5 neiTHER
義昭が再び姿を現したのは、その二日後のことであった。
二ヶ月の日まで、残り一日。さすがにふつふつと感じ始めていた不安を誤魔化そうと、寛子は赤ん坊を一心に可愛がっているところだった。がちゃん、と重たい音が玄関から響いて、慌てて赤ん坊を押入れの中へと隠した。
(また、あの人が来たのね)
諦観とも苛立ちともつかない感情に、熱のこもった息を吐き出したくなる。それと同時に、廊下の向こうでドアが開いた。
義昭が仁王のような出で立ちで、そこに佇んでいた。
「……おい」
低い声で義昭は尋ねた。いつも通りなら、真っ先に金の有無を尋ねるのに。
「お前、不倫とかしてねえだろうな」
突然何を言い出したのか、真意を捉えるのに一瞬の間が必要だった。
えっ、と寛子は狼狽えた。
「何かの勘違いじゃないの」
「白々しく惚けてんじゃねえぞ。そんでもって俺とは縁を切って楽になる気なんだろ、そうはさせねえからな」
白々しく振る舞ったつもりはない。なぜ疑われたのか分からないのは、本当なのだから。
と、荒々しく靴を土間に放って部屋に上がり込んできた義昭は、そのまま一直線に押入れのところへと向かおうとする。
「待って、待ってください!」
「待つかよ、このクソ女が! どうせこの押入れだって、新しい男との何かを隠してやがるんだろ!」
「誤解よ! 私、不倫なんて……」
食い下がろうとする寛子を、義昭は般若のような形相で振り向いた。充血した目を顔すれすれまで近付けて、睨む。
「見、た、ん、だ、よ」
「何を──」
「大塚のファミレスでお前が若い男と二人で会ってるところだよ。あれ、男なんだろ? なぁそうなんだろ?」
それはまさか、光と智恵と会ったあの時のことか。光が事件のことを話す間、智恵がトイレに立っていたことを寛子は思い出した。
(冗談じゃないわ!)
とんでもない大誤解だ。しかし今、寛子にはそんなことより遥かに危機的な問題が迫っている。義昭の大声で赤ん坊が目を醒まし、泣き出してしまう可能性が高いこと。そしてその赤ん坊を寝かせた押入れに、まさに義昭が迫ろうとしていることだ。
「俺とお前、家族だろ。家族は夫のことを簡単に裏切ったりしねえよなぁ」
ぎょろっと目を剥き、汚く吐き捨てた義昭は、踵を返して押入れの方を向く。
まずい。
まずい。
まずいまずいまずい──。
無我夢中で寛子は義昭の腕を掴んだ。
「開けないで!!」
「うるせえ!」
義昭は力ずくで寛子を振り払った。それでも寛子はまた、義昭にすがり付く。そして声を大にして叫ぶのだ。
「お願いよ、開けないで!」
この男には分かるまい。子どもを育てることは、時に命懸けなのだ。親として子どもの命をこの世に産み落としてしまった以上、どんなことをしても子どもを危険から引き離さねばならない時はあるのである。
きっと今が、その時なのだ。
赤ん坊を発見した後の義昭の行動など、容易に想像できる。酔っ払えば歩く凶器も同然の義昭だが、素面であっても暴力性には何の変化もないのである。殴るか、蹴るか、或いは──。
「いい加減にしろ! そんなに俺に見せたくないモンがあるんなら、ますます見てみたくなった!」
言うが早いか、義昭の太い腕は寛子を易々と弾き飛ばした。壁に叩き付けられた寛子の後頭部を、気を失いそうになるほどの衝撃が襲う。ぶれかけた視界に、押入れに手を伸ばす義昭の姿が映る。
「やめて────!!」
渾身の力を込めて怒鳴った、その直後。
玄関のドアが開く金属の錆び付いたような音が、突然に響き渡った。義昭も、寛子も、音のした方を見遣った。
(誰? 大体この人、さっき鍵をかけてたかしら……?)
