2 faTHER
家族って、何だろう。
時々ならず、寛子にはその答えを見失うことがある。
同居していれば家族なのか。そんなことはない。では、血の繋がりがあれば家族なのか。……寛子はその問いかけに、うんと頷くことができない。寛子自身、崩壊してゆく家庭の中で育ったからだ。
もともと仲の悪かった寛子の両親は、中学生の時に離婚した。懸命に育ててくれた母親は、寛子が結婚した翌年に自殺した。まるで、寛子に新たな居場所ができたことに安心して生気を失ってしまったように。後になって、母親がかつての父親からたびたび嫌がらせを受けていたことを聞かされた。
みすぼらしく、美しさとはおよそ疎遠だった孤独な寛子を、出会った時の義昭は本当に大切にしてくれた。だからこそ、寛子は惹かれたのだ。そしてそうであったからこそ、今に至るまで縁を切ることができないでいる。喧嘩になっても何もできない寛子を非難するばかりの娘のことも、やっぱり愛しいと思ってしまう。
──寛子は昔から、寂しがりな子供だった。
赤ん坊は男の子だった。寛子に男の子を育てた経験などないが、赤ん坊のうちは性別などあまり関係はない。童顔のうちに同じくらいの可愛さを秘めていることに変わりはない。
メモを見返しても特に指定はなかったので、男の子の名前は『紘一』と決めた。実子でないわけだから、戸籍上の関係はどうなってしまうのだろう。難しいことは分からないので後回しにしようと思ったが、お世話を任せる相手など当然いないので、パートの時間を変更する必要はあった。
どうせ義昭は帰ってこないだろうとは思いつつ、見つかったら厄介なことになるのは目に見えている。酔った義昭に何をされるか分かったものではない。ちょうど使っていない押入れがあったので、いざという時には襖で隠せるようにベッド代わりに使うことにした。
豊島区、雑司ヶ谷。地下鉄副都心線の駅から程近く、雑然とした住宅街に埋もれるように建つ木造アパートの二階の一室で、その日、寛子に新たな家族が誕生した。
メモに書いてあることは、ただ、指定の日が空いたら指定の物を購入すること。それだけだ。
守らなかったらどんなペナルティが待ち受けているのだろうか。一度ならず何度も、寛子は不思議に思った。
(だってあんな場所に放置したんだもの、誰が拾ったかなんて分かりはしないわよね……)
とは言え、守らない理由も特になかった。パートの仕事はそれなりにこなしていたので、義昭へ渡す分を考えてもそこまで収入が少ないわけではない。加えて寛子には、密かに貯め続けてきた箪笥の中の貯金もあった。
酸素ガス、黒炭、大量の水と塩、窒素ガス、カルシウム、リン、硫黄、カリウム、マグネシウム……。インターネットで買えるものもあれば、買えないものもある。買えない場合は商店街で探し回ったり、池袋の繁華街まで足を運ぶ羽目になった。しかしその努力を怠らなければ、必要なものは大抵揃えることができた。
今になって考えてみると、この町は子育てには向いていたのかもしれない。大塚や池袋の駅前に出れば店はたくさんあるし、細々とした公園は家の周りには無数に立地している。雑司ヶ谷霊苑のような緑地もある。区役所も至近だ。何年ほど先のことになるのか分からないが、小学校からの距離も決して遠くはない。
(一つおかしなのは、メモの指示が二ヶ月後までしかないってことなのよね)
寛子は首を傾げた。二ヶ月後と言えば、十二月だ。この期間に何か意味でもあるのだろうか。或いは本物の親が、迎えにでも来るというのか。
その時は、その時だ。寛子はそう考えることにした。
紘一──赤ん坊は、あまり泣かない子だった。たまに泣いても声が小さく、かつ控え目だ。アパート住まいの寛子には助かるが、これで正常なのかと時おり不安になる。
(智恵はもっと元気に泣く子だったのに……。やっぱり個人差ってあるものよね)
そんな感想を抱きつつ、泣き出すと寛子はすぐさま駆け寄って、「はいはい!」とお世話をしてあげる。
昔取った杵柄は、案外すぐには廃れないものだ。赤ん坊をあやすにはどうしてあげたらいいのか、寛子は感覚的に理解できていた。例えば、興味の対象を何かにすり替えてあげたり、或いは安心させてあげると、赤ん坊は泣き止むことが多い。
