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3 foregaTHER





 夢中になって赤ん坊の世話を続けているうちに、気付けば二ヶ月も残り十日に迫っていた。


「あなた最近、生き生きしてるわねぇ」

「何か良いことでもあったの?」

 最近、職場のスーパーでパート仲間に頻繁にそう尋ねられる。

 あらやだ、と寛子は幸せそうに笑い返すようにしていた。誉められることそのものは悪いことでも何でもないし、むしろ僅かに残っていた日々の疲れやストレスへの癒しにもなる。

「別にないですよ。家族は、相変わらずだし」

「娘さん、まだ家出したままなの?」

 寛子は頷いた。智恵が進学を機に家出したことを、パートの仲間は知っている。

「たまに連絡は来るんですよね、一月に一回くらい。それっきり」

「でも、旦那さんのDVに屈しなかったってことでもあるわけでしょ? うちの娘にもそのくらいの気迫は欲しいわぁ」

「そうは言うけどあなた、家出して独り暮らしなんて楽じゃないわよ? 東京はどこも家賃が高いし……」

 目の前の二人の間で会話が続き始めたのを見て、寛子は手元の仕事の続きに取りかかった。

 スーパーのパート従業員は、主婦の働き手が多い。だから更衣室などは井戸端会議の場所になりやすく、そういう場ではプライベートな話題も往々にして開かれがちだ。寛子の家の事情が知られているのも、そういう理由による。

 もっとも寛子はそんな現状を好ましく思っていたわけではない。いくらこの場所で愚痴を口にしたところで、問題は何も解決しないのだ。


 義昭は、酒癖がとにかく悪かった。怒鳴り付けるなど当たり前。滅茶苦茶に喚く、殴る、物を投げる、蹴るといった暴行を平然と行った。誰がどう見ても家庭内暴力なのだが、手のつけられないものと寛子は諦めきっていた。

 それに反抗したのが智恵だった。

『もう嫌! こんな父親と同じ空間で暮らしていたくない! 父親とさえ思いたくない!』

 運動部で鍛えた腕で何度も反撃し、挙げ句に強烈な罵言を叩き込んだ娘は、高校在学中に家を飛び出した。友達の家を転々としながら高校を卒業、寛子の支援を得て今年の春にアパートを契約。今は社会人の彼氏と同棲し、家賃を半分ずつ負担しているのだという。

 その後、義昭はついに寛子への暴力にも飽きたのか、家に寄り付かないようになった。平穏な日々こそ訪れたが、嬉しかったかと尋ねられれば答えに迷っただろうと今でも思う。

 家庭の崩壊なんて、こんなに簡単に、こんなにあっという間に起こってしまうものなのだ。

 或いはそもそも、最初から砂上の楼閣にも等しかったのかもしれない。




 たくさんの人の行き交う、日曜午後の池袋駅前。

 林立するビルの谷間に、パートの仕事を終えた寛子は歩み出した。いくつもの路線が交わるターミナルであり、おまけに副都心と呼ばれるにふさわしい商業やオフィスの集積があるだけあって、この駅前はいつも人々で込み合っている。せかせかと流れる人波に足を合わせながら、この二ヶ月間を思った。

 (あと、十日)

 カレンダーの日付が、脳裏でネオンサインのように点滅した。

 (あと十日が過ぎれば、あの子との日々は本当に終わってしまうのかしら)

 全く実感が伴っていないことは分かっていながら、寛子は嘆息した。だいたい、二ヶ月までしか書かれていないのは確かだが、そこから先にどうなるとは一言も言及されていないのだ。古代文明の預言と本質はさして変わらなかろう。

 とは言え、よく分からない鉱物を買わせて与えることにはやはり何かの意味があるはずだし、その意味が分からない以上、どうしようもないのかもしれなかった。

 (今日は、ええと……窒素ガスだったわよね)

 難しいことは考えないことにして、寛子は買い物を済ませようと鞄を握りしめた。


 凄まじい悲鳴が駅前広場に響き渡ったのは、その瞬間だった。

「キャアァァァァア──────ッ!!」

 続けざまに何人もの叫び声が聞こえた。その唐突さに、寛子は完全に固まってしまった。

 今のは、どこから。声のした方向を見るや、視界の先に映った雑居ビルの付近から人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ出してくる。

