9 whiTHER
「本当に、醜悪な外見のイキモノだったね。アレは」
大きく体を反って、男は振り返った。
暗い部屋の奥には、女の姿が見える。まだ年月は若そうだ。しかし暗すぎて、その顔を細部まで窺うことはできない。
「だって赤ん坊だったんだもの。無害で無邪気な幼子の姿をしていながら、その実態は子どもどころか、むしろ母親……。色んな意味で騙されるってもんだ」
ボールペンを手にした男は、その先端でホワイトボードをこつこつと叩く。乾いた音が響いて、張り付けられた無数の写真や新聞記事が微かに揺れた。
「東京都心の複数のコインロッカーに、人間の赤ん坊と全く同じ外見の個体を配置。拾った人間の大半がどこかの期間に届け出ることを想定していたけれど、案の定、届け出をしないでこっそり育てようとする人物が何人も現れた。もっとも、彼女たちがあのメモを遵守してしまうことがなければ、個体が成体に育つこともなかったと思うけれど。酸素ガス、黒炭、大量の水と塩、窒素ガス、カルシウム、リン、硫黄、カリウム、マグネシウム──すべて人体の構成に必要な元素を含んでいる物質だっていうこと、彼女は気付いていたのかな?」
女は、答えない。
「昼間は大人しく人間の赤ん坊のように過ごしていながら、夜間は本来の能力を少しずつ手に入れていく……。だからこそ、彼女がバカ正直に用意した物質の類を取り込んで、たった二か月という限られた期間での急成長の糧にすることもできたわけだ。成体の特徴である高速移動や壁に張り付くといった能力をもってすれば、誰か知らない者が部屋を訪れた時に天井裏にでも隠れることは造作なかっただろうしね。むしろ、そうした実践の機会を得たことで、彼らは成体としての力をものにしていったのかもしれない。興味深いものだ」
「…………」
「成体への変化の様子は、率直に言って驚いたよ。まさに思っていた通りだった。母体としての機能を失った赤子の身体を内側から破り、まるで蛹が成虫になるように外の世界へと羽ばたいていく。どうだい、これこそ最も美しい生物種の変化の在り方じゃないか。あのイキモノはまさにそれを我々の前に見せてくれた。──ただ一つだけ誤算があったとすれば、生殖の方法が卵の産み付けではなくて、ある程度まで育った『幼体』の体内埋め込みだったことかな?」
「…………」
部屋には相変わらず、冷たい沈黙がぼんやりと垂れこめている。
男は薄く笑った。そして、貼られている写真のうちの一つを抜き取った。
防犯カメラの映像を解析して得られた画像のようだった。中央に映っているのは、激しくひしゃげた檻と、血まみれの肉塊と化した複数の物体、そして……異形の姿をした怪物。
「死の直前、彼は育ての親に会いに行っていたんだね。そしてその時にちゃっかりと、卵レベルのサイズに圧縮された超小型の幼体を母親の体内に埋め込んでいた。身体に取り込まれてしまえば、もういちいち元素レベルに物質を分解して取り入れる必要もなかっただろう。幼体はわずか数日で母親の体内を食い荒らし、成体となって母体を破壊、おまけにちょっとした副産物まで放り出して怪物化したわけだ……。恐るべき生命力。いや、逞しさとでも言っておこうか」
「……どっちでも、いいじゃない」
女が初めて口を開いた。そう言うなよ、と男はペンを一回転させる。
「せっかくの“作品”なんだから、少しは褒めてあげたくてね」
「…………」
「そうさ、アレは逞しい生き物なんだ。だってそうだろ? 最初の事件からたったの半年も経っていないのに、アレは仲間を急速に増やしていってる。特に、それまで捕食することしかできなかった人間を分身の土台にしたり、或いは自分の体内で分身を作るためのエネルギーに活用できるようになってからはね。今や首都圏一帯は、すっかり人間の住むことのできなくなった危険エリアだ。新たな支配者として君臨した怪物が、人間をここから追い出したんだよ」
「…………」
「あとは知性を持たせることさえ達成させられれば、彼らは晴れて真の『新人類』と呼べる存在になるだろう──。この研究は、成功したことになるわけだ」
女は固く口を結んだまま、男のことを睨んでいる。朧に目に映る光には、殺意にも似た強い意志が見て取れた。
だが、男はまるで意に介すつもりもなさそうだ。写真を机の上に放った男は、女を一瞥して、それから仕方なさそうにため息を吐く。勢い余って数枚の写真が床に落ちた。
「ま、何よりも驚きだったのは、個体の一つを無事に成体に育て上げたうちの一人が、よりによって君の母親だったってことだったんだけどね」
女の表情が、変わった。
「母性本能の暴走、とでも言えばいいのかな? ご本人を目の前で見た時は、とてもそんな大それたことをしそうな人には見えなかったんだが。母親っていうのは子どもを守るためには、どんな無茶だってやってのけるというからねぇ」
ま、結果的には我々に都合のいい結果になってくれてよかったけど。
独り言のように続けた男の顔に浮かんでいたのは、ついさっきまでと同じ笑みか、それとも。
女は歯を食いしばっていた。後ろ手を縛り付けられた椅子が、がたんがたんと音を立てて動く。
「おっと」
男が不意に口を開いた。
「あんまり暴れられると、君も被験体になってもらうよ」
立ちどころに女は静かになった。さぁ、と男は白衣を通した両腕を空に突き上げ、伸びをする。
「もう少し、見ていようじゃないか。本当は矛盾という名の虫食い穴だらけだったこの世界が、こうやって目の前で崩れていく様を」
床に落ちた写真の一つに写っていたのは、寛子だった。
少し汚れたモノクロの写真の中で、彼女はまだ、笑っている。
とうの昔に彼女自身が忘れてしまったはずの、かつてのような慈愛に溢れた、優しかった笑顔を、浮かべたまま──。
お読みいただき、ありがとうございました。作者の蒼旗悠です。
ここで本編は完結となります。
時季外れのホラーに手を出そうと思い立ったのが、今年の十一月。なんとか書き上げてはみましたが、なかなかどうして後味の悪い作品になってしまったような……。
というかぶっちゃけさせていただくと、書きたかった内容は前回の第八話までで書き上がってしまっているので、第九話は完全に余計です。後日談を入れないと、結局あれが何だったのかさっぱり分からないことになりそうで(汗)
作者の実力不足が否めません(´・ω・`)
『母性』をテーマに据えた本作、何とも言えない終わり方ではありますが、お読みいただきありがとうございました!
2016/12/21
蒼旗悠




