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6 poTHER






 発見は今朝早く。まだ薄暗い公園に立ち入った通行人が、公園の奥の暗い部分に横たわった義昭の亡骸を見つけたのだという。

 遺体の損傷は異常なほどに激しかった。地面には鮮やかな色の血が飛び散り、顔は本人確認ができないほど潰され、左肩から胸にかけての辺りが激しく抉れて欠損。電灯の照射する範囲から外れていたために肉眼での発見は難しかったにしても、なぜそれまで発見されなかったのか分からないほどの異臭が辺りには立ち込めていたのだという。

 そしてその謎は、死亡推定時刻の算定によってじきに明らかになった。殺害されたと考えられる時間帯は、ちょうど通行人が公園に差し掛かる直前だったのだ。

「手口や遺体の状態から言って、例の“ファントム”と非常に類似しています。愉快犯か、もしくは同じものが再び現れたか──そこまではまだ突き止めることができません」

 警察署へ呼ばれた寛子と智絵に、刑事は真剣な顔でそう告げた。

「ご家族を亡くされて消沈しておられるとは思いますが、我々も犯人検挙に全力を挙げる所存です。ぜひ、ご協力を頂きたい」

「…………」

 寛子と智絵は、黙って顔を見合わせた。智絵の顔には悲痛とも苦痛とも取れそうな表情が浮かんでいる。自分はどうなのだろうと、鏡でも覗いてみたい気分になった。

「遺体の確認はされますか」

「いえ、結構です」

「分かりました。ま、かなり酷い様子ですからな……」

 頷いた刑事は、早速とばかりに手元の黒い調書を開いた。


 もう少しで終わる、あと少しだから、などと繰り返し促された挙げ句、寛子たちが解放されたのは昼過ぎになってからであった。

 死亡直前までの義昭の行動が、かなり速やかに捜査線上に上ってきたからであった。周辺の防犯カメラの映像を分析したところ、義昭は付近のコンビニにかなりの長時間に渡って滞在し、その後に歩いて公園に向かっていたことが判明した。

「犯行現場から、このような雑誌が発見されています」

 刑事が取り出したのは、ビニール袋に包まれた複数冊の求人情報紙だ。血飛沫に濡れ、いくつかの文字は判読できなくなってしまっている。

「これに見覚えは?」

 尋ねられた寛子は、いいえと首を振った。智絵のことは見なかったが、恐らく同じことをしていただろう。

「中身を確認したところ、複数のページに渡って非常に熱心に内容を閲覧しているらしい跡が見られました。防犯カメラには、この雑誌と同一と見られる書籍を読みながら道を歩く義昭さんの姿が映っています」

「つまり、どういう事ですか」

「いえ。犯行との関わりは薄いと、我々の方では見ています」

 ただ──。刑事は声色を下げ、一呼吸を挟んだ。

「遺体には抵抗の痕跡がありませんでした。夢中になって購読していたために、犯人の接近と襲撃に気付くことができなかった可能性があります。もし、それがなければ……我々は義昭さんを救うことができたのかも知れません」

 この刑事に西山家の現状を教えてやりたいと、寛子は強く思った。そうしたら刑事も途端に態度を反転させるだろうか。或いはあくまでも理性的に、事件に対処しようとするのだろうか。

 智絵が何を思っていたのか、寛子に知る術はない。いずれにせよ事情聴取の間、二人はほとんど口を利くこともなければ、感情を面に出すこともなかった。




 最寄りにある目白警察署から寛子のアパートまでは、ほんの数百メートル程度──ほとんどと言っていいほど距離がない。

 ずっと俯いたまま唇を結んでいる娘を、寛子はじっと観察した。このままいつものように家に帰ってしまえば、智絵について来られてしまうかもしれない。意識の外で直感が働いた。

「いいよ、別に」

 署を出たところで、不意に智絵が口を開いた。

「何が?」

「家に来ないでってオーラ、めちゃくちゃ感じるから。行かないよ」

 その勘のよさは誉めてあげてもいいかもしれない。

 特に返事を思い付かなかったので、そうね、とだけ答えておいた。智絵は重たい頭をもたげるようにして頷いた。夫を殺されたことを警察に告げられて、こんなに平然と道端を歩いている自分の方がおかしいのだろう。