 その表情は、まるで悍ましい光景でも目にしたかのように引き攣り、恐怖で歪んでいる。

「何…………」

 呟いた刹那、先日目にしたばかりのニュースが頭を過った。──雑居ビルの隙間で、通り魔。まさか。

「なに突っ立ってんだよ! 邪魔だよっ!」

「あなたも早く逃げなさいっ!」

 絶叫が耳元を掠めてゆく。寛子はその流れに逆らって、一歩、また一歩と前に進んだ。その気がなくても身体が前に行ってしまった。

 今にして思うと、寛子は自然と“通り魔”に引かれていってしまっていたのかもしれない。

 声が、聴こえる。言葉に置き換えることのできない、黒板を引っ掻いたような声が聴こえる。あれは殺される人の断末魔なのか。目の前でいったい、どんな惨劇が繰り広げられているのか……。

 ごくりと息を呑んだ直後。視界が、開けた。


 通り魔という名称がまるっきり間違っていたことを、寛子はその時になってようやく知ることとなった。

 そこにいたのは、少なくとも人間ではなかった。いや、もしかすると人間だったのかもしれない。

 血塗れになって動かない人間の亡骸にむしゃぶりついていたのは、四足歩行をする不気味な生物だった。顔には目がなく、恐らくあったであろう場所には真っ暗な空洞が出来ている。口は耳元まで裂け、肝心の耳は千切られたように欠損し、鼻は醜く潰れていた。

 そんな異形の何かが、甲高く不快な声を上げながら遺体を食い荒らしていたのである。

 声が出なくなった。あんなに勇んで前へ出ようとした足が、今や棒のようになっている。動いて、早く動いて……。寛子は焦った。

 (早く逃げなきゃ、あの“人に”……!)

 遺体から“通り魔”が顔を上げた。ぐるりと辺りを見渡したそれは、取り巻く人々よりも一歩手前で自分を凝視する寛子に気づいたかのように、寛子へと顔を向けた。背後の取り巻きから、悲鳴が断続的に響いた。

 なぜだろう。その途端、寛子の心の中からは焦りがきれいに消え去ってしまった。

 諦めか、恐怖か──どちらも違うような気がする。一瞬でも張り詰めた気を緩めればその場に(くずお)れてしまいそうになるのに、寛子は今、“通り魔”の顔をひどく冷静に眺めている。




 (あなたは──)

 内なる心が、囁いた。

 (可哀想な子ね)




 その時、不意に強い力が腕を引っ張って、寛子はぐいと後ろに引き摺られた。

「きゃあ!?」

「何してるんですか! 下がって!」

 若い男性の声だ。倒れそうになった寛子の身体を、背後から逞しい腕が支える。傾いた視界に一斉に飛び込んできたのは、青い服を着た警察官たちだ。

「動くな! 手を挙げろっ!」

 拳銃を構え、五人の警察官たちはビルの谷間で蠢く“通り魔”に警告する。だが、そんなものに耳を傾ける“通り魔”ではなかった。耳がないのだから当然だ。

『ギィャアァア──!!』

 耳をつんざく絶叫を響かせ、“通り魔”は仕留めた獲物をぐしゃりと噛み砕いた。飛び散った血を浴びたその姿は、あまりにも鮮やか。

 そのまま“通り魔”は通行人たちの方を向き、飛び掛かろうとする。

 五挺の拳銃が火を吹いた。乾いた銃声が続けざまに空気を揺らし、“通り魔”の足がもたついた。その隙を狙って、さらに警察官たちは銃弾を撃ち込んだ。

 バンバンバンッ!

 ただならぬ空気が駅前広場を満たしてゆく。血の臭い、発砲音、そして獣の咆声──。


 呆気に取られていた寛子を覗き込んだのは、娘の智恵だった。

「お母さん!? 何してんの!?」

「智恵……!?」

 どうしてここに、と問うだけの余力は寛子にはない。“通り魔”から目を離した瞬間、それまで感じていなかったはずの恐怖が足元から全身に這い上がって来ていたのだ。

 と、寛子を支えていた男性が、ぐいと力を込めて寛子を起き上がらせた。

(ひかる)くん、ここ、危ないよ!」

「分かってる。とにかく遠くへ行こう」

 男性と智恵は頷き合った。さてはこの男性が、智恵の彼氏なのか。

 お母さんも早く、と智恵が叫んでいる。

 (どうなってるのよ、何もかも……!?)

 混乱を隠すこともできないまま、ただ手の引かれるままに寛子は逃避行を開始した。

 さらに数発の銃声が、そしてどよめきと悲鳴が背後で乱舞している。信号を渡った直後、後ろの車道を警察の走行車両がサイレンを唸らせながら通過した。いくつもの赤い光に照らされて、夕方の街はますます非常事態の様相を呈していく。





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