1 diTHER
寛子は、立ち尽くしていた。
駅の雑踏が遠く呆けて聴こえる。ざわめきに満たされたこの場所で、自分と、眼前のコインロッカーとを取り巻くほんの一部の空間だけが、まるでそこだけ切り取られたように鬱陶しい沈黙を湛えていた。
中へ入れるつもりで左手に掲げたビニール袋を、寛子はそっと床に下ろした。うっかりすると手を滑らせて落としてしまいそうだ。中の卵が台無しになってしまう。
(どうしよう)
困惑と焦燥の狭間で、寛子はぽつりと呟いた。
また、雑踏が大きくなる。ホームに入線する電車の振動が、寛子の不安を余計に煽り立てた。
何気なく開いただけだったはずのロッカーの中に、赤ん坊がいた。
西山寛子は、今年で四十五歳になる。
東京の片隅、豊島区の雑司ヶ谷に生まれ、ずっとこの町で育ってきた。育ちがよかったわけではない。家は貧しく、兄弟もおらず、金銭面の事情もあってやっと高校を出ることしかできなかった。
そんな寛子と二十歳で結婚した今の夫・義昭は、無職だ。そもそも定職に就いた試しがない。あっちこっちの仕事に手をつけては、これは俺に向いてない、あれは俺に向いてないと言って、今はパチンコと酒に入り浸る生活を送っている。当然その生活費は、スーパーのパートタイムで働いている寛子の収入から捻出される。
家にも寄り付かず、居たら居たで酔った勢いで暴力を振るう義昭に愛想を尽かし、一人娘の智恵は去年、家を出ていった。独り暮らしをしながら奨学金を受け取り、大学に通学している。
それが、寛子の家族の全てだった。
西山家の秩序は、あるいは安寧は、回復を諦められるほどの昔から崩壊したままだ。
◆
「…………」
駆け込んだ軒下で鍵を取り出し、無言でドアを解錠する。少し、息が上がっていた。
誰にも見られなかっただろうか。いや、見られたくらいならば構わないのだ。自分が何を持っていたのかを知られなかったか。不安は募る一方だった。
ともあれ、咎め立てられることもなく自宅に帰りついたことに、寛子は大きなため息をついた。それから、布製の買い物袋の中を、そっと覗き見た。
──そこにはあの赤ん坊が、すやすやと眠っていた。
意味の見出だせない下らない日常が、今日も仕事で消えていく。大塚駅前のスーパーマーケットでのパートの仕事を終え、寛子はちょうど家路につくところだった。商店街の賑やかさに晒されるのが嫌で、どこか適当に探したコンビニで夕食を買った。それから銀行に立ち寄る用事を思い出して、邪魔になってしまった夕食を保管しようと駅のコインロッカーに向かったのだ。
そこに、あの赤ん坊がいた。ぐっすりと眠る赤ん坊は、おむつ以外には何も身に付けていなかった。
(捨て子、よね。きっと)
ドアを後ろ手に閉めた寛子は、赤ん坊をそっと抱き上げた。
都会ではよく聞く話だった。避妊を怠った結果として生まれてしまった『望まれない子供』たちが、この世に生まれ落ちた直後、母親たちの手で公共空間のロッカーに捨てられるのである。しかも大抵は施錠されていて、異臭に気付いた誰かに発見される時には命を落としていることが多い。今回、寛子がこうして見つけられたのは、鍵のかかっていない箱に無造作に捨てられていたからだった。
(駅の中だから空調は効いているとは言え、そのままだったら確実に餓死してたわよね。可哀想に……この子に罪なんて、あるはずもないのに……)
赤ん坊を撫でながら、寛子は目を伏せた。こんな可愛らしい子を、いったいどこの親が捨てたのだろう。親は自分のしたことを弁えているのだろうか。
ロッカーを前にしたあの瞬間も、同じことを考えたのを思い出した。
赤ん坊が元気に泣き出した。きちんと泣けることに安堵しつつ、慌てて寛子はゆらゆらと腕を回してあやしてやる。あやしながら、袋の底を眺める。そこに一枚の紙が落ちているのが、見えた。
(……あの妙なメモを書いたのも、親なのかしら)
泣き止んでじっと寛子を見つめる赤ん坊を見つめ返した寛子の脳裏を、鮮やかな違和感の残り香がふわりと掠めて行った。
赤ん坊のそばには、こんなメモ書きの書かれた紙が落ちていたのだ。
【私には、もうこの子を育ててあげられる力がありません。この紙を見つけた、親切な貴方。貴方にこの子を託させてください。
普通に育ててくださって構いません。ただし一つだけ、守って頂きたいことがあります──】
守って頂きたいこと。それより先には、何やら小難しい元素や物質の名前が延々と列挙されている。そして、それらの正確な分量。購入すべき日付。
『指定の日になったら、夜にこの子を寝かし付けた後、どこでもいいので部屋の隅にこれらの物を置いてください。貴方に害は及びません。』
メモはそう続いている。
意味が分からなかった。分かるはずがない。用途も目的も一切書かれていないし、そもそもそれらが何を構成する物質なのかすら、寛子にはおよそ見当がつかない。
だが、鉄の塊やリンまで含まれているところを見ると、まさか赤ん坊に食わせるというわけではなかろう。だいたい食わせろとも書いていないのだ。
それに、と思った。
(事情は分からなくても、それさえ守ればこの子を預かることができる……のよね?)
寛子は赤ん坊を見下ろした。腕の中で、赤ん坊は再び安らかな眠りに沈んでいる。赤ん坊から見た自分は何に見えるのだろう。鬼子母神、という名前がなぜか真っ先に浮かんだ。
どうせ、誰も帰っては来ないのだ。
義昭は遊び歩くばかりで、滅多に家には立ち寄らない。ことあるごとに義昭と大喧嘩を繰り返していた智恵に至っては、もう二ヶ月も顔を見ていない。
寒風の吹き始めた十月の西山家に、人の気配は寛子だけだ。荒川を遡上する風に晒され続けて、この一家はとうの昔に崩壊してしまった。だったら構わないではないか。寛子が何をしたところで、見咎める声はどこからも聞こえては来ない。
寛子は寂しかった。これでも昔、義昭のことを寛子は深く愛していたのだ。たった一人の愛娘のことだって、ひときわ目をかけて育ててきたつもりだった。けれど今はもう、そのどちらにも手は届かない。今となっては届いてほしいとも思えなかった。
(本来なら警察か駅員に通報すべきだったんでしょうけど、そうしたらこの子は施設送りにされるのよね)
産毛の乏しい頭を、寛子はよしよしと優しく撫でる。
まだ、覚えている。この手で智恵を育てた時の感覚やしぐさ。まだ寛子には、母親としての能力が確かに残っている。
(せっかく見つけたんだもの。私がこの手で、大きくなるまで育ててあげたい)
そうすれば、また家族ができる。
そうすれば、少しは孤独を忘れられるかもしれない。
そうよね、と自問した。薄暗い部屋の向こうで、机の上のビニール袋がカサッと音を立てた。
こうして寛子は、決意したのだ。




