84.討祓
母に会う度、きちんと食べているか心配された。
面会時間が終わった後、一人で帰った暗い家の寒さを思い出す。
母を心配させない為だけに摂った一人の食事。何を食べていたか思い出せない。
冬の夜は長く、一人の家は広かった。
寝て起きればすぐ朝になる筈が、なかなか眠れなかった。
呪われた自らも、この世の全てを拒めばよい。
……ホンマはもっと、母さんが生きとう間に甘えときたかった!
誰もがお前の求めに応じず、助けには来ない。
……死んでまうて、わかっとったら……もっと早よ、父さんにも言うとった!
自らも、この世の全てを拒絶し、呪えばよい。
……もっと早うに、父さんに来て欲しい言うとったわ!
「視界の外なる焔光陽炎纏い、慧し剣、儺やらい、穢れ討ち、外なる碍断て、慧し剣」
右手の指先が、固い物質に触れた。
右足の甲の上だ。
力いっぱい掴んでドブ水の上に引き揚げる。
誰もがお前を認めず顧みず、気にも掛けない。
誰もがお前の望みに応じず、心を満たさない。
誰もがお前の求めに応じず、助けには来ない。
刃が指に食い込み、ドブ水の上に鮮血が滴る。
「薙ぎ祓え、祓い清めよ、破魔の剣、日の箭霊呼び、弓弦鳴らせ」
……ホンマはもっと……ちっさい時みたいに、ずっと、三人で! 家族みんなで……家に! 一緒におって欲しかったんや!
政晶の頬を熱い滴が伝う。
そのまま一気に引き上げ、剣を持ち替えた。政晶の血と涙が触れたドブ水に穴が穿たれる。
〈よくぞ持ち堪えた。このまま続けよ。我の力を解放する〉
手の中に帰ってきた建国王の声が、政晶を力強く励ます。
政晶は血でぬめる柄をしっかりと握りしめた。痛みが却って意識を鮮明にする。
建国王の涙が若葉色に輝く。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
用済みになれば、この国からも、拒絶される。
誰も望まないタダの子供を何故、産んだのか。
穢れと瘴気のドブ水が、再び二人を分かとうと、激しく波打つ。
政晶はそれに構わず、足を肩幅程度に開き、左足を半歩前に出した。
ドブ水が顔に跳ねたが、気にせず両手で剣を正眼に構え、大きく円を描く。ドブ水が円形に抉れ、政晶の正面からなくなる。
剣を顔の正面で横に構え、一呼吸止める。
左手を離し、右手だけで横に薙ぐ。
この世ならぬ瘴気のドブ水が斬撃から逃がれ、政晶の右側に大きく空間が拓いた。
切先を天に向け、ゆっくりと前に降ろし、正面に突きつける。
封印の導師と護衛の騎士、使い魔のクロエと主峰の心の姿が見えた。
慈悲の谷と欺く道は、休まず呪歌を演奏している。
鍵の番人が、童歌のような癒しの呪文を唱える声も聞こえた。
そのまま体全体を使った大きな動作で空中に文字を書く。
天の理、地の恵み、水の情けと火の怒り、
我にその大いなる助力与え、この血に熱帯び、心に勇気灯せ。
蒼穹の許、鵠しき燭よ、
如何なる疏明も却ける峻厳なる光よ、
咎人の陰かな企み劾け。
建国王が示す文字の映像を慎重に剣でなぞった。一文字ずつ、正確に。
視界の外なる焔光陽炎纏い、
慧し剣、儺やらい、穢れ討ち、
裡なる碍断て、慧し剣。
魔の目貫け、慧し剣、儺やらい、魔滅せ。
日々に降り積み心に澱む塵芥、洗い清めよ、祓い清めよ。
視界の外なる焔光陽炎纏い、慧し剣、儺やらい、
穢れ討ち、外なる碍断て、慧し剣。
魔の目貫け、慧し剣、儺やらい、魔滅せ。
夜々に降り積み巷に澱む塵芥、洗い清めよ、祓い清めよ。
先に鍵の番人の術が完成し、手の痛みが引いた。
政晶は、祭壇の広場の外で見守る大人たちに頷いて見せた。
鍵の番人が再び、追儺の呪歌を歌う。
薙ぎ祓え、祓い清めよ、破魔の剣、日の箭霊呼び、弓弦鳴らせ。
巡り繰る因果の糸のその先に警めて戒めに忌まし魔を縛めよ。
破魔の剣、日輪翳らす雲を薙ぎ、月を翳らす靄を祓え。
射交矢、祝的し、祓えども心許すな、
三界の魔誘う深淵の螺旋、我欲の沼を出で祓い清めよ。
日の箭霊呼び、弦打ち残心せよ。
ドブ水が、政晶の体の周囲から居なくなる。
剣の軌跡が、光の弓を創り出す。刃が照り返す夏の日射しが無数の矢となって降り注ぎ、ドブ水を穿つ。
政晶は剣を文字の形に振るい、ドブ水を追うように祭壇の広場を縦横に舞う。