昔を思い出しながら赤ん坊を育てていくうちに、寛子はいつも懐かしい思いに駆られた。かつてこんな風にして育てた智恵は今、どうしているだろう。あの頃からほとんど手伝ってくれようとしなかった義昭は、奔走する寛子をどんな目で眺めていたのだろう。
そんな時、寛子は気合いを入れるようにしていた。余計なことを考えては駄目だ、今は目の前の信に集中しなさい──と。
そんなところも、昔と同じだった。いや、変わっていない、と言った方が正しいかもしれない。
指示通りに買ってきた物を、指示通りの場所に配置して。後はひたすら、普通の子育てを続ける日々。
確かに置いたはずのそれらは、なぜか翌朝には必ず忽然と姿を消していた。初めのうちこそ不審に思い、泥棒の侵入を疑った寛子だったが、もちろん実害があったわけではない。日々高まっていく子育てそのものの楽しさの前に、やがてその疑問も徐々に薄れていった。
平和な日常が、続いていた。
東京都心を中心に、不可解な事件が続々と発生し始めたのは、その年の十一月のことである。
有り体に言えば、それは通り魔殺人であった。夜間、人気の少ない場所を歩いていた通行人が狙われた。老若男女の区別も体格の差別もなく、しかも被害者はまず間違いなく死に至るという残虐性の高さであった。
だが、驚くべき点はそのさらに先にあった。──警察の発表によれば、遭遇した全員が心臓もろとも左胸を大きく切り取られ、かつ全身の血液を抜かれていたというのだ。犯行現場には血の広がっていた痕跡こそあれど、血そのものはほとんど残っておらず、ただ胸のあたりを激しく抉られた遺体が仰臥しているばかりであったという。
本来、血を抜くというのは膨大な量の水や高度な医療知識を要する行為とされ、とうてい生易しくやってのけられることではない。医療従事者でも簡単に行えないようなことを、なぜ通り魔は短時間でやってのけることができるのか……。通り魔の姿を見たものはまだおらず、そのあまりの不可解さに、犯人は宇宙人だという都市伝説めいた言説までもが説得力を帯びてしまう有り様だった。
中央区、台東区、墨田区──少しずつ拡大してゆく被害地域は、ついに十一月中旬になって豊島区をも飲み込んだ。池袋の西口の雑居ビル街の路地裏で、会社帰りと見られるサラリーマン二人の凄惨な遺体が発見。警視庁が厳重な警戒を求める中で、次は我が身かとばかりに人々は怯えるばかりであった。
──死体の左胸、何か大きな猛獣に食い破られたみたいになってるみたいだぞ──。
出所の明らかでないそんな情報がネット上に出回り始めるのは、その少し後の話である。
◆
赤ん坊──紘一を育て始めて、ついに一ヶ月が経過した。
さすがに寛子も慣れてきたもので、初めは大変だったパートとの両立にも今はさほど苦労を感じない。赤ん坊が大人しいことが、とにかく寛子には大きな救いであった。
それに、大人しいことのメリットは単にあやす手間が少ないだけではない。時々ふらりと家に帰ってくる夫の義昭から、上手いこと存在を隠すことができているのも、赤ん坊がめったに泣かないからに他ならなかったのである。
(油断はできないけど、紘一ちゃんのお陰で平穏な生活が保たれてるのも確かよね。本当、よかった……)
押入れの中の簡易ベッドに埋もれて寝息を立てる赤ん坊を、毎晩、月明かりに照らされながらじっと眺める。そうしている時間が、寛子には一番に幸せだった。いつまでも駄目なままの夫の存在も、いつまでも自分や夫を遠ざけようとし続ける娘の存在も、そうしていれば忘れることができそうだった。
その日の昼、唐突にチャイムが鳴った。
咄嗟にインターホンを覗くと、スクリーンに義昭の姿が映っている。来たわね、と寛子は身構えた。それから急いで襖を閉めてしまうと、玄関のドアを開く。
くわえた煙草を派手に吹かしながら、スカジャン姿の小柄な男が上がり込んできた。
よう、と男は低い声で言った。
「金、あるかな」
「……ありますよ」
マニュアル通りの回答を読み上げるように、寛子は答えた。
パチプロを自称する義昭は、実際、そこそこの腕の持ち主ではあるらしい。羽振りの良い時はこの家には寄り付かず、風俗に通ったり安いホテルで夜を過ごしているのだという。義昭自身が、そう話していた。池袋の北口にはいいホテルがたくさんあってな──だとか。