 と、門の前で智絵が立ち止まった。


「……求人情報、探してたんだって言ってたね」

 智絵の目はもう長いこと、自分の靴に向けられている。

「お母さんに言われたこと、あの人もあの人なりに咀嚼してたのかもしれない……。だってそうじゃん? 今まで働く気をまるで欠いてたあの人がさ、お母さんが怒鳴り付けたその日に限って他の理由で急に改心したりするなんて、偶然にしてはできすぎだと思わない?」

「…………」

 そこまで信頼してやる義理はない、と思った。大体それは昨日までの智絵も同じのはずだ。死という区切れを前にして、それこそ急に心変わりでもしたのだろうか。

「やり直したかったのかもしれないな──って、思ってさ。真意なんか分かりっこないけどね」

 鞄をしっかりと前に抱えて、智絵は寛子の顔を覗き込んだ。

「あのさ、お母さん。昨日は胸がいっぱいいっぱいになって聞けなかったけど、あの人が言ってたのは嘘だよね? 不倫なんてしてないよね? 子供なんて作ってないんだよね?」

「……そうだったら、どうするって言いたいの」

「軽蔑、するよ。……だってそれじゃ、やってることはあの人と何も違わないじゃん」

 軽蔑か、と寛子は嘆息した。密かにずきんと胸に痛みが走ったことを、智絵には悟られたくなかった。

 実際に不倫などしていないのだから、堂々とそう答えれば済むことなのに、素直にそう振る舞えないのは赤ん坊の件があるからだ。いくら駅のロッカーに捨てられていた子を拾ったからと言って、本来ならば拾得物と同じで警察に届けるのが筋だっただろう。

 不満の解決のために隠し事を始めた──智絵にそう言って責められたら、何も言い返せない。

「本当なの? あたし、信じていいの?」

 重ねて尋ねてくる智絵の目を、寛子は少し横目気味に捉えた。本当よ、と告げた途端、声が掠れて汚くなった。

「不倫はしてない。何もかも、あの人の被害妄想よ」

「……なら、いいんだけど」

 矛を収めた智絵だったが、その顔は最後の最後までついに浮かないままだった。


 パチンコで使い果たしてしまったからと、生まれながらの権利でも主張するような顔付きでお金を要求してきた義昭。

 今日は気分が悪いからと荒々しく喚いては自分を殴り、蹴り、隣室で勉強に励んでいた智絵にまで手を伸ばそうとした義昭。

 かつての優しかった中身はきれいさっぱりと消え失せ、自分以外の人の思いに無頓着であり続けた夫、義昭。

 遺体の安置されている警察署から一歩、また一歩と遠ざかるたび、それら全ての記憶に片っ端から大きな亀裂が入っては砕け散った。

 長いあいだ望んでいた、嬉しいことのはずなのに、心は何も晴れやかになってくれない。死ぬと分かっているなら、もっと早くに教えてほしかった。言いたいことも怒鳴りたいことも、まだまだ他にもあったのに。

 けれどそれを実行して、自分は幸せになれただろうか。

 (紘一が私のもとを離れていく時も、こんな気分でいるのかしら)

 名状しがたい虚無感に背中を温められながら、寛子は空を見上げた。夫と死別してしまっても、嘆く娘を横に見ても、涙一つこぼすことのできなくなってしまった寛子を、子供として育てられながら赤ん坊はどう思うだろう。嫌うに違いないわね、と思った。

 考え事に耽っている間に、アパートの前に着いてしまった。何気なく鍵を取り出し、何気なく扉を開け、中に入った。過去、同じことをしたどの部分の記憶を探ってみても、そこには義昭の姿は決してないのだった。

 と、握ったままのドアノブに微かな違和感を覚えた。──取手の形が少し、変わっている?

「変ね、歪んでる」

 ノブを確認した寛子は呟いた。強い力で圧迫されたように、金属製の四角いドアノブは内側へ向かって湾曲しているではないか。今朝は警察に呼び出されて慌てて家を出たから、気付かなかったのだろうか?

