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7 teTHER






 それから後、寛子の記憶は一時間ほど消し飛んでしまっている。


 目を醒ました時、寛子は救急車の車内に寝かされていた。見下ろしていた何人もの男女が、口々に「意識回復しました」「異常見られません」などと話している。服装からして救急隊員らしかった。

 直後、智絵が現れた。智絵の顔も、服も、得体の知れない不気味な色の液体に染まっていた。目の色から、生気をまるで感じることができなかった。

「起きた?」

 問い掛けられたので、頷いた。誰がどう見ても起きているではないか。

 すると智絵は同じ口調で、また訊ねた。

「知ってて、やってたの?」

 今度は答えることができなかった。


 ぐったりと倒れて動かなくなった寛子を踏み越えた怪物は、苦もなくドアを蹴り壊して家を飛び出したのだという。すぐさま駆け込んだ智絵が目にしたのは、毒々しい色に染まった部屋と床中に溢れた肉の一部、そして倒れ伏した母親。

 アパート前の狭い路地は完全に封鎖され、警察による現場検証が今も行われている。加えてつい先ほどから、豊島区、そして隣接する新宿区の全域に、異例の屋内待機命令も発令されているという。智絵の目撃証言から、かつて赤ん坊だった怪物の正体が“ファントム”の可能性が極めて高いと判断されたとのことだった。

 寛子の身体が正常であることが確認できると、救急車は走り去っていった。智絵や付き添う警察官の補助を受けながら、寛子は家の前へ向かった。無限の赤色灯に照らし出された寛子のアパートは、玄関のドアが無惨に破壊され、そこからあの赤黒い液体が点々と道路まで続いていた。


「あたし、やっぱり不倫のこと、疑っちゃったんだよ。それでお母さんのこと、追跡()けてた」

 智絵の声には困憊と困惑が滲んでいた。

「あいつが懸命に覗こうとしてたんだもん、押入れに何かを隠してるのかもしれないなって思って。それで庭に潜んで一部始終を見届けようとしたんだ。そしたらお母さんは、口からぼたぼた鮮血を垂らしてる赤ん坊みたいなイキモノを取り出して……あやしてて……」

「私、そんなの育てた覚え、ない」

 寛子は弁解しようとしたが、すぐに口をつぐんだ。いくら見たままのことを話そうとも、眼前の現実がそれより先に全てを物語っている。

「落ち着いたらで構いませんが、事情を聞かせていただきますよ」

 横の刑事が凄んだ。はい、と寛子は項垂れた。

 真実を知りたいのは、寛子とて同じだった。


 言われた通り、全てを話した。

 使おうとして開いた駅のロッカーに、偶然にも赤ん坊が入っていたこと。妙な内容のメモが入っていたこと。正式に家族として迎え入れる面倒を憂えて、誰にも相談せずに引き取ったこと。そして今日まで、間違いなく育てて来たこと。

 メモは鑑識によって家の中で発見された。今日がちょうど期限に当たる二ヵ月の日であったことも、忘れずに説明した。

「……寂しかったんです」

 動機を問われ、寛子はそう答えた。

 死んだ義昭が家庭内暴力の常習犯であったこと、智絵は両親を見放して家を出ていった身であること──。崩れるところまで崩れてしまった家族という居場所を、赤ん坊を拾って育てることで再現してみたかった。それが動機の全てだった。赤ん坊の正体など知っているはずもなかったし、取り調べを受けながら何度も赤ん坊の変形する場面が脳裡に浮かんで、そのたびに吐き気を堪えきれなくなりそうになった。

「まだ、“ファントム”と断定する証拠は上がってきていません。知らずに育てていたということもありますから、我々としては西山さんを勾留することができない」

 調書を取り終えた刑事たちは、険しい顔付きで寛子を睨んだ。

「ですが恐らく、これから幾度も警察署に出頭していただくことになりますよ。覚悟はしておいてください。あなたがどれだけ大変な騒ぎを起こしてしまっているのかを、どうか(わきま)えていただきたい」

「……はい」

 静かな迫力に真上から押し潰されて、寛子は平身低頭する他なかった。

 警察署を出ると、智絵が待っていた。同じホテルに泊まっていた光は、“ファントム”再出没を受けて今夜は帰れないという。充血した目を向ける智絵を前に、寛子はとても顔を上げられなかった。謝るというのも、違う気がした。

 自宅はもちろん閉鎖されている。遠雷のように銃声やサイレンが響き渡るのを聴きながら、二人で黙ってホテルへ向かった。




 翌日一番で、警察から連絡があった。“ファントムに逃げられた”というものだった。

 午後七時頃、“ファントム”は目白の市街地に突如として躍り出たのだという。通勤ラッシュの時間帯だけあって街は混雑しており、列をなす通行人たちに“ファントム”は襲いかかった。瞬く間に数十人が餌食となって噛み殺され、警察が到着した頃には現場は文字通りの血の海と化していた。

 “ファントム”の逃げ足は先日のそれより遥かに速く、追跡のためにヘリコプター二機が上空待機した。町中に狙撃班が展開される物々しい雰囲気の中を、“ファントム”は五時間に渡って逃走。深夜遅くになってようやく追い付いた特殊部隊が重火器を使って一斉射撃を加え、激しい戦闘状態に突入した。

 しかし致命傷を与えるには至ったものの、肝心の“ファントム”は暗闇へ姿を眩ましてしまった。警察官や特殊部隊への被害もかなりに上るらしく、民間人の犠牲者と合わせて考えると本当に肝が冷える惨劇だった。

 今もまだ潜伏している危険性が高く、これからも当分は屋内待機命令を継続する──厳しい説明の声は、くたびれた寛子の身体に髄までじわりじわりと染み込むようだった。事の大きさを嫌でも思い知れ、とでも言わんばかりに。

「大学も、バイト先も、今日と明日は家にいろってさ」

 電話で安否を尋ねると、智絵はどことなく苛々とした声でそう答えた。「警察が早くあいつを殺してくれなきゃ、滞在費が(かさ)んでお金だってなくなっちゃうのに……。どこに潜んでるっていうんだろう」

 寛子の安否については、一言も言及しなかった。

 出頭命令でも出ない限り、することがないのは寛子も同じだ。連絡を待ちながら、寛子は窓の外をとりとめもなく眺めていた。池袋の街中に位置するホテルの窓からは、すっかり人の流れの失われてしまった道路が見えた。車の数はさほど減っていない気がするが、心なしか走行速度が早い。いざという時、“ファントム”から逃げ切るためだろうか。街中で出せる程度の速度で逃げ切れるとは思えなかったが。

 (私が、こんな状況を生み出した?)

 胸に手を当てて、心の中で呟く。

 (私は何も望んでいなかったのに?)

 当たり前よね、と続けてみる。

 育てたことそのものに関して、寛子に落ち度はない。警察もその点は認めている。だが、いくら落ち度がなくとも結果は結果だ。数十人という人的被害が、寛子の放った怪物によって既に出てしまっているのだ。

「どうすれば、よかったのよ……」

 目の前が真っ暗になっていく感覚に囚われながら、寛子はカーテンを掴んだ。そうでもしなければ、立っていられる自信がなかった。






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