79.奉納
慈悲の谷が弦を爪弾いた。その和音に、欺く道の木管が、やわらかな旋律を乗せる。
鍵の番人の幼い声が、力強い歌に魔力を乗せ、響き渡った。
魔法の歌が山間に谺する。
ドブに漣が立ち、祭壇の広場の隅々にまで広がる。
追儺の呪歌に怯えて震え、見る間に萎縮し、嵩を減じた。
建国王が政晶の脳裡に映像を展開し、最初の動作を示した。
何度も練習した型だ。
政晶はそれに従い、ドブの一歩前に立って呼吸を整える。
足を肩幅程度に開き、左足を半歩前に出した。
ドブは政晶の鳩尾の高さにまで萎縮している。
政晶は建国王の剣を抜き、両手で正眼に構えて大きく円を描いた。
刃がドブ水を抉り、政晶の正面から消えてなくなった。ドブ色のゼリーをスプーンで抉ったような穴から、祭壇の広場に一歩、足を踏み入れる。
その場で立ち止まり、剣を顔の正面で横に構え、一呼吸止める。
左手を離し、右手だけで勢いよく横に薙ぐ。
瘴気と穢れのヘドロが音を立てて退き、政晶の右手側に数歩分の空間が空いた。
露わになった石畳を歩きながら切先を天に向け、ゆっくりと前に降ろし、正面に突きつける。政晶の後ろでヘドロが閉じ、前に道が拓いた。
政晶は振り向かず、何度も練習し、体で覚えた文字を大きな動作で空中に書いた。
天の理、地の恵み、水の情けと火の怒り、我にその大いなる助力与え……
刀身がヘドロに触れる。
水に焼け火箸を突っ込んだような音が立つ。湯気は上がらず、ヘドロが剣の軌跡に消えた。
政晶は、建国王が示す文字の映像を剣でなぞりながら、一歩ずつゆっくりと、祭壇の広場の中心に向かう。
行く手のドブ水の中で、捻じれた翼が羽ばたこうともがいている。
自分はあいつより優れている。
誰もが認める強い力が欲しい。
自分にもっと力があったなら。
空を行くだけの魔力が欲しい。
飛べれば、誰もが認めるのに。
ヘドロに塗れた歪な翼は、羽毛の代わりに人間の指が生えていた。
優れた自分に相応しい強い力。
この空を飛べたならいいのに。
優れた自分には空が相応しい。
飛んで下の人を見降ろしたい。
もっと上へ。空の高みへ飛ぶ。
翼の指がドブ水を跳ね飛ばす。
ヘドロは政晶の頬にべったりとこびり付いた。政晶は嫌悪感に顔を歪め、左袖で頬を拭いながら、右手の剣で文字を書いた。
視界の外なる焔光陽炎纏い、慧し剣、儺やらい、穢れ討ち……
ドブの表面で泡が弾け、何事かブツブツと呟いている。その無数の呟きが、封印の導師達が奏でる呪歌をかき消す。
どうせ何も巧く行く訳がない。
そんなのが成功する訳がない。
成功の見込みなんてないから。
余計なことで回り道できない。
どうせ何をしても無駄になる。
失敗するのが目に見えている。
失敗すればみんなに笑われる。
失敗するようなことは諦めろ。
失敗するのは無駄で恐ろしい。
政晶は思わず立ち止まり、振り向いた。
剣舞を止めた僅かな隙を埋めるように、ドブが押し寄せる。
いつの間にか、広場の中程まで進んでいた。
今来た道はヘドロに埋もれ、もう後戻りはできない。
広場の端は遥かに霞み、宿舎も導師たちが居る筈の場所も見えなかった。
……えっ? 嘘? ここって、こんな広かったか?
〈惑わされるでない。魔の目貫け、慧し剣、儺やらい、魔滅せ。夜々に降り積み……〉
建国王に促され、続きを舞う。
ドブの呟きに呪歌をかき消され、政晶は気が気でなかった。
歪な翼に刃が触れ、何の手応えもなく両断した。翼から指が落ち、ヘドロに沈む。