こんな生活を何年続けてきたのだろう。娘の智恵が物心ついた頃から、だったような気がする。それまで続けてきた仕事をあっさりとやめて、職を転々とするようになり、そして今のように……。
(今みたいに、私が貢ぐみたいな生活になったのよね)
漂ってきた煙草の臭いに冷静な思考回路を覚まされて、茶封筒に入った札束に寛子は視線を落とした。
羽振りのいい時は家に寄り付かない。逆に言えば寄り付くのは戦果が芳しくないからで、義昭の要求金額も自然と大きくなる。
このお金があったら、赤ん坊にももっと投資をしてあげられるのに……。
寛子は最近、そう思うようになった。
「おい、どうしたんだよ」
義昭の声に急かされて、慌てて玄関に向かう。
こんな習慣が生まれてしまったのも、元はと言えば当時まだ幼かった智恵のためだった。父親が機能しているとは言い難かったのは事実でも、離婚して片親になればそれはそれで智恵に迷惑がかかってしまうことになる。一人親の家庭の大変さは、寛子自身がよく知っていた。だから意地でも義昭と離縁するわけにはいかなかったのである。
けれど考えてみれば、その智恵が家を飛び出し独立採算に移行してしまった以上、最早この関係を保つ意味なんてないのかもしれない。
意味、なんて……。
茶封筒を受け取り中身を調べる義昭のしわだらけの手を、寛子は茫然と眺めていた。意味なんて何でもいいから、とにかくとっとと家を後にして欲しかった。赤ん坊の存在を気付かれたくなかった。
一ヶ月前には決して感じたことのない、新鮮な感情だった。
札束をガサガサと無造作に茶封筒に仕舞い込んだ義昭は、ありがとな、と呟いた。コントラバスを弦で 引っ掻いたような低い声が、赤ん坊を起こしてしまいはしないか。寛子は内心、冷や汗ものだ。
「お前、まだあのスーパーでバイトしてんのか」
「ええ。せっかく雇っていただいてるし」
「そうか。……俺もあの辺りのパチスロ、よく行くんだけどさ」
義昭は頭の後ろを掻いた。
「近頃、通り魔だか何だか──なんか物騒な事件が起きてるみたいだよな。お前も気を付けろよ」
そんなのはお互い様だ。むしろ、独りでふらふらと歩いていそうな義昭こそ気を付けてほしい。そう考えてから寛子はふと、義昭がいなくても別に不便を感じないことを思った。
「そうね。気を付ける」
そんな気のない返事を返してしまったのは、多分そのせいだ。
不快な煙の臭いが、玄関先に立ち込めている。もういいから立ち去ってくれないだろうか。苛々し始めた寛子を前にしても表情ひとつ変えないまま、義昭は何気なく話題を換えた。
「お前、奥に何か隠してるのか」
寛子が戦いたのは言うまでもない。
そんな様子はおくびにも出さなかったはずなのに。思わず目を見開いてしまった寛子を見て、義昭の瞳がぎらりと光った。
「……やっぱりそうか。俺に見せると不都合なものでもあるんだな」
「なんで……?」
「お前、何度も後ろをチラチラ見遣ってただろうが」
完全に無自覚だった。
義昭が靴を脱ごうとしている。焦った寛子は、何とかして義昭を留め置こうと両手を伸ばした。
「何もないわ。何もないから」
「嘘つけ。さっき認めるようなこと言ってただろ」
「本当に何も──」
「うるせぇ! 気になるんだよ!」
義昭が大声を出した。肩が思い切り跳ね上がった。
ああ、だからそんな声を出さないでほしい。と言うか、出すなと言いたい。これで赤ん坊が泣き出してしまったら……。寛子は気が気ではなかったが、かと言って義昭に口答えするほどの勇気も持ち合わせてはいなかった。
義昭は、怖い。怒ると見境がつかなくなる。そして今、隠し事をされたと感じている義昭には怒りのスイッチが入りかけているのだ。
「いいから見せてみろよ、な。箪笥貯金くらいで別に腹立てたりしねぇよ」
「い、嫌……」
「いいからよ!」
どんと胸を衝かれ、義昭以上に小柄な寛子は簡単に押し退けられてしまった。
大きな足音を立てて義昭が部屋に入っていく。その目が真っ先に襖に向かうのが見えて、思わず目眩がした。動物の勘でも持ち合わせているのか。
(駄目)
寛子は目を固く閉じた。
(見つかってしまう……。見つかったら何て言われるかしら、やっぱり捨てられるのか。それならまだしも、手頃なサンドバッグみたいな扱いを受けたら……!)
