81.母親
それに触れられた途端、心の奥底に沈めた疑問が、意識の表層に浮かび上がってきた。
……心残り……
政晶は、母の最期の顔を思い出した。
「政晶」と我が子の名を呼ぶ母の声が、心に甦る。
何か心残りがあっただろうか。
母は、政晶をこの世に置き去りにして逝った。
母にとって、高齢出産した一人息子の政晶を、成人まで育てられず、何かと未熟な父に託して逝くことは、心残りにならなかったのか。
病に斃れ、まだ親の手を必要とする我が子をこの世に残して逝くことは、母にとって心残りにはならなかったのか。
無理矢理にでも好意的に考えれば、親子程も年の離れた若い夫を、我が子の「父親」として、信じて逝ったのだろう。
託された父は、政晶を家に置き去りにして仕事に行く。
残された父子は、何も残したくないとの遺言に従い、母の形見はおろか、遺骨と遺灰さえも残さず海に流した。
墓も建てなかった。一枚の写真も残っていない。
会社には「役員」の功績が残っているのだろうが、この世に「母」の痕跡はひとかけらもない。
母の思い出の品は、何ひとつ残っていない。
政晶には、形見に思いを寄せ、母を偲ぶことすら許されなかった。
実子である政晶でさえ、母とは全く似ていない。
鏡で父とよく似た顔を見る度に母の面影を探すが、全く見つけられなかった。
毎朝、顔を洗う度に、この世に取り残された寂しさに零れそうになる涙を堪えた。
父は、妻子との暮らしよりも、仕事を選んだ。
仕事に負けた一人息子の政晶には、今更、父子として暮らすことはできなかった。
父が政晶に掛ける言葉の何もかもが白々しく思え、何ひとつ信じられず、父の口からは何も聞きたくなかった。
余計なことしか言わず、どうせ必要なことは何も言わないのだ。
耳を傾ける必要はない。
受け容れる必要もない。
父も政晶を必要としていない。
その証拠に、政晶が一カ月も電話もメールも届かない外国へ行くと言うのに、見送りすらしなかったではないか。
今更のように取り繕う言葉からは耳を塞ぎ、顔を背け、自分を顧みなかった報いを受けさせればよい。
そもそも、何故、家系の呪いを知りながら、結婚したのか。
そもそも、何故、母に危険を負わせてまで、産ませたのか。
何の力も持たない政晶を、誰も望まない子を、半視力で、何の役にも立たない政晶を、仕事に劣る二の次の子を、何故、産んだのか。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
ムルティフローラ王国の上層部は、巴家の誰にも期待を懸けていない。国民も、叔父の力をアテにしているだけだ。
自分たちを守ってくれる力を持ってさえいれば、誰でもいいのだ。
三界の眼と強大な魔力を持って生まれた叔父も、上層部の一部にとっては目障りでしかない。
長くは生きられず、子孫を残せない体にも関わらず、命を狙われていた。
今の政晶は、ただ条件に合う体だと言うだけで、力を持たない自分を受け容れてくれない国に、いいように使われ、丸々一カ月を費やそうとしている。
用済みになれば、この国からも拒絶される。
力を持つ叔父は利用価値があるから、黒山羊の王子として今も守られ、生かされているに過ぎない。
では、力を持たない政晶はどうなるのか。
科学文明圏に戻れば、何の力も持たない政晶は、再び王家の徽である痣を隠し、魔法の国の血族であることをひた隠しにして、生きて行かねばならない。
力を持たない人々に知られれば、好奇の目に晒される。
力を持たない人々は、王家に縁ある政晶が、何の力も持たないと知れば、身勝手に失望するのだ。
母は、政晶をこの世に置き去りにして逝った。
父は、政晶を家に置き去りにして仕事に行く。
仕事に劣る政晶は、父に必要とされていない。
二の次の子を何故、危険を冒して産んだのか。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
用済みになれば、この国からも、拒絶される。
誰も望まないタダの子供を何故、産んだのか。
誰もがタダの子供の政晶を必要としていない。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
この世の全てが拒むなら、自らも拒めばよい。
呪われた自らも、この世の全てを拒めばよい。
自らも、この世の全てを拒絶し、呪えばよい。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
無様に生き恥を晒すなら、全ての滅びを望め。
呪われた自らも、朽ちながら全てを拒むのだ。
自らの呪いをこの世の全てに向け滅びを望め。
政晶は、胸の奥に火で焙られたような痛みを感じ、我に返った。