 ともあれ、修繕が必要なほどの故障ではないだろう。寛子はドアを放り出すように閉めて、それから赤ん坊のもとへ向かった。

 心なしか、ここ数日で急速に重たくなったような気がする。高成長の証に違いない、と寛子は喜んだものだ。

「あうー」

 赤ん坊が手を伸ばしてはしゃいでいる。はいはい、と隣に座って赤ん坊を抱き上げた。その可愛らしい仕草にため息が流れ出して、赤ん坊から逸らした目を寛子は鋭く虚空に向けた。

 やっぱり別れたくない。もう二ヶ月も育てて来たのだ、今頃になって本物の親が名乗りを上げてきたって渡したくない。この子の可愛さを知っているのは寛子だけで、これからもそうであってほしい。独占したい。閉じ込めたい。注ぐ口を失ってしまった愛情を、せめてこの子にはありったけ流し込んでやりたい。

 それさえも望むことを許されないのなら、こんな世界は存在しなくたっていい。

 忙しなく報われない日々の中で忘れかけていた母性を、せっかくこの子は呼び覚ましてくれたのだから────。




「キャ──────ッ!!」


 耳を突き刺すような悲鳴に、寛子は赤ん坊から顔を上げた。

 バルコニーの方から聞こえたと思った。バルコニーの外には庭があり、その向こうには道路がある。さては誰かが痴漢被害にでも遭ったのか。代わりに通報してやる気など毛頭なかったが、寛子はバルコニーに面した大窓の方をちらりと見た。

 道路ではなかった、庭だった。庭に腰をついてこちらを指差しながら、わなわなと身体を震わせている者がいる。寛子は絶句した。

 智絵だ。

「行かないよって言ってたの、嘘だったのね……」

 肌が粟立つほど低い声が、無意識に口から溢れていた。

 最悪だ。赤ん坊を見られた。不倫の真偽はともかくとしても、怪しまれてもおかしくない決定的な事実を見られてしまった。どうする、私──智絵を凝視したまま必死に思考を巡らせたが、妙案は何も思い浮かばない。

 そしてその思考は、智絵によって派手にぶち壊された。

「逃げて!」

 腰砕けのまま、智絵は絶叫にも近い声を上げたのだ。

「早く! なんで気付かないの、早く────ッ!」

 何を言っているのか分からない。もう発覚してしまったのだから関係ないと思い、赤ん坊を抱いたまま寛子は立ち上がって智絵のところへ歩み寄ろうとした。

 ぼたっ、と音がした。足元に落ちた深紅の液体が、カーペットに大きな染みを作っている。

 (何、これ)

 目を丸くした寛子の視界に、耳元まで裂けた大口から赤黒い液をだらだらと流し、楽しそうに笑っている赤ん坊の姿が映る。

 肉と肉が押し合って潰れるような不快な音が、部屋に反響した。小さかった手足が、まるで内側から盛り上がるように大きくなっていく。皮膚が破れ、真っ赤に焼けただれたような色の繊維質が覗く。

 寛子は赤ん坊を取り落とした。変貌を遂げ始めた直後、とても抱えることなど不可能なほどに体重が急増したのだ。床に転がって笑い続ける赤ん坊の胴体が、のたうつように伸び、縮み、徐々に腹を破きながら同じように大きくなる。腐乱臭としか言い様のない強烈な臭いに、目眩で視界がぐらりと揺れた。

 自分は今、何を見ている?

 寛子は惚けたように座り込んで、成人男性ほどのサイズにまで膨らんだ赤ん坊を見つめていた。ガンガンとガラスが殴られる音がして、見ると智絵が必死の形相で窓を叩きながら赤ん坊を指差していた。

 幼かった頃、智絵はこんな風に成長したか?

 したはずがない。

 ぐじゅ、という音で寛子は赤ん坊に目を落とした。赤ん坊の愛らしい顔から、二つの眼球がぬるりとした液を垂らしながら落下したところだった。次いで、根元の変色した耳が液を垂らしながら────。





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