思いはブレーキにはならず、押入れをじろりと睨んだ義昭は襖を思い切り開け放った。
「なんだこりゃ」
素っ頓狂な声が響く。
「お前、押入れで寝起きしてんのか」
予想を裏切る反応に、寛子は顔を上げた。押入れを見る。そこに赤ん坊の姿は、ない。
なぜ。なぜだ、確かにそこに隠したはずなのに。
「これ、お前の布団だよな」
問われた寛子は頷いた。わざわざ小さなサイズを入手する手間を省くため、赤ん坊のベッドには自分の布団を転用していたのだ。
どうやら義昭は都合のいい勘違いを犯してくれたらしい。
「布団が煎餅みたいになってきたから、新しいのを買ったのよ。古いのはそこに置いておいたのだけど」
ふぅん、と唸った義昭の顔から、急速に興味や関心が失われていく。もう二ヶ月以上前のことではあるが、布団を新調したのは事実だった。だからこそ赤ん坊に布団を提供できたのだ。
「おかしいな、確かにここを見てたと思ったんだがな。……お前、それを知られるのがそんなに恥ずかしかったのかよ」
「…………」
便利な誤解は助長しておくに限る。そう思って、何度も首肯する。
まぁ、いいや。つまらなそうに嘆息した義昭は、それから少し部屋の中をうろついたかと思うと、家を出て行ったのだった。
赤ん坊は、どこに!?
金縛りが解けた寛子は、すぐさま押入れに駆け付けた。本当に、本当にここには赤ん坊はいなかったのか? だとしたら行方を探さなければ!
(紘一ちゃん──!)
叫びながら一気に襖を開くと、そこには赤ん坊の姿があった。
声が出なくなった。ぽかんと口を開けて突っ立っている寛子を前にして、赤ん坊は元気に泣き出した。今まで我慢してたんだよ、とでも言いたげなその勢いに、寛子はまたも慌てて赤ん坊を抱き上げた。
(あの人には、この子が見えなかった……?)
そんな馬鹿な、裸の王様でもあるまい。現に自分だって姿を見なかったのだから。だが、そうとでも捉えなければこの現実を受け止めることができそうにない。
しかしともかく発覚しなかったわけだし、結果オーライと言えばそこまでなのだろう。
玄関の閉まった部屋の中に、いつも通りの空気の匂いが急速に充満してゆく。ほっと一息をついた寛子は、義昭の出て行ったドアをじっと見つめた。
以前、義昭に対する一切を寛子は諦めていた気がする。どうしようもないのだと、どうせこれからも延々と切れない縁なのだと。
だが、今は、違う。
(あの人とこの子を選べって、誰かに言われたら)
寛子はドアを睨み付けた。
(私は、この子を選びたいわ)
自分の中で、家族という概念にまた新たなヒビが入ったことに、寛子は今さら驚きはしなかった。




