68.視力
食事を終え部屋に戻ると、鍵の番人が眠い目をこすりながら〈灯〉に命じた。
「舞い手さんに視力を分けたげて」
「御意」
〈灯〉は荷物から筆とインクを取り出した。
政晶に左手を出すように言い、掌に複雑な紋様を描く。
政晶はくすぐったかったが、なるべく揺らさないように堪えた。〈灯〉はインクが乾かない内に政晶の手を握り、呪文を唱えた。
左手から、体の中心に光が流れ込む。中心で渦を巻いた光は、解けながら体の隅々に広がって行く。
目を開けても閉じても眩しい。政晶は光に翻弄され、立ち竦んだ。
全身に行き渡ると、光は大人しくなった。〈灯〉が手を放すと、眩い輝きはなくなり、目の奥に仄かな熱だけが残った。
政晶は恐る恐る瞼を上げた。
いつもの視界だ。
特に亡霊のようなものが視えるようになった訳ではないらしい。
「これから七日間、色々視えるようになったよ。三界の眼みたいなことはないけど、多分、ちょっと恐いと思う。手を洗って呪文が消えても、七日間はずっと視えたままだからね」
鍵の番人はベッドの上で、黒猫に変えた使い魔を抱き寄せながら言った。
通訳者が居なくなった政晶は、黙って頷いた。
何も視えていない件について聞きたかったが、諦める。
〈灯〉が隅に置かれた壺に歩み寄る。
もう何度も聞いた呪文を唱え、水を生き物のように操り、政晶と自分を洗った。
二人の手に残る滲んだインクが、跡形もなく流される。
「暗くなったらお外に出ちゃダメだよ。穢れに引き寄せられたよくないモノが、色々集まってるからね。明日からは一日中だし、今日はもう練習しなくていいよ。おやすみ」
鍵の番人に有無を言わさぬ調子で言われ、政晶はたどたどしい湖北語で「おやすみ」とだけ返した。
使い魔のクロは、子供のだっこが不満らしく、頬の毛を膨らませている。
「まぁ、外で視えるモノは、直接手出しはしてこないから、心配ない。気をしっかり持って、無闇に恐がらなきゃ平気だ」
政晶の背中を軽く叩き、〈斧〉が元気付けるように言った。
大きく力強い手と温かな声に、政晶は思わず笑みが零れた。
……明日からみっしり練習か……しんどいやろなぁ。
荷物の中から、赤穂にもらったお守りを出し、上着のベルト穴に括りつける。
その日はいつもより時間を掛けて、赤穂用の記録をつけて眠った。




