の中を泳いでいく。
夢の終着点は決まっていた。唐突に現れる少女が夢の終わりを告げる。幼少から見続けた夢の少女は、年を経る毎に代わっていった。
ある一定の年齢を過ぎると、幼女に戻ってしまうのか、いずれにしても、今回で三人目なのは間違いない。
この少女との付き合いは、ドイツ戦線に投入された頃からだろうか。戦争に赴く度に現れる少女にも満たない幼女は、今は三歳ぐらいだろう。少なくとも、代替わりした頃の赤子よりも、成長した姿でエリスの前に立っている。
感情の無い瞳が特徴的な前の少女と違って、不思議そうな表情を浮かべてこちらを覗き込む少女に、悪感情を抱きづらく、向かい合うようにして、少女との邂逅を楽しむことにした。
「今日は何を話そうか」
思いの外、優しい声音が出たことにエリス自身が驚く。こんな感情はこの三年間で、無惨に砕かれてしまったと思っていたから。
エリスの言葉に少女は声を返すことは無い。しかし、満面の笑みと期待に満ちた表情は、エリスのお話を待っているように感じられる。
「そうね。今日はバルミツバーの時の事を話すわ」
語られる昔話を興味津々に聴く少女。童話を語るように話すエリス。二人だけの夢の世界は、闇の中、ひっそりと続いた。
エンジン音に揺さぶられるように、夢から目覚めたエリスは、変わらずにある長距離航空機の座席と、赤ら顔を満足げに上気させた男を見て、こっそりと溜め息をつく。
楽しい夢の時間は終わりだ。
「ずいぶんとお疲れの様子だね」
「先日までドイツ戦線にいて、疲れていない方がおかしいわ」
「そりゃそうだ。君も飲むかい?」
「いらないわ」
男から差し出されたのは、彼の愛飲する赤ワイン、スーぺル・トスカーナ。イタリア産のワインで、若い職人達の手で産み出された年月も格式も浅いワインだ。従来の古い格式や、こだわりを知らない世代が産み出した、革新を告げる傑作とは、この男、マリオ・コスタケルタが散々講釈を並べ立てた事から知っていた。
「あぁ、そうか君はユダヤ教徒だったっけ?」
「ええ、そうよ」
「それにアメリカ暮らしも長かった?」
「そうね」
「そうか。なら仕方ない。君にはビールの方が口に合うんだろうね」
「……そうね」
エリス自身はワインを飲まない事も無い。原則的にユダヤ教徒とは、他宗教の者が開けたワインを、飲んではいけない戒律があるのだが、敬虔な信者でも無いエリスには、戒律を遵守する必要は無い。
コスタケルタはキリスト教のカトリック信者だ。
他宗教の教義にも深い知識を有する彼は、自身の信仰を侵させない代わりに、他宗教の戒律を侵す事も無い。
これに関しては、レルアバドの方針にも合致している。
第四次世界大戦、俗に宗教戦争と呼ばれた世界的な戦争は、争い合う過激な宗教家達の頭を冷やすことになり、それぞれの神や信仰は、己が内で行い、異なる信仰を持つ者を侵してはならないと言う規則があった。これは《被弾しない乙女》の言葉の一つでもある。
一つ、神を信じる者を侵してはならない。
一つ、神を信じる者を救済すべし。
一つ、病める隣人に手を差し伸べよ。
この三戒律を守る限り、レルアバドは救済の手を引くことは無い。
エリスがそんな物思いにふける内に、コスタケルタの話は続いている。いつの間にかアボリジニの話に移っていた。
「アボリジニ大虐殺。世界大戦初期の出来事よね」
相づちを打つように、言葉を繋げると、コスタケルタは満足げに頷く。
「そうさ。勉強家だね」
誰でも知っているわ。という言葉は、なんとか飲み込んだ。
「社会問題となっていたアボリジニ達に対する大虐殺。一般教養として習う分野だけど、改めて説明がいるかい?」
旧世紀、二十一世紀の前半にアボリジニに対する公的扶助は、第三次世界大戦の後も続けられたという。これは元々十八世紀以降のアボリジニの人権侵害、文化破壊に対する謝罪だという事らしいが、そんな古い歴史はすでに忘れ去られている。
しかし公的扶助だけは終わることなく続き、それは、一部のアボリジニ達を酒や薬に溺れさせる弊害を生んでいたという。第三次世界大戦による世界恐慌、それに続く貧困、しかし終わることのない公的扶助。一般市民がそれに反感を覚えるのは無理もない。
そして、第四次世界大戦。アボリジニへの怒りが、信仰への憎しみとして発散されたのも無理は無いと言わざるを得ない。
もちろん公的扶助はすでに打ち切られているが、それでも市民感情は未だに憎しみに満ちている。すでに終わったはずの特権的な扶助。それは信仰への憎しみだけを残したのだった。
「説明はいらないわ。仕事をするだけだから」
「そうかい。まあいいよ。そうだ、君も飲むかい?」
彼は手にした新しい赤い葡萄酒のボトルを、エリスに傾ける。
「いらないわ」
「そうかい? やはり赤ワインは苦手かい? まあ無理も無い。君はアメリカ人だしね。まあいい。知ってると思うけれど、キリスト教では、赤ワインはイエスの血と同じなんだ。そう。だからボクは赤ワインを好み、素晴らしい一品を分け与えるのさ。主は『汝の隣人を愛せ』と思し召しだ。わかるかな? 君の飲みなれていた安いビールとは意味も、わけも違うんだよ」
「コスタケルタ、そろそろ着陸するんじゃないかしら」
「おやおや、もうそんな時間かい。そうだね、これは帰ってからまた飲むことにしよう」
彼は自慢の赤ワインのボトルを丁寧にしまうと、手をひらひらと返して座席に戻った。
ようやく静かになった室内に、彼女は一息をつき、
「ご自慢のワインでしょうけど、Early Barrelなのよね」
と、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
眼下には、オーストラリアの赤色の大地と、世界のヘソと呼ばれるエアーズロックが見えていた。