46.宿屋
政晶はうんざりして鍵の番人を見上げた。
生前の建国王を知る者の一人。どう見ても子供だが、歴史の生き証人。
徽章は、呪医を表す【飛翔する梟】だ。
偉大な導師は、馬の背に揺られ、眠そうな目で前を見ていた。
視線の先には大通りが続き、その遥か先に城壁が聳えている。
……えーっと……徒歩は大体、時速四キロで、五時間言うことは……二十キロか。
その程度なら、陸上部時代に毎日ランニングしていた。
ブランクはあるが、問題はない。慣れない革靴で足が痛むが、こればかりは仕方がなかった。
政晶はなるべく足のことを考えないように歩を進めた。
昼を少し過ぎた頃、城壁の足元に到着した。
靴擦れの皮がめくれ、足を動かす度に痛む。
政晶は周囲に覚られないよう、表情を殺して歩いた。
宿屋に入る。騎士二人と馬番が手分けして馬から荷を下ろす。
政晶は雪紋の騎士たちに連れられ、鍵の番人、クロエと共に中に入った。
鍵の番人がカウンターの椅子によじ登ろうとする。文官風の騎士が抱き上げて座らせた。
店主が愛想よく挨拶する。
ここは食堂らしい。昼を過ぎたせいか店内の人影は疎らだ。
「こんにちは。一泊でいいんだけど、二部屋空いてるかな?」
「えぇ、空いてますとも。お昼はもう食べましたかい?」
「お昼も頂戴。明日は夜が明けたらすぐに出るから、宜しく」
「はいはい、わかりやした」
鍵の番人が椅子から飛び降りると、給仕の少女が席に案内する。
荷物を持った騎士が合流し、一行は一番奥の席に落ち着いた。
……えーっと……えっ? あれっ? 行き当たりばったり? 予約なし? そらまぁ、電話もネットもないけど……部屋空いてなかったら、どないする気やったんやろ?
〈何事もなければ空いておる。案ずるでない〉
建国王が政晶の心配を打ち消す。
ここは、行商人や近隣の農村から食料品を運ぶ者たちの宿だ。食堂の客は旅装の者ばかり。
鍵の番人が杖を食卓に立て掛け、政晶に向き直った。
「靴擦れしたんですね」
「えっあっ、あぁ、はい」
政晶が反射的に頷くと、鍵の番人は朗々と呪文を唱え始めた。
童歌のような不思議な抑揚を付け、古い言葉を紡ぎ出す。
食後の一休みをしていた客達たちが集まってきた。
政晶は、店中の注目を浴びて逃げ出したくなったが、鍵の番人は構わず詠唱を続ける。政晶の体をあたたかい何かが包み込む。体の中心から隅に向けて力が広がり、両足の踵から痛みが引いていった。
詠唱が終わると、客の一人が近付いてきた。
「一昨日、爪が割れて痛かったんですよ。助かりました。ありがとうございます」
農夫らしき男が、節くれだった右手を見せながら礼を述べた。
鍵の番人は無邪気な笑顔を向けて、頷いた。
〈声と魔力が届く範囲内にいる生物の軽い傷を癒す術だ。食堂内の者は皆、癒された〉
建国王の剣が説明する。客達は口々に礼を述べ、席へ戻った。
政晶が礼を述べ、クロエが訳すと、鍵の番人は笑みを消した。
「これが私の役目ですから、お気になさらず」