疑問の答えを探す前に、その答えが自分から飛び込んできた。光だ。
「お前!!」
義昭が喚く。それを遮るように、駆け込んできた光は義昭と押入れの間に割り込んでしまった。
「お前は誰だ。この人に何をした? 嫌がってるのも分からなかったのか?」
「それ、お父さんだよ!」
後から入ってきた智恵が、光にそう告げた。光の目付きが驚いたように変わり、次いで義昭が真っ赤に変じた顔で怒鳴り付ける。
「てめぇだな! 俺の女房に手をつけようとしやがったの、てめぇだったよな!?」
「だからそれは──」
寛子の言葉になど、誰も耳を傾けない。義昭と光は真っ向から向かい合い、今にも相手に掴みかかりそうな顔になっている。
「何のことかは知らないが、あんたの奥さんに手を出す気は微塵もない!」
「惚けんな! 俺は見たんだからな、お前らが二人きりで会ってるところを!」
「そんなことはしていないっ! いいからそこを退くんだ!」
言うが早いか光が義昭に飛びかかった。無理やり引き離そうとする光に抵抗するように、義昭も腕に力を込める。首に青い筋が浮かび上がった二人の形相は凄まじい。
呆然と立ったままの寛子に、取っ組み合いながら光が叫んだ。
「危ないですよ! 不審者は僕が何とかします、向こうに行っていてください!」
「お母さん──!」
「させるかこの野郎! 大体お前、どこから入って来た! やっぱり合鍵を受け取ってやがるんだな!?」
三人の声がめちゃめちゃに反響して、数分前までの部屋の静寂は完全に消し飛んでしまっていた。
どうして、こうなった?
寛子には分からない。
足が棒のように地中深く突き刺さって、まるで動かない。煙った感情がもくもくと流れ出した。そもそもこの家を住み処にしているのは寛子だけなのに、その寛子がどうして除け者にされねばならないのだ。義昭も、光も、みんな不審者ではないのか。
ああ、頭が痛い。何もかもがなかったことにしたい。義昭と結婚したことも、智絵を育てたことも、何もかも……!
「もうやめて────!」
意識が寛子の胸に戻ってきた時には、既に寛子は大声で怒鳴った後だった。
もう駄目だ。もう限界だ。大声に驚いて動きを止めた義昭に向かって、寛子は開いた口をそのままに言葉の砲丸を叩き付けた。
「何なのよ! これまでずっと事あるごとにお金をせびっておいて、今度は何を言い出すかと思えば不倫ですって? 笑わせないで欲しいわ! あなたと違って私はそんな悠長な生活送ってないわよッ!」
「お前────」
「智絵たちだって何よ、もう家族とは思いたくない? それでもって実の父親は不審者扱い!? あの人がどんな苦労をしてきたか知らないけど、少なくとも私は苦労してあんたのことを育ててきたわ! それが親への態度だって言うなら、きっと私の教育が悪かったのね!」
そこまでを寛子は一気に叫び続けた。途中で口を挟みかけた義昭も、智絵も、そして光も、全員が焦点の定まらない目付きで寛子を見ている。息を荒げたせいで、肩が酷く痛い。
ついに言ってしまった──。そう思った。
義昭への不満も、智絵の不満も、口を突くままに任せて何もかも垂れ流してしまった。口に出したくなくて、長い間胸の奥底にしまっておいたはずだったのに。口にすれば最後──本当に、何かが最後になってしまうような気がして、それが怖くて。
「お母、さん」
智絵が声を震わせている。今はその声をどうしようもなく聴きたくなくて、身の回りの全てから耳を塞ぎたくて。
身体中から力が抜け、がっくりと寛子は床に膝をついた。
もう疲れた。誰が何と言おうと、疲れた。
「こんな家族に比べたら……。あの子の方が、何倍もマシよ……」
独り言のつもりで、ぽつりと床に声を落とした。
自分が口にしてしまったことの重大さに思い当たった時には、もう遅かった。義昭が気付く方が遥かに早かったのだ。
「『あの子』?」
空気が鈍く震えるほど低い声で、寛子の口に出した単語を義昭は反芻した。
「そうか。お前、やっぱり不倫は事実だったんだな。どこの男が相手か知らんが、そいつと子供まで作ってやがったんだな」
「違……」
「よく分かった。お前がそういう魂胆だってこと、よーく分かったよ」
口調とは裏腹に、義昭の声色は不気味なほどに落ち着いていた。かと思うと、口角を吊り上げて不自然な笑みを浮かべた義昭は、ふらりと一歩を踏み出した。
「!」
後退りした寛子も、眼前の光や智絵も無視して、見えない誰かに操られるような足取りで義昭は部屋を出ていく。その足は開かれたままの居間のドアから、外へ続く廊下を進んでいった。
