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4 boTHER





 ひとまずと三人が足を踏み入れたのは、寛子の職場がある大塚のファミリーレストランだった。

 池袋から大塚までは一駅だが、それなりに距離はある。ここまで追い掛けて来るようならどこでも無駄だろう──前田(まえだ)光と名乗った智恵の彼氏は、そう言って二人を落ち着けた。確かにその通りだった。

「智恵とは合コンで出会ったんです。今は試験を受けて、警視庁所属の刑事をしています」

 光は礼儀正しい人物だった。どこかの義昭とは大違いだ、と寛子は思った。思ったのはそのくらいで、この期に及んで愛娘の彼氏の品定めをする気も起きなかった。

 赤ん坊は今、どうしているだろう。意図せずして帰りが遅くなってしまいそうで、それだけが気になる。

「今日、仕事が休みらしくてね。光がどうしても私の生まれ育った街に来てみたいって言うから、仕方なく連れてきたところだったんだよね」

 智恵は不満そうにしていた。「池袋ならともかく雑司ヶ谷なんて、別に東京の中じゃ特別都会ってわけでもないし。何にもないよって言いながら来ようとしたら、これなんだもん。──しかもお母さんを見かけるし」

「危なかったんですよ。あんな場所に立っていたら、あの“通り魔”に何をされたかも分からないんですから……」

 そうよね、と寛子は呟いた。何にせよ助けてもらったのは事実なのだ。ありがとう、と頭を下げておく。

 それから、あの恐ろしい姿かたちを思い出して、身震いした。

「……あれが、前からニュースになっていた“通り魔”なのかしらね」

「恐らくそうでしょうね」

 光が首肯した。警察関係者が認めるのだ、間違いないのだろう。

「すでに都内一円で八十五人もの死者を出していた、異形の“通り魔”──。実は数日前、監視カメラがようやく本物の姿を捉えたんです。ですので、あのような姿であることは我々も知っていました。しかし白昼堂々、おまけに人目のある場所で犯行を行うなんて、前代未聞です」

 ちょっとトイレ、と智恵が立ち上がった。俺が事情を話しすぎて嫌気が差してるんですよ、と光が苦笑した。

 単独で八十人以上を殺害……。信じられない勢いで増えてゆく犠牲者の情報を前に寛子も戦慄したものだったが、本物を目の前にしてしまうと納得がいった。あの勢いで人を惨殺できるのなら、確かに造作もないだろう。

「銃もまるで効いていなかったみたいよね……。あの警官たち、大丈夫だったのかしら」

「機動隊が出動済です。必要に応じて、特殊班捜査係(SIT)も投入される準備があると聞いています。それで制圧できなければ……さらなる被害の拡大を懸念しなければいけなくなりますよね」

 光の表情は、暗かった。




 光によると、“通り魔”はほぼ深夜にしか犯行を行っていなかったらしい。それも人気のない場所を選んでいて、発見するのが困難だったのだという。

 人間のような形をしてはいるが、どう見積もっても人間より強靭かつ危険な相手だ。最悪の場合は自衛隊に害獣駆除の名目で出動を請うしかなく、そうなれば市街戦が展開されるおそれもある。

 そもそもあの“通り魔”が一体きりであるという保証など、どこにもない。もし一体であれば恐るべき行動範囲の広さを持つ生き物であることが、複数体であれば一層の被害拡大が考えられるわけで、戦々恐々としているのは警察関係者も同じなのである。

「それじゃ、就職して早々にこんな仕事に当たったというわけなのね」

「ええ。そうなりますね」

 問い掛けると光は苦笑いを浮かべる。自分の浮かべる笑いにそっくりだと、寛子は思った。目が全く笑っていないから。

 (ま、でも警察官が彼氏なら、あの子もひとまず安泰なのかしらね)

 トイレから戻ってきた智恵を振り返って話しかける光の姿に、ココアを啜りながら寛子はそっと胸を撫で下ろした。これならもう、智恵も大丈夫だろう。もう自分が目をかけてやる必要もない。


 無理に今の血縁を維持しようとする必要だって、ない。


 席についた智恵の表情は、厳しかった。

「お母さん、まだあのスーパーで働いてんの?」

「そうよ」

「じゃ、あの馬鹿のこともまだ養ってるんだ」

 義昭のことを言っているのは明白だった。席を外す必要を感じたのか、光がレシートを手に会計へ向かう。

 大袈裟なため息を吐いた智恵は、コーヒーのマドラーを寛子の目の先でくるくると回した。

「いつまであんなのと家族でいる気なの。そんなんだとお母さん、身体、壊しちゃうよ」

 あんなの、とまで言われてしまうのか。その時、寛子の胸を静かに貫いた痛みに、智恵はきっと気付かなかったことだろう。

「あたしは忠告したからね? ……あーあ、だからこの辺になんて戻ってきたくなかったのに。お母さんには会っちゃうし変な奴から逃げる羽目になるし」

「智恵」

 立ち上がりかけた智恵を、思わず寛子は呼び止めていた。中途半端に開いてしまった口が乾いて、思い付いた疑問で潤そうとした。

「まだ、怒ってるの。お父さんにも私にも」

「当たり前じゃん」

 即答した智恵の目は、冷たかった。

「大事な青春期に、お母さんたちのせいであたしがどんだけ大変な目を見てきたか分かるっての? 本当ならお母さんのことだって、肉親だと思いたくないくらい」

 会計を終えた光が、おい言い過ぎだろ、とばかりに智恵の肩を叩いている。いいのよと寛子は言ってやりたかった。

 苦労をかけたことくらい、誰かに指摘されるまでもなく分かっていたからだ。自分に落ち度があろうがなかろうが、『親』と一くくりにして評価されれば、そうなるのは分かりきっていた。


 (それに、今さら親子の縁が切れたところで、私にもあの人にも何の不都合もないわよね。──もちろん、私とあの人の間も)


 自分でも驚いてしまいそうになるほどに、智恵の発言を受け止めた寛子の心は、静かだった。

 大窓の外を、緊急車両がけたたましくサイレンを鳴らしながら通過してゆく。

 日常と非日常の混ざり合った気持ちの悪い感触が、夕方のファミレスを包み込んでいた。




    ◆




 正体不明の怪物は、やがて“ファントム”と呼ばれるようになった。

 池袋駅前での銃撃戦で大量の銃弾を喰らっても、ファントムは生存していたのだという。翌日、さらに翌日と、毎日のように東京のあちらこちらで昼夜を問わず人間が犠牲になり、駆け付けた警察隊との間で交戦が行われ、そしてそのたびに怪物は逃げ出して生き延びた。

 被害は拡大する一方であった。面子を潰された警視庁は、ついにテロ対処の任務を負う特殊部隊に出動を命令。重火器の使用も認め、意地でもファントムの撃破と制圧を試みようとした。生物学者や市民活動家から反対の声が上がったが、犠牲者の数がついに三桁に上った今、もはや保護を訴える声に賛同する国民などほとんどいなかった。

 これでも駄目なら、本当に自衛隊に出動を要請するしかない。捜査・追跡がいっそう熱を帯びる中、ついにその日は訪れた。

 赤ん坊の二ヶ月期限に迫ること、三日前。


 ──『速報です! 警視庁によりますと、先ほど文京区の湯島付近で通称“ファントム”と警察との間で銃撃戦が発生し、“ファントム”の死亡を確認したとのことです。繰り返します──』

 哺乳瓶を手に赤ん坊をあやしていた寛子の耳に、背後のテレビの声が突き刺さるように飛び込んできたのは、ちょうど時計が午後を回った頃だった。

 あれから一週間が経っている。“ファントム”の顔付きを思い出して身体を震わせた寛子は、テレビを振り返った。スタジオが画面から消え、ヘリコプターの空撮映像に切り替わっている。

 ──『ご覧いただいているのは現場の上空です。立ち並ぶ家々の間から大きな煙が立ち上っているのがお分かりいただけるでしょうか? 警視庁によりますと、付近の住民はおおむね避難が完了しており、現在のところ戦闘による犠牲者は確認されていないとのことです』

 興奮気味に上擦ったアナウンサーの声が、薄暗い部屋の中に揺らぎを伴って反響している。

 (本当だわ、あんなに煙が……。火事でも起こしたのかしら。或いは手投げ弾でも?)

 何にせよ、それだけの被害も已む無しとされるほどの強敵だったということなのだろう。重ね重ね恐ろしい話だ、と思った。

 結局、あれは何だったのだろう。なぜ人を狙い、あのように惨殺したのだろう。肝心の本体が仕留められてしまった今、それらの真実が白日の下に晒される日は果たして来るのだろうか。来てもらわねば、困る。

「紘一だって怖いわよねぇー。ね?」

 テレビ画面を指差して泣き出した赤ん坊をゆさゆさと揺らしながら、寛子は優しく笑いかけた。


 昨日一日と比べて赤ん坊が僅かに重くなっているように感じたのは、気のせいだと思って処理することにした。







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