(あの人…………)
寛子はその背中を、夢でも見ているかのような心持ちで眺めていることしかできなかった。
玄関まで至ったところで、義昭はこちらを振り向いた。顔面を構成する筋肉が全て狂ってしまったかのように、その顔に漂う表情からはまるで秩序を感じられなかった。
「……あばよ」
最後にそう言い残し、義昭は扉の向こうへと姿を消した。
寛子の意識を部屋の中へと呼び戻したのは、他ならぬ智絵の泣き声だった。
「ごめん」
智絵もいつの間にか膝を折り、寛子の隣に座り込んでしまっていた。涙をぼろぼろと溢しながら、智絵は頭を下げる。
「ごめんなさい……。確かにあたし、言い過ぎてた。言っていいことと悪いことの区別、何もついてなかったよ……。ごめん、お母さん」
「僕も、余計なことをしてしまいました。申し訳なかったです」
光まで頭を下げる。その様を寛子は、霞のかかったような重たい頭をもたげながら見つめた。
何も、感じない。
「お母さん……?」
智絵が顔を上げて寛子を見る。しかし寛子はかつて愛した娘の言葉に、応じることができない。
心の箍を外してしまった後の清々しい快感が、思い付いた慰めや赦しの言葉を片っ端から無効化してゆく。そうよ寛子、あんた本当は昔からああいうこと、言いたかったんでしょ。何も間違ったことなんて言ってないんでしょ。──心の内側からそう囁く声がある。
「……智絵」
寛子は尋ねた。うん、と智絵が答える。
「なんで今日、来たの」
「実は、住んでたアパートがあの化け物と警察の戦いで弾を受けて、燃え落ちて……。住むところがなくなっちゃって」
主戦場は文京区の湯島だと報道されていたのを寛子は記憶していた。湯島と言えば確かに、智絵と光がアパートを借りていた町だ。
涙を拭った智絵は、でも、と呟くように言った。
「……でも、あんなこと言って家を飛び出したあたしが、今さら昔みたいな顔して家に戻ってくるなんて虫が良すぎるね。ごめんね、お母さん……あたしやっぱり出て行くよ」
そうしてほしい──。引き留める気持ちよりも先に、そんな本音が胸で膨らんだ。もし同じ家で暮らされれば、赤ん坊が発見されるリスクだってそれだけ高まってしまうだろう。
「どうする気なのよ」
「バイトで貯めたお金はあるから、ホテルにでも泊まるよ。家はそれから……光と頑張って探す」
協力しますと言わんばかりに、光がまた頭を下げた。知ったことではなかった。
出て行くと決めたのなら早く出てほしい。一刻も早く赤ん坊の無事を確認したくて、寛子は段々とそわそわし始めた。二人が靴を履き、玄関扉の前に立つまでの時間があまりにも冗長に感じられた。
「お母さん」
出て行きざま、智絵がそっと声を残していった。
「図々しいだろうけど、これだけは言っておきたいよ。……あたし、あの野郎は死ぬほど嫌いだったけど、お母さんのことは」
「分かったから」
寛子は言葉を重ねて強引に遮った。義昭を野郎呼ばわりした時点で、その後にどんな題目が続こうが同じだった。
最後まで涙を啜りながら、智絵も、光も扉の向こうへと消えていった。
それにしても、あれほどの喧騒の中でも泣かないとは、赤ん坊も大したものだ──。
すぐに寛子は押入れを開けた。赤ん坊は中の布団にくるまって、大人しく眠りについていた。
「あらあら。おねしょしてるわね」
つんと鼻に効く臭いを感じつつ、狭いところに閉じ込めてごめんねと謝りながら寛子は赤ん坊を外に出した。あんな暑苦しい場所にいて、赤ん坊もさぞ息がしづらかった事だろう。
(昔のこの家の、私みたいに)
余計なことに思いを馳せそうになって、わざと邪念を振り払うように寛子はおむつ換えの作業に取り掛かった。
明日のことは、明日になってから考えればいい。今はこの子を大切に育てることだけに意識を向け、心を注いであげたかった。家族だったモノの訴えになど、傾けてやる耳は最早なかった。
激痛に耐えながらその耳を削り取ったのは、他ならぬ寛子自身だったのだから。
◆
翌日、朝。
甲高く鳴り響いた着信音に寛子が受話器を耳に当てると、警察を名乗る声が言った。
──『失礼ですが、西山義昭さんはあなたのご主人ですかな』
「そうですが」
そんな男は知りませんと答えてやりたい。
でしたら話は早い、と警察は声を潜めた。赤ん坊に気を取られながら聞いていた寛子の耳に、いきなり鋭い言葉が深々と突き刺さった。
──『ご主人が、遺体で発見されました』




